『映画クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』を『ジュラシック・パーク』オタクが解説
子供向けなのか大人向けなのかわからない内容に困惑?
・子供向けなのか大人向けなのかわからない内容に困惑 正直、筆者としても恐竜描写がどれだけ面白くても気になるのは、一つの作品としての出来だ。例えば平成を代表する曲の起用など、節々に本作のメインターゲット(子供)ではなく、その親世代を意識している演出が多い。そもそも、『ジュラシック・パーク』のオマージュだってそうだ。子供向けの映画に、大人も楽しめるジョークを忍ばせること自体はピクサー・アニメーション・スタジオやイルミネーション・スタジオ作品など海外のアニメ映画にも多く見受けられ、珍しいことではない。一方、映画の中のギャグシークエンスの馬鹿馬鹿しさも含め、ちゃんと「子供向け映画だな」と感じられる場面も多い。しかし、それでも本作の節々から感じる“ビターさ”が本作の方向性(子供向けなのか大人向けなのか)を見失わせ、観客を困惑させるのだ。 その最たる例が、「ナナの死」を以って騒動が幕を閉じる結末である。正直、子供向けの映画で殺すとは思わず、大人の私も製作陣のその選択にビビってしまう。流石にエンドロール後に“ナナと住むために作ったように思える第二のコテージ”が出てきた時には「実は生きていました」ということにして物語を終わらせるのかとホッとしたのも束の間、ビリーが写真に向かって話しかけるだけでナナは全然死んだままだった。研究の渦中、偶然生まれた唯一の本物の恐竜ナナをこれから『クレしん』の世界の中でどう扱えばいいのかわからない。ナナの死は、そんな脚本上の安易な選択でしかない。そこには子供たちに向けられる道徳的なメッセージ性も弱く(強いていえば、人間のエゴで生命を生み出すという神の真似事をしてはいけないということなのだが)、ただ悲しさだけが残されてしまのではないだろうか。ナナの目の前で親の(立ち位置である)スピノサウルスが真っ二つにされて動かなくなった描写も、ただ残酷なだけのように感じた。そこから生まれるナナの復讐心や闘争心などの複雑な感情も子供にはまだ早いかもしれないし、難しいかもしれない。特に本作のヴィランであるオドロキーの動機や、それを描いてもなお最後まで子供達との和解が許されないエンディングは、あまりにもビターすぎる。 夏休みファミリー映画として、腹を抱えて笑うには少しビターで、真面目に観るには支離滅裂で力の弱い脚本に困惑してしまう。しかし、恐竜描写に対しては興味深いものがたくさんあって見応え抜群だ、というのが本作の最終的な印象である。「子供には暗いかも」なんて書いてきたが、筆者の私だって子供の頃は『ジュラシック・パーク』を通していろんなことを学んだし、今はかつて子供だっただけの大人で、現代を生きる子供の本当の気持ちがわかるかというとわからない。つまりそれくらい、子供向けのファミリー映画を作ることは難しいのだと実感させられるのだ。
ANAIS(アナイス)