「人に迷惑かけてへんやないか。汚い真似をするな」広岡達朗の参謀に激怒…伊勢孝夫が明かす“優勝翌年、ヤクルト崩壊”のウラ側「やり方が陰湿すぎた」
広岡達朗による改革が実を結び、1978年に球団初の日本一に輝いたヤクルトスワローズ。だが翌79年、チームは最下位に転落し、広岡も監督の座を退くことになる。黄金時代の到来を夢見ていたチームは、なぜあっけなく崩壊したのか。「よかれと思っての行動だとはわかっています。でも、あまりにもやり方が陰湿過ぎた」――ベテランとしてチームを俯瞰していた伊勢孝夫が、独自の見解を述べた。(連載第31回・伊勢孝夫編の#3/#1、#2、#4へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時 【貴重写真】鬼と呼ばれた広岡達朗「笑顔でもちょっとコワい…」監督時代のレア写真。ヤクルト初優勝“代打の切り札”の「俳優並にシブい現役時代」「79歳になった現在の姿」も見る(全15枚)
初の日本一の翌年、なぜスワローズは瓦解したのか?
左右の両エース・松岡弘、安田猛と、それを支える女房役の大矢明彦。さらに強力打線の中軸を担った若松勉、大杉勝男、チャーリー・マニエルらの活躍により、広岡達朗率いるヤクルトスワローズは創設29年目で悲願の日本一に輝いた。プロ16年目を迎えていた伊勢孝夫も、貴重な代打の切り札として「伊勢大明神」の二つ名に恥ずかしくない活躍を見せた。しかしその翌年、チームはあっさりと瓦解する。 「せっかく優勝したのに、翌年はチームがガタガタになってしまったでしょ」 伊勢の言葉にあるように、連覇を目指して臨んだ1979年シーズンは、開幕8連敗から始まり、チームはまったく浮上の気配を見せぬまま最下位に沈んだ。前年、正力松太郎賞を獲得し、「名将」の名をほしいままにした広岡も、シーズン途中でチームを去ることとなった。一体、この年、スワローズに何が起きていたのか? 「やっぱり、森さんが原因だと思いますよ……」 伊勢が切り出した。彼が口にした「森さん」とはもちろん、広岡に請われて78年からスワローズ入りしていた森昌彦(現・祇晶)バッテリー・作戦コーチである。 「……チームがうまくいっているときはいいけど、それがうまく回らんようになって負けが込んできたら、選手というものはどうしても誰かに矛先を向けるものですよ。その矛先が森さんに向かったんです」 伊勢は淡々と続ける。 「試合後のミーティングで、森さんに集められる。そこでは、名指しで責められるんです。決して褒めるようなことは言わない。ミスをしてしまった選手自身、そもそも責任を感じているわけです。それなのに、その傷口に塩を塗るようなミーティングがずっと続く……。大杉なんか、カチンカチンにやられていましたよ。そうした不満が選手たちの中にいっぱい溜まっていったんじゃないですかね」
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