「初代うたのおねえさん」イメージ守るために受けた“私生活の徹底管理”
「栄養失調の子どもも多いような、食料も薬なども不足していた世の中。冬に私が肺炎になりかけると、母は鍋に湯を沸かして看病してくれました。その母も、若いころに歌を習っていたようです」 終戦後、小4で東京へ戻り、千代田区立永田町小学校へ転校。ここで、前出の恩師と出会う。 「音楽を教えていた大津先生が子ども合唱隊を作っていて、私もメンバーに抜擢されました。当時、学校から歩いていける場所にNHKの放送局があり、合唱コンクールの課題曲などを歌いました。 麹町中学校時代に戦後初めての本格的音楽映画『ファウスト』が日本にきて、父に連れられ有楽町の映画館で見たのですが、感動して、『クラシックというものをやってみたい』と思ったんです」 その願いを持ち続け、都立駒場高校へ。 「当時、駒場は都立で唯一学区制がなく、音楽専科があったんです。芸術科音楽コースの定員はわずか20人で、さらに声楽専攻は6人だけ。入学後はまさに音楽づけ。だから、私は数学などは本当に基礎しかわからないの(笑)」 卒業後は、迷うことなく東京藝術大学音楽学部声楽科へ。 「入学後、歌のお仕事の声がかかるようになりました。1年生の夏休みには、お昼のワイドショー『奥さまスタジオ』で初めてアルバイトで歌ったり。銀座にあった日航ホテルのミュージックサロンにもシャンソンで出演しましたね」 同じころ、彼女の歌声を耳にしたNHKスタッフから、「新しい子ども番組を作るのでオーディションを受けませんか?」との誘いが。 「歌をきちんと歌える場所があるのなら、やってみよう」 新人の登竜門的企画だった『歌の広場』のニュー・ボイスに選ばれたのが大学3年。同時に『おかあさんといっしょ』(当時は『うたのえほん』)の「うたのおねえさん」のオーディションにも合格する。ところが、この快挙が、アルバイト禁止だった藝大で教授会を巻き込んだ大問題に。 「諦めかけていたとき、NHKからの嘆願書もあって、なんとか許可が下りました。そのときの大学側の条件が、『この先1年間の欠席と、他番組の出演は認めない』というものでした」 こうして’61年4月、初代うたのおねえさんに就任。これは、戦後始まったラジオ番組『うたのおばさん』のテレビ版で、放送は朝8時30分から40分まで。このわずか10分間の番組が、テレビ時代の到来と足並みをそろえ、日本中の子どもたちに元気と夢を与えていく。 「収録は1日4曲で、3日分ずつ撮っていました。だから、まず歌を覚えるのがたいへん。撮影自体も10分間カメラを回し続けて、時間ぴったりに収める生放送と変わらないスタイル。録画テープが当時は貴重品で、中断して無駄にすることは厳禁だったんです。 番組冒頭の『おはようございます』から『さようなら』まで、一気に収録が進んでいく。今、考えたらゾッとしますけど(笑)」