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「市名」まで変えたまち 丹波篠山のブランド戦略とは? 人々つなぐ、見えない「絆」

提供:兵庫県丹波篠山市

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兵庫県丹波篠山市が誇る一大ブランド「丹波黒大豆」の枝豆

2019年5月1日、新元号「令和」の始まりと同時に、兵庫県篠山市が旧国名を冠した「丹波篠山市」へと市名を変更した。合併を伴わない市名の変更は極めて珍しく、その是非を巡って住民投票が行われるなど、全国的にも大きな話題となった。変更の最大の理由は、農作物に代表される「丹波篠山ブランド」を守り、さらに発展させていくためだ。市名を変えてまで行う同市の「ブランド戦略」とは何なのか。また、農作物以外への展開はどうなっているのか。ブランドを生かそうと奮闘する人々のもとを訪ねた。

黒大豆の栽培風景。自然豊かな景観も、丹波篠山ブランドの一つ

「丹波」使えなくなる 危機感から市名を変更

「丹波篠山 山家の猿が 花のお江戸で芝居する ヨーォイ、ヨーォイ、デッカンショー」――。地元に伝わる民謡「デカンショ節」。同市が日本遺産に認定されたきっかけでもあるが、ここに登場する「丹波篠山」は、当時、自治体の名前ではなかった。

1999年、平成の合併第一号として篠山、西紀、丹南、今田の4町が合併し、篠山市が誕生。おせち料理の定番で日本農業遺産「丹波黒大豆」の産地であり、日本六古窯として日本遺産に認定された「丹波焼」の里、文化庁の「100年フード」で、イノシシ肉を使った「ぼたん鍋」発祥のまちなどとして知られている。京都と兵庫にまたがる旧丹波国の一部のため、デカンショ節にもあるように、これまでから通称として「丹波篠山」を使用してきた。

市名変更の大きな要因となったのが、2004年、隣接する同県氷上郡が合併して、「丹波市」になったこと。以降、丹波篠山が「丹波市と篠山市」や「丹波市の中にある篠山」などと誤解されるケースが出始めた。また、黒大豆などの特産に表示していた「丹波篠山産」の文字も、県から「どこを指すのかあいまい」として、「篠山市産」にするよう指導される。

こうした状況の中、「丹波篠山ブランドが消えてしまう」と危惧した商工会や観光協会、JAなどが市に対して、「丹波篠山市」への変更要望書を提出。市は市名変更の意思を決定したが、現状維持を望む市民もいた。そして、市民から住民投票を求める動きが起こり、2018年11月、住民投票を実施。投票率は約70%に達し、結果は変更に賛成が1万3646票、反対が1万518票と拮抗したものの、「市民みんなで決めたこと」として、改元に合わせた市名変更が実現した。

丹波篠山ブランドが直結する農業について語る大内さん。空中栽培のイチゴを収穫できる観光施設もオープンした

農家「うらやましがられる名」 若者も可能性感じ

黒豆は江戸時代から特産として文献に登場していることから、丹波篠山という名には、「食」や「グルメ」というイメージが付随してきた。黒豆だけでなく、特産の栗、山の芋、松茸などは、都市部に持ち込むと他産地と比べて値段が跳ね上がる。そのブランド力の恩恵を最も受けている農家は、市名変更やブランドについて、どのような思いを持っているのか。

米と黒豆を中心に生産する丹波篠山大内農場代表の大内正博さん(41)。「他の地域に行っても『丹波篠山』の名はうらやましがられる。丹波篠山産とうたえることはとても大きい」と言い、「先人たちが束になり、積み重ねてきた小さな努力があってこそ、ブランドとして確立されています」と感謝する。

「常に楽しそうに農業をしていた」という父の背中を見て育った。高校を卒業し、地元の農協に勤めた後、22歳から父の元で就農。26歳の頃に法人化し、代表の座を引き継いだ。若者が農業に可能性を感じられることも、高付加価値の農産物があるからこそと言える。

大内さんは現在、コシヒカリなどの米と黒豆を計65ヘクタールで栽培。弟・敬司さん(38)と共に、「丹波篠山の中で一番の規模にしたい」という夢を持って作付面積を年々増やしており、継業前と比べて10倍近くになっている。

ブランドに新たな価値を モノだけでなくサービスに注力

確立されている丹波篠山ブランドに新たな価値を付加すべく、作物という「モノ」だけでなく、観光農園での収穫体験という「サービス」の展開に注力。秋の黒枝豆の収穫体験には、ひと月で2万人が訪れる。2023年1月には、空中栽培するイチゴを収穫できる観光施設も開業。ブランドを生かしながらも、さらに発展させる活動を本格化している。

「お客様には時期によって枝豆の味が変わったり、天候によって不作の年があったりすることも伝える。そして、どういう地域で、どうやって作物が大きくなり、どういう人が育てているのかまで知ってもらう。そうすることで、農業だけでなく地域への理解も深まる。それがさらにブランドを向上させていくことにつながると思います」

丹波篠山ブランドを一言で言うならば、「『何を作ってもおいしい場所』というイメージを持ってもらえていること」。そして、「そのイメージも生かし、いずれは年間を通して観光体験ができるような施設にしたい」と夢を膨らませる。

「市名変更の効果は農業以外の分野にも波及しています」と語る田中さん

観光客過去最多を更新中 10月だけで約70万人

では、農業以外の企業や事業者はどう感じているのか。「ブランド戦略は私たちにとっても取り組むべき課題の一丁目一番地。地域が盛り上がれば、企業も繫栄する。業種に関係なく、オール丹波篠山で盛り上げていきたいですね」と語るのは、丹波篠山市商工会長の田中義治さん(55)。割烹「宝魚園」を営む料理人でもある。

同市は黒大豆が完熟する前に味わう「黒枝豆」のシーズンの10月、毎年、多くの人でにぎわう。その勢いはコロナ禍に入っても衰えず、むしろ増加。ここ数年、過去最多を更新し続けており、2022年10月には約70万人が訪れた。大阪や神戸などから車で約1時間という距離にあり、「密」を回避できることも要因だが、田中さんは、「市名変更の効果もあるはず。メディアに取り上げられる回数が格段に増えた。観光客が訪れることで、農産物だけでなく、飲食店などにも波及効果が出ている」と胸を張る。

黒枝豆シーズンの10月、多くの観光客が歩くまちなか。2022年10月は過去最多の約70万人が訪れた

ただ、黒枝豆の収穫期は10月の1カ月のみ。以前から観光客数は「一極集中」状態で、近年、さらにその度合いを強めている。昼食が食べられる店には行列ができ、「ランチ難民」も出現。「オーバーツーリズム気味になっている」との指摘もある。集中の原因は特産の多くが季節に関連した「原材料」だからだ。

「今の状況を会席料理に例えると、鮮度が命で、最初に出される『刺身』だけを目当てにされているようなもの。焼き物や揚げ物、デザート、つまり他のものを目当てにしてもらえていない」と田中さん。「また、ランチ難民があるにしても、1カ月だけのために事業者は出店できない。でも、年間を通して客があるなら店を出せる。刺身以外の目当てを作り、通年で人が来る状態に持っていくことが、今必要なブランド戦略だと思います」と語る。

その具体策として掲げるのが、農作物を加工する6次産業化のさらなる推進。原材料のブランドを生かし、どの季節に来ても食べられる商品の開発だ。これは農家だけでなく企業の取り組みになる。

また、商工会では質の高い商品や優れた技術・サービスを認定した「丹波篠山デカンショセレクション」を展開中。「食べ物だけでなく、いろんな商品やサービスなど、『丹波篠山の"ほんまもん"はこれです』と自信を持って出せるもの。丹波篠山という超一流の看板を掲げたのなら、さらに大事なのは中身。訪れた人々にずっとファンでいてもらうためには、あぐらをかかず、観光客の目線に立ち、本物を提供していくことが何より大事です。官民で協力して取り組みたい」と意気込む。

現在、商工会の会員は約1200人。コロナ禍を経ても、大きな変動はない。その要因には移住して起業し、会員になる人が増えていることがある。「移住の地に選んでもらえていることも、丹波篠山ブランドの力の一つじゃないでしょうか」。地元に生きる企業人として、地元の繁栄のために、ブランドを多方面で活用することが最重要ととらえている。

「私たちには『丹波焼』という守るべきブランドがあります」と語る市野さん

六古窯の一つ「丹波焼」 市名変更以前から戦略開始

同市今田町立杭(たちくい)地区などで生産される陶器「丹波焼」。瀬戸や常滑、信楽焼などと並ぶ日本六古窯の一つだ。その起源は平安時代末期にまでさかのぼり、800年の歴史は黒豆を上回る。今も50数軒の窯元が立ち並び、山々に囲まれた里に手仕事の妙が息づく。

この陶器にはかつて3つの呼び名があった。国の伝統的工芸品に指定されている「丹波立杭焼」のほかに、地区名だけを取った「立杭焼」。そして、旧国名を取った「丹波焼」。20年ほど前、窯元たちは丹波焼で統一した。

「わかりやすくすることや、立杭だけでなく広いエリアを範囲にしたこと、それに『丹波』のブランド力を生かすという思いもあったと思います」と語るのは市野伝市窯の窯元で、丹波立杭陶磁器協同組合理事長の市野達也さん(60)。窯元たちは、市名変更以前に自らの手でブランド戦略に取り組んでいたとも言える。

そんな立場から市名変更はどう映ったのか。「丹波焼を掲げてきた自分たちが、『丹波篠山焼』にすることはないです。なぜかというと、食べられないような時期もありながら、先人の不断の努力で乗り越えてきた焼き物。窯元には丹波焼というブランドを守っていくというプライドがありますから」

その高い誇りの土台になっているのは、陶業が「生業(なりわい)」で、ブランドを守ること自体が「生きていくため」ということだ。だからこそ思う。「私たちは丹波焼だが、市全体としてブランドを生かし、丹波篠山の名でPRしていくことはとても良いこと。丹波篠山に惹かれてやってきた人が丹波焼にも興味を持ってもらう、また、その逆など、連携はより深めていきたい」と歓迎する。

明治28年(1895)に造られた現存する丹波焼「最古の登り窯」を使った焼成風景。800年の誇りとブランドが輝く

鍵は「磨き続けること」 未来のためにこそ危機感

そんな焼き物の里は、今、活気づいている。コロナ禍によって自宅で食事をする人が増え、「器」に目が向いたことや、里を訪れた人がSNSで発信し、自然と宣伝してくれる。「陶器まつり」などのイベントも、コロナ禍を受けて例年の2日開催から密を避けるロングラン開催にしたことも功を奏し、来場者数や各窯元の売り上げは "上り調子"だ。「38年間この仕事をしてきて、今が一番幸せ。これも先人が苦労してブランドを磨いてきてくれたおかげです」と、その戦略の成功を実感している。

組合では昨年、産地をさらに活性化させていくために、初の中長期ビジョン「丹波焼クリエイティブ・バレー構想」を打ち出した。2025年の大阪・関西万博の「ひょうごフィールドパビリオン」にも名乗りを上げ、魅力を内外に発信する。「好調だからこそ、放っておいても誰かがやってくれるという考え方に一番、危機感がある。未来のためにこれからもブランドを磨き続けないと」

ブランド戦略という言葉について、市野さんは陶器を製造する工程を例に挙げる。「最初はただの土。それを成形し、焼いて、釉薬をかけて、美しい陶器に仕上げる。つまり、ブランドはあるだけではだめで、磨き続けないといけないと思うんです」

その点、黒豆の栽培には共通するものを感じるという。「黒豆も300年の歴史があり、うまく収穫できない時期もあったはず。でも農家の皆さんが必死になって技術を、そして、ブランドを磨き上げてこられた。だからこそ、こんなにも人気がある」。全く異なるジャンルだが、先人が紡いできた思いは同じだ。

市が実施した「GAP調査」の結果。市名変更後、黒豆のイメージは40%増加した

戦略成功は市民の「自慢」が増えること

丹波篠山市は2021年、首都圏などの大都市圏に住む1000人を対象にした意識調査「GAP調査」を実施。市名変更後のイメージの変化については、「丹波」の名を冠したことが要因か、「黒豆のイメージ」が40%近く上昇した。

このブランドを生かし、さらなる醸成を図っていくため、市ブランド戦略課が組織された。同課は、「地域ブランドとは、その地域が長く続いていくため、単に"高い"だけではなく、自信と伝統で積み上げてきた品々を認めてもらうことで、また担い手が育っていくというものだと思います」と語る。

同課が展開しているのは、市外へのPR活動とともに、市内向けの「シビックプライド」の向上。日本語にすれば「市民の誇り」であり、もっと簡単に言うならば、「自分が暮らすまちを自慢できる」という意識づくりだ。

同課は言う。「これまでは、まちの自慢できることを聞かれて、『黒豆』と言っていた人が、『黒豆だけやない。ほかにも良いお店や丹波焼があって』と、たくさんのことを自慢できるようになる。そんな人々が暮らすまちに惹かれて、市外の人もやってくる。後継者も育つ。このサイクルを作ることが、ブランド戦略が成功した時だと思っています」

黒豆などの農作物や丹波焼、魅力あふれる企業、さらには2つも国の重要伝統的建造物群保存地区がある。そのどれもが、「丹波篠山」という名のまちの中に存在していて、それぞれに誇りを持った人々が一生懸命、それぞれのブランドを磨いている。

「丹波篠山ブランド」という箱の中にさまざまなものが入っているというよりも、このまちではぐくまれるものたちを、目に見えずともつないでいる「絆」こそが丹波篠山ブランドなのかもしれない。

丹波篠山市は大阪・関西万博を見据え、近畿経済産業局から「地域ブランド支援モデル地区」の一つに選定され、ブランド磨きの支援が展開されている。飛躍に向け、大きなチャンスが到来している。