後藤勝

差別の歴史 どう語り継ぐ―― ハンセン病元患者らの思い

5/9(水) 10:00 配信

「どうして70年間も、ここにいなければならなかったのか」――。岡山県にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園で暮らす元患者の中尾伸治さん(83)は疑問に感じている。病気はとっくに治っているのに、国の隔離政策で差別や偏見の目にさらされ続け、療養所で暮らさざるを得なかったからだ。そうした人たちは他にも大勢いる。入所者の思いやハンセン病を語り継ぐ意味とは……。まずは動画で見てほしい。(三重テレビ放送/Yahoo!ニュース 特集編集部)

瀬戸内海の島へ

JR岡山駅から東へ車で約1時間。長島(岡山県瀬戸内市)は瀬戸内海に浮かぶ東西6キロの細長い島だ。この島にある長島愛生園は日本初の国立ハンセン病療養所として1930年に開園した。本土からの橋「邑久(おく)長島大橋」が架かったのは1988年のこと。それまでは離れ島であり、船でしかたどり着く手段がなかった。事実上、“隔絶の島”だった。

朝焼けの長島。本土から架かる橋は「人間回復の橋」とも呼ばれ、2018年5月9日に開通30周年を迎えた(撮影:後藤勝)

「よく泣きました、とにかく寂しかった……」

中尾伸治さんは収容された当時を振り返る。1948年、14歳の時だった。奈良県で生まれた中尾さんは、大阪の病院でハンセン病と診断されたが、病名を聞かされたのは愛生園に来てからだったという。

園の運営に関する事務を行っていた「事務本館」。現在は歴史館になっている(撮影:後藤勝)

「母親は病名を教えてくれなかった。“難しい病気”だったんでしょう」

入所者の多くは、全国各地から列車で岡山駅に向かった。同じ車両には他の乗客が乗ることはなく、多くの入所者はこの列車を「お召し列車」と皮肉を込めて呼ぶ。トラックなどで島の対岸付近まで移動し、船で島に渡る。上陸する桟橋は患者用と職員専用に分かれていた。

収容桟橋跡。入所者はここから上陸した(撮影:後藤勝)

「本当に療養所へ入るんだな、と思ったのは収容桟橋に降り立った時。それまで一緒だった人とそこで別れるんですよ。県や村の人たち(職員)は職員桟橋、私は収容桟橋へ。寂しさがわいてきました」

園内では職員と入所者の生活区域は厳しく分けられていた。入所すると、まず「収容所(回春寮)」に入って検査や入所手続きが行われる。現金などが取り上げられ、消毒風呂への入浴や持ち物の消毒も行われた。園のパンフレットには「この建物の中で、社会との隔絶を意識した人は少なくありません」という記述がある。

消毒風呂への入浴などが行われた「収容所(回春寮)」(撮影:後藤勝)

ハンセン病は、かつて「らい病」「不治の病」「天刑病(てんけいびょう)」「業病(ごうびょう)」などと呼ばれ、顔や手足に後遺症が残ることなどから、偏見と差別の対象になってきた。現在は治療法が確立されていて、近年、国内の新患者はほとんどいない。

隔離を定めた法律は1996年に廃止されたが、全国13カ所の国立ハンセン病療養所では、1468人が暮らしている(2017年5月現在/厚生労働省調べ)。愛生園には現在、165人の元患者が入所している。

「収容所(回春寮)」の内部(撮影:後藤勝)

置き去りにされた人権

全国の療養所では、人権侵害が日常的に行われていた。

現金は持つことを許されず、園内でしか使えない「園金」などと呼ばれた“お金”を持たされた。

園内の規則を破った入所者には、監房行きが待っていた。療養所の所長には、法律で「懲戒検束権」が与えられていたからだ。

園内では人権侵害が日常的に行われていた(撮影:後藤勝)

愛生園の学芸員・田村朋久さんによると、監房へ入れられた理由で最も多かったのは“逃走”。つまり、島から逃げ出した“罪”だったという。

「逃走だと1週間から10日間、食事規制(=減食)がありました。それを織り込み済みで逃げた人が多かったんです。裁判なども行われない。いわば、園長のさじ加減一つ。とても危険な建物でした」

職員らに説明する学芸員の田村朋久さん(撮影:後藤勝)

最大の人権侵害は「断種と堕胎」だ。ハンセン病にかかったら、子どもをつくることができなかったのだ。入所者同士の結婚は認められていたが、子孫を残す権利は奪われた。

田村さんは「国の費用で療養している患者さんの子どもの面倒を誰が見るのか、という考えがあったのではないか」と話す。

子どもを作ることは許されず断種や堕胎が行われた。島には胎児の慰霊碑がある(撮影:後藤勝)

全国の療養所の入所者は「患者作業」として、さまざまな役割を担わされた。

治療助手や病棟の看護のほか、野菜の収穫や牛・豚の飼育、土木工事、炭焼き、印刷、理髪、教師、火葬……。入所者の作業がなければ、療養所は成り立たなかったという。

隔離政策の歴史

田村さんは、愛生園の見学者にこう話している。

「一般の方が誤解されているのは、曲がった手や指、変形した顔などを見て『らい病だ、ハンセン病だ』と言ってしまうんですが、違います。それは病気の後遺症にすぎません」

歴史館の中で当時の状況を説明する(撮影:後藤勝)

なぜ、長年にわたり人権侵害が行われてきたか。背景には国の隔離政策がある。

1907年に「癩(らい)予防ニ関スル件」が制定され、医学的根拠のないまま隔離政策が始まった。1931年の「らい予防法」(旧法)で全患者が収容対象に。各地に国立療養所が設けられた。戦後に制定された「らい予防法」(新法)でも隔離政策は続けられ、1996年になってようやく廃止された。

(撮影:後藤勝)

1998年、長年の隔離政策は違憲だとして入所者が熊本地方裁判所に提訴。全国で提訴が続いた。熊本地裁は2001年、原告全面勝訴の判決を出す。判決では、治療法が確立された遅くとも1960年以降は隔離の必要性がなく、「過度に人権を制限した『らい予防法』の違憲性は明らか」だとした上で、厚生省(当時)や大臣の責任を認め、慰謝料の支払いを命じた。

隔離規定を放置してきた国会議員の不作為を認めた点も注目された。政府は異例の政治判断で控訴を断念。2009年に施行された「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」には、元患者の名誉回復や生活の保障のほか、療養所の施設や土地を地域に開放することも盛り込まれた。

「歩いた後をモップでふかれた」

長年続いた差別と偏見の歴史。愛生園でも、隔離政策の時代を詳しく知らない職員が増えた。この2月、職員たちに正確な知識を持ってもらおうと研修会が初めて開かれ、自治会長を務める元患者の中尾さんから、差別体験の数々が語られた。

参加者に自らの体験を熱心に話す中尾さん(撮影:後藤勝)

10年ほど前、愛生園から瀬戸内市街へ出て行き、書店で本を探していた時のこと。

「知らない子どもが近寄ってきて『一緒に本を探してほしい』と言うので探してあげていたら、その親が気付いてとんできて、子どもの手が抜けるほどの勢いで引っ張って出て行ったんです」

中尾さんは、差別の意識が根強く残っていると話す。「スーパーで歩いた後をモップでふかれたこともある。『この人は愛生園の人だ』と、この近所の人であればわかります。嫌な顔をする人がいるし、その顔色を読みとれるようにもなりました」

こうした証言は、中尾さんだけでなく多くの元患者から聞かれる。

「飲食店に入ってご飯やコーヒーを注文しようとしたら、いきなり店を閉められた」「自動車教習所へ行って車に乗った後はハンドルをクレゾール消毒せよと言われた」――。

山口昇七さん(仮名・82)は、療養所に入った当初、母親は時折、訪ねて来たという。しかし、兄弟は30年以上音信不通で、どうなっているか分からない。「私のことを隠しているところを見ると、いまだに(差別は)あるんでしょう」と話す。

山口昇七さん。兄弟とは音信不通になっているという(撮影:後藤勝)

前向きに過ごす入所者たち

いま、入所している人たちは、日々穏やかに、そして前向きに過ごしている。

(撮影:後藤勝)

入所者の中には、趣味やレクリエーションに打ち込む人も多い。かつては野球や卓球、ゲートボールなどのスポーツ。年齢を重ねた現在は、カラオケや陶芸、絵画、将棋など……。

愛生園にあるスーパーマーケット(撮影:後藤勝)

入所者の井上光彦さん(園名)は40年ほど前から園内で写真を撮り続けている。四季折々の園内の風景や、邑久長島大橋の開通、天皇・皇后両陛下の長島ご訪問(2005年)などをカメラに収めてきた。

それらは、島で暮らす人にしか撮れない光景だった。

井上さんの部屋。妻を介護している(撮影:後藤勝)

井上さんは長年にわたり、園の様子を撮り続けている(撮影:後藤勝)

伝え続ける意味

全国の国立ハンセン病療養所で暮らす人たちの平均年齢は、85歳を超えた。中尾さんは、力の限りハンセン病の歴史を伝えていくつもりだが、心配もある。

「僕たち語り部は(愛生園で)5、6人になった。あと10年もしたら、いなくなるだろう」

園内を移動する中尾さん(撮影:後藤勝)

そして、こう続ける。

「例えば、原爆や水俣病などの語り部は、2世、3世の方が語り継いでくれています。でもハンセン病の場合は、子孫を残すことが許されなかった……。つまり、語り継いでくれる人がいないんです。だから(見学に来てくれる)学生や児童に、あなたたちが勉強して語り継いでほしいと、いつも話しています」

学芸員の田村さんが見学者を案内する際、最後に伝えることがある。

「今後、同じような差別に苦しむ人をつくらないでほしい……。残念ながら、偏見はハンセン病だけじゃなく、私たちの周りにたくさんあります。私たちは、何度も同じような過ちを繰り返しているんです。人権が尊重される社会をつくるために、まず正しい理解を得ることが大切です」

(撮影:後藤勝)

「骨になっても まあだだよ」

島の北部には納骨堂がある。全国のハンセン病療養所には、必ず納骨堂が設けられているという。

入所者が亡くなった場合、「周囲の目が気になって(家族による)遺骨の引き取りは進まなかった」と田村さんが説明する。今もなお、故郷に帰ることができない遺骨が眠る。

島にある納骨堂。遺族による遺骨の引き取りは進まなかった(撮影:後藤勝)

愛生園に隣接する国立ハンセン病療養所・邑久光明園の入所者、故・中山秋夫さんは次のような一句を残している。

もういいかい 骨になっても まあだだよ

いま、全国のハンセン病療養所に、ハンセン病「患者」はひとりもいない。過去に愛生園の取材で出会った入所者は、こんなことを話していた。隠れるようにして故郷に帰った経験があるという三重県出身の夫婦(故人)は「法律がもう少し早く廃止されていれば何とかなったのに……。遅すぎた」。また、同じく三重県出身で、各地を講演に訪れ偏見解消を訴えた男性(故人)は「差別というものは人間だけがするもの」と断じていた。

無知や偏見によって、一度しかない人生を台無しにしないために、差別の歴史をどう語り継いでいくか。2018年1月、開設初期からの施設が現存する長島愛生園を含めた瀬戸内海にある3園の関係者らが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産登録を目指して、NPO法人「ハンセン病療養所世界遺産登録推進協議会」を発足させた。

自治会長の中尾さんも理事を務める。中尾さんは力を込めて話す。

「私たちは100年以上にわたってそういう目(差別)に遭ってきました。私たちの歴史がつまったそのままで、人権学習の島として残してほしい。強制収容の背景には、官民一体となった『無らい県運動』、市民による“あぶり出し”がありました。それで良かったのかを考え、市民も登録運動を盛り上げてほしい」

(撮影:後藤勝)

【文中と同じ動画】


本記事は、三重テレビ放送とYahoo!ニュース 特集編集部による共同取材企画。三重テレビ放送は1969年開局の独立系テレビ局。三重県全域と愛知県の一部を放送対象とし、数多くの自社制作番組を放送している。公式サイトはこちら

[取材・編集]
小川秀幸(三重テレビ放送)
Yahoo!ニュース 特集編集部
[写真]
撮影、写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝

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