日本が集めてきた貴重な陶磁器が中国に流出の危機…!「森のたまご」のイセ食品破綻で起こる美術界の大混乱
数十億円に達するものも
中国陶磁器の名品が日本に流入するようになったのは、中国で10世紀半ばに成立した北宋朝との貿易が盛んになった平安時代中期のこと。12~13世紀の南宋朝時代には龍泉窯(浙江省)の青磁や吉州窯(江西省)の天目茶碗、景徳鎮窯の青白磁など、各地で製造された端正で典雅な陶磁器が日本に伝わった。 中でも景徳鎮は官窯(中国宮廷の窯)の中心地として発展、宋朝から元朝にかけての「影青」と呼ばれる青みを帯びた白磁は名品として名高い。また元朝では、イスラム圏からコバルト顔料を用いた鮮やかな染付技法が流入、色彩にバラエティ感が生まれた。 次の明朝では景徳鎮に置かれた御器廠(最高級の御用品を製造する宮廷直営工場)で宮廷用の陶磁器が製造される一方、16世紀半ばには御器廠の製造を補うため、官窯製品の製造が民窯に委託され、景徳鎮の民窯では金襴手(赤絵や色絵の上に金彩を施す装飾技法)や芙蓉手(開花した芙蓉を模した装飾技法)が製造された。 官窯は明末清初に一時衰退するも、清朝の康煕年間には景徳鎮の御器廠が再開されて端正な宮廷用の陶磁器を製造。その技法は続く雍正年間と乾隆年間に頂点を極めたとされている。 「景徳鎮は徹底した分業制。明代には採土、成形、焼成、加飾など大きく8つの分野に分かれ、それぞれが独立した工房に分担されました。景徳鎮の裏の高嶺山で産出される白い土は鉄分の含有量が低く、粘性と耐火度が高いので、繊細な白磁に適している。 普通の土は焼いていると800度から1200度で崩れてしまいますが、高嶺土は1300度以上の高温で焼いても崩れず、その分硬くて薄い磁器を製造できる。窯のレベルが全く異なり、完成までに大変な手間暇がかかるので、王朝の支援なしではとても作れない。値段が極めて高いのも当然で、一枚数十億円するものもある西洋絵画と同じ値段が付いても不思議ではありません」(別の都内の古美術商)
最後のコレクター
そして清朝が英国とのアヘン戦争に敗れたのを機に、清朝の宮廷が所有していた世界トップレベルの陶磁器が欧米諸国や、江戸末期から明治初期の日本に入ってくるようになった。 「当時の日本の美術商の目利きレベルは非常に高く、彼らのアドバイスを受けた細川家や岩崎家など名立たる名家が、日本に流れてきた中国陶磁器の名品を次々購入しました。そんなトップレベルの中国陶磁器のうち、特にレベルの高いものを収集したのが総合商社『安宅産業』(1975年に経営破綻、77年に伊藤忠商事が吸収合併)社長の故・安宅英一さん。『世界に冠たる中国陶磁器の宮廷コレクション』の誉れ高い安宅コレクションです」(同前) 安宅コレクションは後漢から明に至る、約1600年間の中国宮廷コレクションの名品揃いだ。戦前は世界各国の美術館に散り散りになっていたものを、「狂気と礼節のコレクター」と呼ばれた安宅氏が自身の審美眼で選りすぐり、世界初の宮廷コレクションを組成した。 そのレベルの高さは焼き物の「バイブル」とも称され、安宅産業の経営破綻後は、同社の主取引銀行の住友銀行(現・三井住友銀行)を中心とする住友グループ21社により大阪市立東洋陶磁美術館に144点が寄贈された。 「そんな安宅コレクションに憧れて、昭和30年代から50年代にかけ、出光興産創始者の故・出光佐三氏らが宮廷コレクションの収集に力を入れたものの、同氏の死去とともにその流れが途絶えてしまった。伊勢氏はそうした逸品を引き継ぐ『最後の陶磁器コレクター』なのです」(美術業界関係者) (後編『最大で150億円の取引になる可能性も…中国人富裕層が狙う「イセコレクション」高級陶磁器の行方』に続く)
週刊現代(講談社・月曜・金曜発売)
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