「人に迷惑かけてへんやないか。汚い真似をするな」広岡達朗の参謀に激怒…伊勢孝夫が明かす“優勝翌年、ヤクルト崩壊”のウラ側「やり方が陰湿すぎた」
広岡達朗は参謀を擁護「森は憎まれ役の名人」
後に広岡自身も「私はそんなことは頼んでいないけれど、それだけ熱心に選手たちのことを考えていたのだろう」と、森のことを擁護している。それは、「言った」「言わない」の水掛け論であり、真相は藪の中ではあるが、それでも伊勢は「広岡さんの指示ではない」と、今でも信じている。ちなみに、広岡の自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)には、森についてこんな記述がある。 《しばらくは味方の選手に憎まれ、そしてつぎは巨人の選手に憎まれながら、彼はチームから巨人コンプレックスを一掃する上に大きな役割を果たした。私はかつて、森のような“憎まれ役の名人”を見たことがない。》 伊勢の話はさらに続く。福岡から長崎に移動した、その翌日のことだ。 「長崎では、グラバー邸を下りたところにあるホテルに泊まりました。部屋に着いたら冷蔵庫にビールがある。練習が終わって、“部屋でビールでも呑もうか? ”となって、若松の部屋を訪れた。若松に、“ちょっとシャワーを浴びるんで、先に呑んでてください”と言われて、冷蔵庫を開けたら、中は空でした。そこで調べてみると、森さんの指示で全員の部屋の冷蔵庫が空になっていました」 チームが勝利している間は、それでもまだ我慢ができた。しかし、負けが続き、チームのムードが停滞してくると、日々の不満がマグマとなって一気に噴き出してしまった。その矛先となったのが森だった。 「森さんも、決して“広岡さんを引きずり落そう”という思いでやったのではなく、よかれと思っての行動だとはわかっています。でも、あまりにもやり方が陰湿過ぎた。ミーティングでもグチグチ、グチグチ言い過ぎた。選手たちの不満の矛先は、決して広岡さんに対してじゃなく、森さんに向けてのものだったと、ワシは思います」
「広岡さんにとがめられたことは一度もなかった」
広岡が求める厳格なスタイルは「管理野球」と称された。確かに、食生活、睡眠など、日々の生活全般に及ぶ指示は、選手たちにとっては鬱陶しいものであったのも事実である。それでも、伊勢は「広岡に対する不満はない」という。 「もちろん、広岡さんが監督だった時代は、大手を振って酒を呑むことはできなかったけど、だからと言って、まったく吞めなかったわけではないし、実際にみんな隠れて呑むこともできました。外に行って、店で呑んできたって、黙認していることもありました。あれは、僕だから言わなかったのかな(笑)。いずれにしても、とがめられたことは一度もなかったからね」 本連載、伊勢孝夫編第1回で述べたように、伊勢はしばしば広岡に「飲酒場面」を目撃されている。けれども、一度も面と向かって叱責されたことはなかった。広岡と伊勢との関係は77年シーズンから始まり、78年の日本一を経て、79年のシーズン途中までで、ひとまずの終焉を迎えた。それでも、その後も両者の関係は断続的に続くことになる。 「後にワシは、ノムさんの下で徹底的に野球を学んだけど、広岡さんからも多くのことを学びました。両者は似ているところと、まったく似ていないところと、それぞれありましたね……」 野村克也の参謀として、1990年代の黄金期を支えた伊勢の口から「広岡と野村の比較論」が飛び出した。改めて、質問を重ねることとしたい――。 <伊勢孝夫編第4回/連載第32回に続く>
(「「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズ」長谷川晶一 = 文)
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