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静寂に包まれた夜の町に
10年10カ月ぶりの明かりが灯った。
東京電力福島第1原発事故の被災自治体で、唯一全住民の避難が続く福島県双葉町。事故前は約7千人が暮らしていたこの町で、自宅などでの宿泊が特例的に認められる「準備宿泊」が1月20日に始まり、この日は4世帯5人が参加した。立ち入りが制限される「帰還困難区域」は、今なお福島県内の7市町村で指定されているが、住民たちは復興に向けて少しずつ歩みを進めている。
一方、2011年3月11日に起きた東日本大震災による避難生活を続ける人が、全国に約3万8千人、そのうち福島県からの避難者が約2万6千人いる(22年2月8日現在)。
「まだ浪江町から住民票を移してはいないんです。
なんとなく負けたような気がするというか」
ある避難者の言葉だ。震災から11年。いまだ続く避難生活とはどのようなものなのか。復興の現在地はどこにあるのか。ユーザーからのコメントを足がかりに、復興への道のりを考えた。(取材・文:Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
Yahoo!ニュースが1月に公開した記事のコメント欄で、災害時の避難経験や福島の復興についてユーザーにたずねたところ、約270件のコメントが寄せられた。災害に日頃から備える大切さや、壮絶な被災体験を伝える投稿があった一方、避難所の利用をためらう声もあった。
福島については、被災者への励ましの言葉のほか、今も避難する人からの投稿があった。「おそらく一生消えない思いを背負っていくのだと思います」と複雑な胸の内を記していた。
大雨と台風で避難は2回しました。動物がたくさんいて、どこの避難所もペットの受け入れができず、車の中か、義実家の選択に。義理の母は動物が好きではなく、ためらいましたがそれしかありませんでした。自宅に被害はありませんでしたが、雨のたび恐怖です。長期避難となればストレスや苦痛は計り知れないと思います。福島の方々は今も多くの方がそういう状況にあると知り、1日でもはやく皆さんが幸せに暮らせる日がきてほしいと思っています。
東日本大震災被災者です。避難所はいっぱいだったこともあり避難しておりません。築浅のマンション住まいであったため、余震におびえながら家族全員で川の字になって一夜を過ごしました。自宅で何とかなる方は他の方を優先すべきだと思いました。アウトドアが趣味だったため、ポリタンクやカセットコンロ、寝袋、ランタンなど、とても役立ちました。また会社では必ず非常食セットを支給してくれており、とても助かっています。
避難してきて、ここさいたま市が気に入ったと移住してくれたご家族が近所にいます。とても明るく朗らかで、普段は避難の苦労などみじんも見せないご家族です。高台に立つうちのマンションからは遠くに山が見えるのですが、初めてそれを見た時にきっと福島の山だと涙されました。転勤族の子として育ち、明確な故郷を持たない私には衝撃的でした。理不尽に追われた方の心境を本当の意味で私が理解することも、軽々しく復興や移住についての提案をすることもできないと思い知らされました。
松崎真希子さんは震災時、家族7人で自宅のある福島県浪江町から東京に暮らす夫の姉妹の元へ避難した。その後、板橋区の都営成増団地に暮らし、現在は購入した一軒家に夫とその両親と住んでいる。11年前に学生だった子どもたちは、東京で就職した。浪江町の自宅近辺は帰還困難区域に指定され、今も住むことはできない。
2011年4月中旬、浪江町の自宅周辺がバリケードで封鎖されると聞いた松崎さんは、夫とともに一度、自宅に戻った。
「雨がっぱを二重に着て、足にも靴の上からビニール袋を二重に履き、ゴーグルとマスクをして、頭にはシャワーキャップをかぶって、手袋もして。30分以内なら大丈夫とうわさに聞いたので、大事なものだけ取りに行こうと思いました。でも、いざ行くと何が大事なのか分からない。銀行関係の書類とか子どものものを持って、20分くらいで出ました」
現在、自宅の周りには緑が生い茂って、家が木々に埋もれているような状態だ。一方、帰還困難区域を除くエリアでは復興に向けた建設工事が進んでいる。昨年、松崎さんはお墓参りの際、「道の駅なみえ」を見た。
「子どもが通っていた小学校、中学校も取り壊されていますし、新しい建物が建って、景観はすっかり変わっています。私の知っている浪江町ではないですね。11年間は生活するのに一生懸命で、あっという間でした。ただ、まだ浪江町から住民票を移してはいないんです。長年住んだ家の住所が消えてしまいますし、なんとなく負けたような気がするというか。移したくて移すわけでもないのに、と思うんですね。夫は長男なので、お墓は守らないといけないと思っています」
今里雅之さんは原発事故の直後、妻とともに福島県富岡町から横浜市の長女の元へ避難した。長女が引っ越し予定だったマンションに仮住まいのつもりで住み始め、現在に至る。
「すぐに帰れると思っていたんですよ。双葉町で建設会社に勤めていて、『原子力明るい未来のエネルギー』という看板をいつも見ていました。そういう安全神話の中で生活していたので、『まさか』でした」
富岡町の自宅は居住制限区域だったが、2017年4月1日、避難指示が解除された。環境省による被災建物の解体除染は期限があるので、自宅の解体を決めた。
「年に何度か家を見に行きましたが、窓が割れていて、ネズミの死骸があったり、動物の荒らした跡があったり。泥棒が入った様子もありました。昔は庭で藤やブルーベリーを育てるのが楽しみだったんです。その庭もジャングルみたいになっていて。家も街も住める環境ではないので、このタイミングで壊すしかないなと。終のすみかのつもりでしたから、切なくてね。取り壊しの途中はとても見に行けなくて、更地になってから行きました」
取り壊し後は自宅跡地の管理が重荷になっているという。除草などもしなくてはならないし、減免されていた固定資産税が2021年度から満額負担となる。
「帰る選択肢を捨てたわけじゃない。帰るか帰らないか、気持ちは半々です。避難当初は孤立感が大きく、そんな中で私も妻も体調を崩し、通院する生活になりました。みんなあちこちに分散してしまって、寂しいと思うんですね。だから、避難者の人たちが集う機会を継続的に作っています」
福島からの避難者が全国に2.6万人
『復興完了』はいつだろう
30年から40年かけて放出見込み
希望者全員が帰還できるよう
必要箇所を除染
福島県外で処分することが
法律で定められている
関谷直也さん
東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センター准教授/東日本大震災・原子力災害伝承館上級研究員
東京電力福島第1原発事故による原子力災害において、その被害の過程は長期に及びました。震災前と同じ状態に戻ることは困難です。「復興」を、震災前と同じ状態に戻るという意味で捉えるならば、復興が完了するということは「ない」と思います。被害の様相が固まり、復旧をどう組み立てるかが見えるまでさえ、数年かかりました。数年間、状況が定まらない間に人々は各方面に避難し、多くの人が避難先で生計を立て、生活を営んでいます。
新しくできた商業施設も、小中学校でさえも、震災前と同じ人口規模を前提にしているわけではありませんし、被害を受けた人全員が戻ってくることを前提にしているわけではありません。ただ、移住されている方もいます。2011年以前のコミュニティ、つながりを大切にしつつも、震災前とは異なる、新しい地域のビジョンや未来像を作り、それに進んでいくことが復興なのだろうと思います。
福島県の災害被害は非常に多様で、帰還の時期もそれぞれの地域で異なります。一言で「被災」と言っても、災害に対して共通の経験を持つことができないということが当初からの課題としてあると思います。
自然災害に限っても、津波の大きな被害を受けた南相馬市、浪江町、富岡町、相馬市、いわき市のほか、地震の大きな被害を受けた地域、須賀川のように地震による土砂災害が発生した地域など様々です。これに、避難指示区域とそうではない区域、放射性物質の飛散によって大きな経済的被害を受けた地域・業種もあれば、会津のように全く放射性物質による汚染はなくても、風評被害によって農業・観光業が大きな影響を受けた地域などもあります。また、区域外でも多くの人が避難しました。どこを軸として語るかによって復興の現在地は変わってくると思います。
まずは知ることだと思います。一度でも構わないので、訪問して、目で見て、「福島県」を体験してほしいと思います。原発事故や処理水のことを知ることも必要ですが、住民や地域に関わる人の思いに触れること、色んな場所を訪れてこの地域ならではの魅力を知ることも大切だと思います。この10年間、道路が開通し、人が住めるようになり、コンビニやスーパーができ、電車が通り、飲食店や居酒屋が再開してきました。こういった小さなことが、本当に大きなニュースだったりします。行ってみて、話をすることで、放射線量の数値や農家の考えなどを意識できるようになり、復興を後押しするのではないでしょうか。
一度、途切れてしまった、人とモノの流れを新たに再構築することこそ、この地域の復興そのものだと思います。
ヤフーとLINEでは、今年も震災復興に向けた支援を継続している。あなたからの寄付を、想いとともに被災地へ。
東日本大震災が発生してから3月11日で11年を迎えます。震災前を100とした場合、福島の復興は何%進んだと思いますか?