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後藤勝

韓国でビジネスに挑む「脱北者」――逆境越えた成功と広がる夢

2018/06/08(金) 10:02 配信

オリジナル

北朝鮮からの「脱北者」は現在韓国に約3万人が暮らす。社会の仕組みや環境の違いに慣れず、その暮らしは決して楽ではないという。そんな中、奮起して起業し、成功を収めた脱北者たちがいる。彼らはどのように脱北し、ビジネスに取り組んだのか。(取材・文=申美花/Yahoo!ニュース 特集編集部)

文中敬称略

結婚仲介業で稼いだ資金で目指す「統一家族村」

周囲数キロは山と森で囲まれていた。

ソウルから北東に60キロ。韓国と北朝鮮を分断する「38度線」に隣接する京畿道(キョンギド)漣川(ヨンチョン)郡には脱北者が集まる集落「統一家族村」の建設予定地がある。

1万7000坪の広大な土地に3000坪の集合住宅をつくる予定だという(撮影:後藤勝)

「私がこの土地を購入したのは北朝鮮の空が見えるからです。この統一家族村を作る作業は2017年12月ごろはじまり、毎週末ここで作業しています。平日はソウルのオフィスで働いていますが、週末は自分の手で山小屋を作ることが楽しくてしようがないです」

15キロほどのコンクリートブロックを軽々と運びながらうれしそうに語るのは、キム・スジン(43)だ。

2006年に脱北した。キムは昨年末から「統一家族村」という広大な敷地で建設活動に取り組んでいる。同所は現在はなにもない敷地だが、将来的には多くの人が住んだり、墓地を設置したりできる複合施設を見込んでいる。

北朝鮮式の伝統的な山小屋建築に精を出す(撮影:後藤勝)

1974年、北朝鮮最北端の咸鏡北道(ハムキョンブクト)恩徳(ウンドク)郡で生まれたキムは、2006年、32歳の時に食品関係の貿易の仕事で中国出張に行った。中国に行くのは初めてだった。

2カ月ほど滞在した後、北朝鮮に戻ると、空港でパソコンを押収され、全身の検査を受けた。「北朝鮮の秘密警察」とも称される国家安全保衛部(現・国家保衛省)の取り調べは10日間にわたって続いた。国外から帰国した人は主体思想(チュチェ思想。北朝鮮の指導指針となる思想)が変質しているかもしれない、という理由だった。

あれだけ信じていた祖国がこんなにもひどいことをするのか──。一度そんな気持ちを持ってしまうと、祖国に対する疑問が湧いて出るようになった。中国に2カ月間滞在している間に見聞きしたことが、現実問題として迫ってきた。中国をはじめ世界の国々では、グローバル化が進んでいるのに祖国の北朝鮮は世界で孤立し、経済も文化も遅れている。その上、人々には自由がない。祖国に絶望を覚え、夫と母に相談し、脱北を決心した。

(撮影:後藤勝)

韓国の脱北者は3万人以上、7割以上が女性

韓国政府統一部の「北韓離脱住民政策」によると、1998年時点で947人(1998年までの約30年間)だった脱北者はその後急増し、現在までに3万人以上にのぼる。うち、7割以上が女性だ。統一部は、脱北者の社会での自立を図るために1人当たり2000万ウォン(約200万円)の定着資金を提供し、就業、教育、生活、心理的安定など様々な支援政策を進めている。

だが、脱北者たちが韓国社会へスムーズに適応できているとは言えない。

韓国政府の脱北者支援機関「南北ハナ財団」の調査によると、失業率でも昨年の時点で韓国住民は3.6%だが、脱北者は7.0%と2倍近く高い。英語などに接してこなかったために「ストレス」などの外来語が分からなかったり、期日を守るというビジネスルールや年金などの社会保障の費用が天引きされることの理解に苦しんだりする。

韓国では中小企業でも成果主義を取り入れる会社が多いが、成果によって報酬が違うという認識もない。また、接客サービスなどで相手に対する親切さや思いやりも学んでいないため、サービス精神の発揮が苦手な人も多い。また「北朝鮮から来た=貧しい共産主義の国家から来た」という理由で、就職での面接を断られるなど差別を受けることも少なくない。こうした環境に耐えられず、危険を覚悟のうえで再び北朝鮮に戻ってしまう人さえいる。

しかし、そんな逆境を乗り越えたうえで、ビジネスの世界に勇ましく飛び込み、起業し、社会的成功を成し遂げた人たちもいる。

脱北者の中にはタイまで移動して韓国に移送された人もいる(撮影:後藤勝)

前出のキムは北朝鮮にいた1998年に結婚し、翌年長女を出産、親子3人で暮らしていたが、2006年、まず夫が脱北、続いてその半年後にキムも娘を連れて脱北した。ブローカーを使い、中国、ミャンマー、タイを経由して韓国入りした。

最初は京畿道で食堂とガソリンスタンドでの職に就いた。そこで資金をため、さらに知人からも借金して2007年にソウル市広津(クァンジン)区にあった小さな店舗を手に入れた。住居も兼ねたその店で雑貨店を始めた。

キムは店主として店に立ち、その明るさで人気を得た。だが2010年、2人目の子供の妊娠をきっかけに店舗経営が難しくなった。

そこで思いついたのが、脱北者たちが集える場所だった。

「脱北した人たちが出会える場があれば、お互いに助け合えるのでは、と考えたんです。そこで、ネット上にコミュニティサイトを作ってみた。そうしたら、韓国の独身男性から『北朝鮮の女性を紹介してくれないか』という問い合わせが入ってくるようになったんです」

キム・スジン代表が起業した株式会社NK結婚のオフィス。(撮影:後藤勝)

500組のカップルが誕生、10億ウォンの売り上げに

脱北者の知人女性を紹介したところ、双方が好印象を持ち、デートを重ねるようになった。2人の動向を見るなかで、男女の出会いをネットで仲介したらビジネスになるとひらめき、2010年、交流サイトをオープンした。

「韓国には昔から『南男北女』という言葉があります。南側の男性はハンサムで有能な人が多く、北側の女性はキレイで生活力のある人が多いという言い伝え。それは今も信じられているのです」

キムが見込んだ結婚仲介ビジネスには大きなチャンスが潜んでいた。交流サイトはすぐに活況を呈し、これまで500組近いカップルを結婚させ、売り上げは2016年度でおよそ10億ウォン(約1億円)に達した。韓国国内における「脱北女性と韓国男性」の結婚を仲介する業界ではトップの業績だという。

(撮影:後藤勝)

だが、キムは前進をやめなかった。結婚仲介業でためたお金で新しい夢に挑戦しはじめた。

それが「統一家族村」だ。

2014年、38度線に近い漣川郡の土地を9億ウォン(約9000万円)で1万7000坪購入した。約3000坪の土地に計画しているのは、数百人が暮らせる集合住宅だ。裏山には1キロほどの散策路をつくり、墓地もつくる。

散策路には案内板を作り、脱北者の「リアルストーリー」を書く。彼らの子孫たちが読んで自分たちのルーツを理解できる場にしたい──そんな計画を描いている。

脱北者も韓国民も一緒に住める村を

脱北者の男性からオンドル(床下に板石を敷き詰めて薪で温める方式)を敷く作業を習っている(撮影:後藤勝)

集合住宅が完成するのはまだ先の話だというが、その夢を実現すべく、キムは自ら汗をかき、身体を動かしている。

「世の中に自分の母親の声を電話で聞くことさえできない国がどこにありますか! 韓国で生まれた息子の顔は、北に住む私の母には一回も見せたことがありません。もう小学校2年生になった息子をここへ連れてきて毎回(北朝鮮の方向を)指さしながら教えて上げるんです。『あそこにおばあさんが住んでいるんだよ』と」

撮影で訪れた5月上旬は、4月27日の歴史的な南北首脳会談が終わって間もない時期。会談について話が及ぶと、キムは興奮気味に「我々脱北者はみんな泣きました」と声を弾ませた。

(写真:代表撮影/Inter-Korean Summit Press Corps/Lee Jae-Won/アフロ)

「あの日、金正恩(キム・ジョンウン・朝鮮労働党委員長)が『脱北者たちも今日の南北首脳会談でいろいろ期待することも多いでしょう』」と話したでしょう。これはすごいことです。今まで『脱北者』は民族反逆者だから禁句だったのです。でも、あえて口にした。これは何を意味するかというと、『先代(金日成と金正日)が間違ったことをやった。今までのことは忘れてほしい。これから私は新しいやり方で始めたい』ということだと思うのです」

キムの声が次第に高ぶる。

「首脳会談後、脱北者の知人からの電話で、いつも脱北者の家族を監視していた国家保衛省の人が、実家の母親の家に訪れたそうです。『労働党の方針が変わったので、もし脱北した娘に会いたいなら中国で会えるように我々が手伝ってあげるよ』と言ったそうです」

その話に絶句したというキムは、金正恩なら北朝鮮に変化をもたらすに違いないと力を込めて話した。

(撮影:後藤勝)

最初の脱北は「失敗」

だが、脱北者のすべてがキムのように希望を抱いていたわけではない。

南北首脳会談によって北朝鮮の人々に変化がもたらされることはあまりないだろうと、会談の成果を疑問視するのは、チョン・イルキョン医師だ。脱北し、ソウルで朝鮮半島の伝統医学である韓方医療の「100年韓医院」を営む。

「我々脱北者の最大の願いは統一であり、故郷と自由に行き来できること。さらに北朝鮮の独裁政権が崩壊することです。北では言論の自由も、旅行の自由も、集会の自由もありません。何より民主化が必要不可欠です。民主主義による選挙が行われない限り、北朝鮮住民はこれからも苦しい生活を送るでしょう。そういう意味では、今回の会談で何一つ進展しているとは思えません」

高層ビルがひしめくソウル中心部の市庁駅近くにある医院でチョンが取材に応じた。端正な顔立ちで背が高く、体格もたくましい。

「若い頃、中年女性たちの間では村一番の人気者でしたよ。当時は親が決めた相手と子供同士を結婚させる時代でしたからね」

「100年韓医院」のチョン医師。鍼先に火をつけてから治療する「火鍼法」という韓国で唯一の特殊診療で知られているという(撮影:後藤勝)

北朝鮮の清津(チョンジン)医科大を卒業してまもない1998年、チョンはブローカーとともに脱北を試みたが、罠にはまってしまう。そのブローカーが北朝鮮のスパイだったのだ。

強制収容所に入れられると、80キロの体重が1年間で49キロまで落ちるほどの凄絶な体験をした。

「毎日殴打の繰り返しで、鼻の骨も折れました。血と悔しさの涙で真冬に着ていた綿服の袖先が凍ってしまうぐらいでしたね」

脱北に失敗し、強制収容所で命を落とした姉

2000年10月、チョンは、中国で医師をしている父親から送られた資金を使って国家安全保衛部(当時)の役人を買収、2度目の試みで脱北に成功した。

父親は代々医師の家系を引き継ぐ富裕層で、平壌医科大学第1期の出身。1985年に単身で脱北し、中国で医師として活動、資金をためていた。

中国で父親と再会すると、チョンは2人で韓国へ入国。その後、故郷で暮らす母親を脱北させることにも成功した。

だが、幸運は続かなかった。2005年、チョンの姉は脱北には成功したものの、上海で中国の公安に逮捕され、北朝鮮の強制収容所に送られた。

韓国軍の監視所と鉄条網。38度線が近くなると立ち入り禁止区域が続く(撮影:後藤勝)

「姉と上海の韓国領事館に駆け込もうとしたところ、中国公安に摘発されたんです。一緒に上海の刑務所に入れられました。刑務所では『わが家族は北朝鮮に送還されると、必ず政治犯収容所で苦しみながら死ぬ。もし姉を北朝鮮に送還するなら、俺も一緒に送ってください』と懇願しましたが、中国の公安は冷静でした。『法律通りにする』と言って、韓国のパスポートを持っていた私は韓国へ送られ、姉は北朝鮮に送還されてしまったのです。そして、姉は飢餓と暴行で命を落としました」

当時を思い出したのか、チョンは話しながら急に表情が暗くなった。

韓国では北朝鮮の医師免許は認められず、チョンは再度医師免許をとるべく、尚志(サンジ)大学校の韓医科大学に入学した。医療システムと医学用語の違いで苦労したが、2007年医師免許を取得、韓方医療の「100年韓医院」を開業した。

「韓国ではドクターローンという制度があり、医師のライセンスだけで金融機関から担保や保証人なしで3億ウォン(約3000万円)を借りることができる。その資金を開業の保証金、医療機器、インテリア費用に充てました」

(撮影:後藤勝)

北の人たちの体と心を治したい

「100年韓医院」は、鍼先に火をつけてから治療する「火鍼法」という韓国で唯一の特殊診療だという。チョンが技術を習得するのに5年以上かかった。

近頃は患者が引きもきらない。患者の6割が脱北者で4割が韓国人。広告を出さなくても口コミで次から次へと患者がやってくる。

「昨日は水一杯飲む暇もありませんでした。脱北者の患者が来ると、同じ立場なので少し治療費を安くしてあげたりします」

医師だからこそ、故郷への思いも深い。

「北朝鮮では抗生剤が足りなくて命を落とす人も多いです。統一したら真っ先に北朝鮮へ行って、傷ついた住民たちの体と心の病気を無料で治してあげたいです」

(撮影:後藤勝)

日本式ラーメンで勝負をかける若手経営者

オフィスが密集するソウル市永登浦(ヨンドンポ)。道路沿いに、こぢんまりとした豚骨ラーメン屋がある。店主イ・ソンジン(29)は指に包帯をし、苦笑いしながらテキパキ働く。

「昨日フライパンで手をやけどしてしまったんです。でも、これくらい大丈夫。すぐラーメン作れますよ!」

ラーメン店のイ代表。オフィス街の永登浦(ヨンドンポ)にて(撮影:後藤勝)

1989年生まれのイは北朝鮮の港町の清津市出身。イが7歳だった1996年、両親が先に脱北した。両親はソウルに定住してから、2004年に彼を脱北させた。60代の祖父母と暮らしていたイは、祖父母と3人で中国へ渡った。モンゴルルートで脱出できるよう父親がブローカーに頼んでいたが、それは簡単な行程ではなかった。

吉林省の延吉まで逃げ、そこから列車を乗り継ぎ、内モンゴル自治区を経由してモンゴルに向かった。モンゴルの軍人に脱北者であることを知らせると韓国大使館まで連れていってくれるからだ。イたちはモンゴル軍人に出会うまで、当てもなくゴビ砂漠を何日間も歩き続けた。ゴビ砂漠では、のどが渇きすぎて舌がのどの奥に巻き上がりそうになった。それを見た祖父は大声で叫んだ。

「拳を口に入れろ! 舌が巻き上がるのを防ぐんだ!」

北朝鮮軍の侵攻を防ぐための「戦車止め」の一帯(撮影:後藤勝)

栄養失調で死んだ妹の祭壇に料理を

死ぬ思いで砂漠を抜け、大きく迂回して韓国にたどり着いたのは、北朝鮮を脱出して3カ月後のことだった。両親とも再会した。

だが、韓国での生活は、想像していたような快適さではなかった。つまずく要因があったのは学校だ。

まず韓国の教科内容は北朝鮮と大きく異なり、中学3年生だったイは、韓国の小学校6年生に編入することになった。小学校では年の差のことでからかわれてケンカになり、親は3回も学校に呼び出された。

専門高校の外食調理科を卒業し、調理師資格を取ったのは21歳の時だった。

料理に興味を持ったのは、自分が6歳のときに死んだ妹との記憶があるからだと、イは悲しい表情で打ち明けた。

「当時、真冬で食べ物がなく、おなかが空いて幼い妹と果樹園に忍び込んだのです。そこに凍った梨が落ちていたので、拾って食べたのです。その夜、妹は突然亡くなりました。ひどい栄養失調が原因だったのでしょう。翌年、祭祀(チェサ:儒教式の死者の供養の儀式で大量の料理を作って供える)の際に祭壇の上にトウモロコシを1個、供えました。妹の大好物は魚やお肉でした。何でこれだけなんだろうと悔しかったです。いつか立派な料理を作って、死んだ妹の祭壇に供えてあげたい。そう思って、料理人になりました」

(撮影:後藤勝)

2015年、大学卒業後、偶然Facebookで「OKシェフプロジェクト」という公募企画が目に留まった。脱北者を対象に、韓国での安定的な定着を図るため、創業を支援し、社会起業家の育成モデルを作ることが狙いというプロジェクトだ。イは迷わず応募した。

同プロジェクトで選抜されたイは2016年12月に、オフィス街の永登浦に日本式ラーメン店をオープンした。

「料理アカデミー」で脱北者にも料理を伝えたい

10坪ほどの小さな店だが、オフィス街という立地の中、オープンするとすぐに客が集まり、ランチの時間は10分待ちの行列ができるほどの人気となった。1日の売り上げは約70万ウォン(約7万円)。「OKシェフプロジェクト」は営利を目的としない社会的企業であるため、イは売り上げと関係なく、毎月定額の給料制で働いている。ラーメン店の成功を受けて、イの夢は広がっている。

人気の海鮮チャンポンと豚骨ラーメン(撮影:後藤勝)

「いつか南北が統一したら、真っ先に故郷で妹のお墓の前においしい料理をたくさん並べたい。食べ物がなくて死んだ妹に食べさせたいんです。次は、将来『料理アカデミー』をつくって、調理師を目指す脱北者に教えたいです」

(撮影:後藤勝)

(撮影:後藤勝)


申美花(しん・みふぁ) 茨城キリスト教大学経営学部教授。1986年、韓国から文部科学省奨学生として来日。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了後、株式会社アイアールジャパンで勤務。慶應義塾大学大学院商学博士。著書に『脱北者たち 北朝鮮から亡命、ビジネスで大成功、奇跡の物語』(駒草出版)。

[写真監修]
リマインダーズ・プロジェクト後藤勝