じつは残酷な「日本古代史」 古事記・日本書紀に描かれた雄略天皇の「ウラの顔」とは?
古事記・日本書紀(記・紀)においては、兄の手足をもぎ取るなど、ヤマトタケルの残酷な所業も記されている。タケルというのは「猛々しい」の意と考えられるのだが、同じくタケルと称されたワカタケル(雄略天皇)についても、荒々しい「殺し」の様子が描かれているのだ。どういうことか、みていこう。(「歴史人」2024年4月号から一部を抜粋・再編集しています) ■だまし討ちや残酷な殺害は責められるべきものではない さて、タケルと称されたのはヤマトタケルだけではない。注目すべきは、タケルの名がついた天皇がいることだ。すなわち、記紀にはワカタケルという名の天皇が登場する。ワカタケルとは、雄略天皇のことである。 この雄略天皇は、記では「大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)」、紀では「大泊瀬幼武天皇(おおはつせのすめらみこと)」と表記される。ちなみにワカタケルは、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文にも「獲加支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」と表記されている。 記・紀ではこのワカタケルが即位する前に、兄クロヒコ(黒日子王/坂合黒彦皇子)やシロヒコ(白日子王/八釣白彥皇子)や、父を殺したマヨワ(目弱王/眉輪王)、ツブラ(都夫良意冨美/円大臣)、イチベノオシハ(市辺忍歯王/市辺押磐皇子)を残酷な方法で殺害している。 記において、ワカタケルは最初に登場した際にはヤマトタケルと同様にオグナであったと記されており、父が殺されたのに立とうしない兄達の襟首をつかんで、刀を抜いて打ち殺している。 その場面は、ヤマトタケルがクマソタケル兄弟の兄の衣の衿をつかんで殺害する場面とも共通しており、少年ワカタケルの荒々しい気性を描いている。 古代においては、だまし討ちや残酷な殺害は、必ずしも倫理的に責められるべきものではなかった。それを肯定するつもりはないが、古代の歴史を考える際には、古代人の価値観に向き合う努力が必要なのである。 監修・文/森田喜久男 歴史人2024年4月号「古事記と日本書紀」より
歴史人編集部