大熊町内の古跡巡り(12月8日)
大熊町のおおくまふるさと塾の主催で、月に一度、町内の古跡巡りが行われている。令和六(二〇二四)年九月十九日には、町の南西部に位置する大川原地区を対象に、午前十時から午後三時まで、途中、一時間の昼食休憩を挟んで行われた。とても中身が濃く、大川原のことをたくさん学ぶことが出来た。 大川原の地は相馬の領地の南端に位置し、岩城の領地と境を接していた。また、三春に向かう街道が地区内を通っていたため、大川原は相馬にとって極めて重要なところになっていた。 この地に家臣を配置し、守りを固める必要があると考えた相馬の殿様は「山は百五十町歩まで自由に使ってよい。年貢は軽くする。馬を買う際には金を貸す」などの特典を与え、多くの家臣を大川原に住まわせた。 また、大川原は他の地区から遠く離れていたため、全てのことを自分たちの力で賄わなければならなかった。酒屋や醤油屋、油屋、鍛冶屋、馬の鞍屋、畳屋など、人々がさまざまな生業を分担し、それに励み、後には相馬の殿様から、「土地も悪く、狭がったのに田畑を耕し、裕福に暮らしている。蚕を置いだり、馬を養ったり、知恵を出し合って、みんなが良く働く」(「木の根坂藤兵衛」・『おおくまの民話』所収)と褒められるまでになったという。
しかし、裕福の地であっても、大川原では毎年、「疫病が流行って、死人が出た」(同前)という。 大川原に暮らす石田藤兵衛は疫病から人々を救おうと、さまざまなことを試みたが、一向に効き目がなく、ついには自らも病魔におかされ、「この世ででぎねがったごどを、あの世で続げでえど思うがら、俺が死んだら、ヨロイカブトを着せで、八幡ベイを持たせで、村の鬼門の木の根坂さ、俺を埋めでくれ」(同前)と言い残し、この世を去った。 史跡巡りでは大川原の鬼門、木の根坂の山道を登り、藤兵衛の墓を訪ね、藤兵衛が亡くなったのは元禄十(一六九七)年のことだったという説明を受けた。 また、この日は大川原の南西、かつての街道脇に立つ百万遍の石塔の見学もした。その場で、この石塔が安永八(一七七九)年に建てられたとの説明を受け、さらには石塔のいわれを伝える民話「手倉の辻繰り」(『おおくまの民話』所収)の朗読も行われた。 大熊町を含む福島県浜通りの双葉地方は、平成二十三(二〇一一)年三月、東北地方太平洋沖地震の後に発生した東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故によって汚染され、立ち入りが制限される地域が設けられた。それらの地域は、今も、多く残されている。
このような状況のなかで、地域の歴史や民俗などを後世に伝え、残していくのは、なかなかに難しい。しかし、難しいから、それをやらないという理屈は通らない。おおくまふるさと塾の皆さんと一緒に、一日、大川原の古跡を巡り歩いて、強く、そう思った。 (夏井芳徳 医療創生大学客員教授)