太平洋戦争のさなか、「オーストラリアの捕虜収容所」で蜂起した「日本の軍人たち」の壮絶な体験
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! 今回は戦争中、オーストラリア・カウラ捕虜収容所で日本軍捕虜が蜂起、捕虜231名と豪州兵4名が死亡した「カウラ暴動」の生還者の話をしよう。蜂起するか否かは捕虜の間で投票で決められたが、「それでも日本人か」という声の大きな側の雰囲気に流され、多くの者は自らの意志とは裏腹に賛成票を投じてしまったという。
飛行艇搭乗員にしてカウラ暴動の生き残り・高原希國
冴え冴えと晴れた満月の夜空に、ときならぬ突撃ラッパが鳴り響いた。オーストラリア東南部のニュー・サウス・ウェールズ州、シドニーの西方約300キロに位置するカウラ・第12捕虜収容所Bキャンプ。南半球では真冬となる、昭和19(1944)年8月5日未明のことである。 赤い囚人服を着た約1100名の日本人捕虜たちは、施設に一斉に火を放ち、手には思い思いに野球のバットや食事用のナイフを持って、雄叫びを上げながら、三重にめぐらされた鉄条網を、赤い川の流れのように乗り越えていった。 オーストラリア軍の機関銃が火を噴き、赤や黄色の曳光弾が横殴りに激しく飛び交う。捕虜たちはバタバタと斃れ、屍の山を築いてゆく。 ――太平洋戦争の裏面史を飾る出来事として知られる「カウラ暴動」。偽名の船員・高田一郎を名乗った高原希國は、その渦中に加わっていた。 高原は大正9(1920)年、兵庫県姫路市に生まれた。神戸二中(現・兵庫県立兵庫高校)では野球部に入って三塁手・キャプテンを務め、のちに巨人軍のエースとなる京都商業学校の沢村栄治と対戦したこともある。大西洋単独無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグに憧れて飛行機乗りを志し、昭和13(1938)年、海軍甲種飛行予科練習生に二期生として入隊、偵察員としての教程を経て、飛行艇搭乗員となった。 昭和15年10月11日、横浜沖で挙行された「紀元二千六百年記念特別観艦式」で、佐世保海軍航空隊司令・三浦鑑三大佐が搭乗する九七式大型飛行艇(九七大艇)の一番機に電信員として乗り、大艦隊の上空を527機の飛行機の先頭を切って飛んだのが、海軍でもっとも記憶に残る出来事であったという。 開戦時は、九七大艇で編成された東港海軍航空隊の一員(一等飛行兵曹)として、前進基地のパラオ島を拠点に、偵察飛行などに任じたが、日本軍の緒戦における破竹の進撃にともない、ダバオ(フィリピン)、ケマ(セレベス島北部)、アンボンと転戦。飛行艇では日本海軍で唯一の例となる敵巡洋艦への雷撃(魚雷攻撃)に出撃したこともある。 「ものすごい対空砲火を浴びました。魚雷? そんなもん、当たれへんがな」と、高原は言う。