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長谷川美祈

時流におもねらず、時局と対峙する-岩波新書80年の伝統とは

2018/06/20(水) 10:17 配信

オリジナル

今年、岩波新書が創刊80周年を迎える。現在は100レーベル以上あるといわれる新書の「元祖」であり、今も出版界、読書家らから敬意を払われている存在だ。創刊からの「時流に抗し、時局と対峙(たいじ)する」という「志」は今も変わらないという。(ライター・西所正道/Yahoo!ニュース 特集編集部)

岩波新書編集部独特の編集方針

「岩波新書にはロングセラーの名著と呼ばれる本が多いのですが、名著は最初から名著たらんとして作られたわけではありません」

現在の岩波新書編集部編集長の永沼浩一さん(51)は、そう語る。

岩波新書編集長の永沼浩一さん(撮影:八尋伸)

岩波新書には独特の編集方針がある。タイトルは簡潔で、百科事典の大項目のような潔さがある。たとえばこの4月から5月に刊行されたものでも、『後醍醐天皇』『声優』『フィレンツェ』など。さらに、筆者が他の新書でベストセラーを出した「売れっ子だから」という理由だけでは起用しない。「筆者の名前で売れ筋を狙おうという考え方はないですね。むしろその人の代表作をうちで書いてほしい」と永沼さん。

本も基本的に著者本人が書き下ろす。最近の新書では、著者が忙しい、書くことのプロではないからなどの理由でライターを起用して聞き書き形式でまとめることも多いが、岩波新書はそういうことはしない。

とはいっても内容が高度に専門的にならないよう、読みやすい本にするための工夫として永沼さんは、原稿やゲラ(試し刷りの印刷)を机の上で読まないという。

「読むのはもっぱら電車の中です。新書は読者がそういう場所で読むことを想定していますから。そこで読みにくいところや難しく感じるところをチェックしています」

世の中の動きとビビッドに連動するのも岩波新書の特徴だと、永沼さんは言う。例えば『壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか』(金子雅臣著)。2006年に出版され、しばらく品切れになっていたが、最近、セクハラ問題がたびたびニュースで取り上げられるようになり、重版した。

岩波新書編集部の書棚(撮影:八尋伸)

一方で長く読み継がれる本も多い。岩波新書歴代売り上げベスト3を見ると、1位が『大往生』(永六輔著、1994年)の100刷/250万部、2位が『日本語練習帳』(大野晋著、1999年)の62刷/210万部、3位が『論文の書き方』(清水幾太郎著、1959年)の97刷/155万部である(5月24日現在)。

「『大往生』と『日本語練習帳』のように、短期間でミリオンを超えたものは他に例がなく、個人的には特異な例と思っています。むしろロングセラーでこつこつ積み上げてきた『論文の書き方』のほうが、岩波新書の読まれ方の特徴をよく表しているように思います」

ロングセラーの代表でいえば、岩波新書創刊ラインアップの中の一冊『万葉秀歌』(斎藤茂吉著、1938年)は80年間安定的に売れ続け、一度も在庫を切らしたことがない。

一冊の本に何度も入念な企画会議

編集企画会議は毎週1回行われる。編集者がタイトル案と目次を書いた企画書を提出し、各部員が意見を出し合って企画をブラッシュアップしていく。

岩波新書編集部(撮影:八尋伸)

永沼さん自身が担当し、今年3月に発売された黒﨑真著『マーティン・ルーサー・キング――非暴力の闘士』の企画書を見せてくれた。最初の企画提案が2015年7月31日で、そこから会議でもまれて最終的にGOとなったのが翌2016年8月17日。その間に書き直すこと7回。当初は「夢や愛」を軸にした評伝を考え、2回目に提出した企画書には、他の編集部員からの「新味がない」「なぜいまキングなのかを打ち出していかないと」といった厳しい提言が赤のボールペンでびっしり書き込まれている。その過程で一人の部員が口にした言葉が永沼さんに鮮明な印象を与えた。

「いま、国会前でデモに参加している人たちにも、キング牧師の思想が伝わるような内容にしないと、新書で出す意味がないと思います」

当時、安保関連法案に反対するデモの波が毎日のように国会前に押し寄せていた。そうか、と永沼さんは思った。

「そこで『夢や愛』から『非暴力』に重心を移すことにしました。そうすると、“今”を取り込めるし、今を生きる人の心にキング牧師の思想を伝えられると気付いたからです」

練り込まれた永沼さんの企画書(撮影:長谷川美祈)

「岩波新書らしさ」とは何かを、ひとくちでは説明できない。それぞれの部員たちが内に思う「らしさ」を会議でぶつけ合い、その最大公約数の部分が「らしさ」となる。

創刊第1号は無名の外国人自叙伝

岩波新書の創刊は1938年11月20日、一斉に20冊が刊行された。その通巻ナンバーで第1号となったのが『奉天三十年』上下巻である。著者のクリスティーはスコットランド人の伝道医師で、1883年に中国の奉天(現在の瀋陽〈しんよう〉)に渡航し、1922年に帰国するまで地元の人々に尽くした。その自伝的回想記である。

岩波新書編集部にある『奉天三十年』の初版。この4月にアンコール復刊された(撮影:八尋伸)

岩波書店の創業者であり当時の「店主」でもあった岩波茂雄がその抄訳を読んで感激し、全文を探して上野の図書館に1冊だけあったのを見つけ、特別に長期に貸し出しを受けて翻訳した。

なぜ新レーベルの立ち上げ第1号として、日本ではほとんど無名の外国人医師の自叙伝を選んだのだろうか。実はそこにこそ、岩波新書の今に続く「思い」が込められていた。

背景には1932年の「満州国設立」、1937年からの「日中戦争」がある。

編集責任者の吉野源三郎(現在ベストセラーになっている『漫画 君たちはどう生きるのか』の原作者)は、『奉天三十年』を岩波新書第1号として選んだ理由について後に記している。吉野は「満州国」建設スローガンの「王道楽土」を偽善的とし、

《武力による侵略につづいて強行された武断的政治によって、満洲の民衆がどんなに苦しんでいたか(後略)。クリスティーの「無私の奉仕」は、「力による征服」という当時の現実に対する何よりの批判であり、虚偽の「王道楽土」に対する無言の抗議という意味をもつものでした。この時期に創刊された新しい双書の先頭に『奉天三十年』がおかれたのは、そういう含みからでした》(『岩波新書の50年』から)

岩波茂雄による「岩波新書刊行の辞」も、政府や官僚、軍部の在り方に疑問を呈する激しい文章であり、吉野によると右翼からだいぶにらまれたようである。

1977年にカバーが黄色の黄版がでたとき、巻末の「岩波新書新版の発足に際して」という文章で改めて1938年の新書創刊の意図についてこう説明している。

《(前略)すでに日中戦争が開始され、日本軍部は中国大陸に侵攻し、国内もまた国粋主義による言論統制が日ましに厳しさを加えていた。新書創刊の志は、もとより、この時流に抗し、偽りなき現実認識、冷静な科学精神を普及し、世界的視野に立つ自主的判断の資を国民に提供することにあった》

欧州視察旅行中の岩波茂雄のポートレート(諏訪市立信州風樹文庫所蔵)(撮影:八尋伸)

当時の新書担当者たちの胸の内を、現在の編集長の永沼さんはこう考える。

「まずその前に創刊されていた岩波文庫の存在が大きいと思います。古典を扱う文庫との違いを出すため、時局と対峙する本として岩波新書のコンセプトを考えたのでしょう」

時流に抗し、時局と対峙する。世の中の流れに惑わされず、今必要な知識を読者に提供する。「それは現在も同じで、たえず『今』をどれだけ盛り込めるのか考えています」と、永沼さんは言う。

新しい書き手の発掘でベストセラー

戦争中、岩波新書は紙不足などの理由によって刊行が滞ったが、敗戦から4年後の1949年4月に復活する。カバーの色も赤から青になり、1970年代ごろになると、読者層も変わってくる。学生読者が相対的に減り、若いビジネスマンの読者が加わった。その頃から編集部内で模索が始まる。

その道の第一人者が一般読者に向けて入門書を書くという岩波新書の伝統を守りつつも、『テニスを楽しむ』(1981年)、『現代焼酎考』(1985年)、『酒と健康』(1987年)などユニークなタイトルが多数発刊された。カバーの色はその後、黄版(1977年から)、そして現在の新赤版(1988年から)に変更になるが、新しい著者の起用は続けられていく。

本が出版されたあとでも内容は随時更新されて付箋が付けられていく。岩波新書編集部で(撮影:八尋伸)

横書きの岩波新書『日本人の英語』が発行されたのも1988年。著者は当時、明治大学で専任講師を務めていたマーク・ピーターセンさんだった(現在は金沢星稜大学教授)。ピーターセンさんはそれまで日本語で本を書いたことがなかったが、「編集部内でより幅広いテーマで新書を作ろうとなって、私のような未経験者にも頼むことになったみたいです」と当時の雰囲気を語る。ピーターセンさん自身も「大学院生のころから愛用していた、あの『広辞苑』を出している出版社から依頼されるのはとても名誉なこと」と意気に感じた。

執筆には、1行ずつしか表示されない当時の日本語ワープロを使った。“I ate a chicken.”などと、名詞に無造作に“a”を付けると、「鶏をまるごと一羽食べた」という意味になり不気味がられるなど、『日本人の英語』ではネイティブでないと気付かない英語の感覚が次から次へと披露された。同書はすぐベストセラーになり、現在80刷90万部である。『続 日本人の英語』など続編も書き、『英語のこころ』(集英社インターナショナル新書)など現在に至る執筆活動につながった。ベストセラーとなったこと以外にも、ピーターセンさんにとってうれしかったことがある。

「故郷のアメリカ・ウィスコンシン州に住む母が本を欲しがったことです。母は日本語が全く読めないんですが、ずっと日本にいる息子が社会から認められる仕事をしていると分かって安心したんでしょう」と、ピーターセンさんは笑った。

マーク・ピーターセンさん。『日本人の英語』は入学シーズンになると今も書店で平積みになる(撮影:神田憲行)

「ルポもの」として累計41万部を超えているのが、2008年に出た『ルポ 貧困大国アメリカ』だ。だが初めのころの企画会議では、ハリケーン・カトリーナの被害、肥満児童、医療難民といった問題意識のピントを絞り切れず、何度も跳ね返されたという。担当編集者の上田麻里さんはそのたびに著者の堤未果さんと話し合い、ようやく一本の筋がみえた。

「アメリカの現象のベースには、コーポラティズム(政府と企業の癒着主義)や行き過ぎた市場原理があるのが見えてきたんです。日本もいずれ同様の問題を抱えるであろうという危惧もありました」

2008年1月の出版後、その年の秋にリーマン・ショックが起き、米国の大企業の破綻が日本を含む世界に影響を与えた。コーポラティズムが立証された形になったのである。

17年間、新書について書き続けたブロガー

では読者は岩波新書をどう読んでいるのだろうか。

都内屈指の中高一貫の私立進学校麻布学園では、岩波新書など3レーベルの新書を必ず購入している。開架式書架に収められた新書は約1700冊にのぼる。同校の卒業生でもある校長の平秀明さん(58)は、図書館で多くの岩波新書を読んだ。印象深いタイトルを伺うと、『自由と規律』(1949年)、『零の発見』(1939年)、『物理学はいかに創られたか』(1939年)などと、すらすらと思い出した。

麻布学園図書館で学生時代の新書の思い出を語る平秀明校長(撮影:長谷川美祈)

「中3や高1で社会への窓が開かれていくときに、その窓の役割を果たしてくれるのが新書です。新書の門をたたいて興味をもったら、その分野の専門書を読んで深掘りすればいい。私がここの生徒だったころ、岩波新書を読んでいると『おっ』と思われたもんですよ。時代を超えて読まれていくのが岩波新書という気がします」

新書編集者の間で誰も知らぬ者はいない、という書評ブログがある。「山下ゆの新書ランキング」という。著者の「山下ゆ」さんは社会科教員で、生徒に教えるための資料として通勤電車の中で新書を読み続け、ネットにアップした読書記録は17年にも及ぶ。山下さんが最近の中で「岩波新書らしい一冊」として挙げたのが、『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』(三谷太一郎著、2017年)である。

「近代史の大家である三谷氏が、アマチュアのために総論を書くという本です。学問の発展のためには、プロとアマの交流が大事である。そのためにも総論が必要なのだという考えが基本にあります」

長野県諏訪市に、岩波書店の伝統を伝える図書館がある。諏訪市立信州風樹文庫という。戦後岩波書店で発行された全図書の寄贈を受ける、全国でも珍しい、出版社色の強い公立図書館だ。同市は岩波茂雄の故郷で、戦争中、貴重な紙や紙型(印刷の原版の鋳造に用いる紙の鋳型)をここに「疎開」させた。これが戦後、岩波書店がスムーズに再開できた理由の一つとも言われる。

信州風樹文庫。書庫には篤志家から寄贈された創刊当時の岩波新書も保存されている(撮影:八尋伸)

その恩返しもあって、1947年に地元青年らの「良書が読みたい」という希望に沿う形で岩波書店から刊行物の寄贈が始まった。現在は立派な建物だが、当初は地元小学校の応接室を間借りしていた時期もあり、畑仕事をする老婦人が手を休めて、路傍に腰を掛けて蔵書を借りて読書にふける光景が見られたという。運営委員長の細野祐さん(80)は、学生時代にここで借りて読んだ『無限と連続―現代数学の展望』(遠山啓著、1952年)が思い出という。

「数学をかじっていたころなので、無限とはこういうふうに考えるンかと、一番印象に残っている。『知的生産の技術』(梅棹忠夫著、1969年)を読んでカードを作ったなあ」

信州風樹文庫運営委員長の細野祐さん。岩波書店から贈られた図書類は約3万7000冊あまり。岩波茂雄氏のことを子どもたちにも知ってもらおうと、紙芝居をつくった(撮影:八尋伸)

時流におもねらず、時局と対峙する。岩波新書の80年は、創刊の精神があるからこそ、時代と世代を超えてそれぞれの読者の中に息づいている。


西所正道(にしどころ・まさみち)
1961年、奈良県生まれ。京都外国語大学卒業。雑誌記者を経て、ノンフィクションライターに。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』『絵描き 中島潔 地獄絵1000日』がある。

[写真]
撮影:八尋伸、長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝