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大池直人

本田宗一郎の夢がベトナムで走る──生産1億台、徹底した「お客さん」視点

2018/01/30(火) 09:52 配信

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昨年10月、ホンダの「スーパーカブ」シリーズの世界累計生産台数が1億台に達した。日本では新聞・郵便の配達など仕事での利用が目立つが、アジアでは幅広く庶民の足として愛されている。1958年の初代スーパーカブC100発売から60周年を迎え、現在は世界15カ国16拠点で生産、延べ160カ国以上で販売されている。スーパーカブは、なぜ国境を超えたロングセラー商品となったのか。ベトナムでの現地レポート、ホンダの開発担当者らへの取材からその理由を探った。(ライター・中安昭人、神田憲行/Yahoo!ニュース 特集編集部)

ベトナムで愛されるカブ

時計の針が午後3時45分を指したのを確かめると、ニャン・グエン・ディン・フンさん(42)はカブにまたがり出かけていく。ベトナムのホーチミン市1区。向かうのは自宅からカブで15分ほどの距離にある、3歳の長男が通う幼稚園だ。

ベトナムでは小さな子どもの学校の送り迎えを男親がすることは珍しくない。この日も幼稚園が終わる4時前には父親たちが乗ったバイクが大勢、園の前に集まっていた。

フンさん一家。この日もカブでお迎え(撮影:大池直人)

フンさんは息子をピックアップすると、座席の前のチャイルドシートに乗せてスタートした。車も所有しているが、できるだけカブで送り迎えする。「カブのほうが息子との距離が近いから好きなんだ」と笑った。

自宅までの帰り道、フンさんは前に座る息子に語りかける。幼稚園であったことを聞いたり、習った童謡を一緒に歌ったり。交差点で停まったときは、街路樹の種類やお店の看板の意味を教える。

スーパーカブの3人乗りはベトナムでよく見る光景(撮影:大池直人)

「今は2人目の子どもが生まれたばかりなので余裕はありませんが、子どもが1人だったときは、子どもと妻を乗せて3人乗りでよくドライブを楽しんだものです」

フンさんが子どもと童謡を歌いながら帰宅するころ、市内中心部ではグエン・マン・フンさん(50)が仕事を終えて、郊外の自宅に帰る準備を始める。といってもスーパーカブに商売道具を載せるだけだが。

ホーチミン市の中央郵便局前に「出勤」してきたマン・フンさん(撮影:大池直人)

マン・フンさんの仕事はサングラスの行商。朝、サングラスを詰め込んだボストンバッグをスーパーカブに積んで自宅を出て、戦争証跡博物館、ベンタイン市場など外国人観光客が多そうな観光名所をぐるぐる回る。カブを停めてボストンバッグからサングラスを取り出した路上が「お店」となる。1個10万ドン(約500円)で、1日10個ほど売る。休みはない。テト(旧正月)でも働く。この仕事を始めて30年、大変だが、「この商売は気に入っている。ずっと続けるよ」と言う。

「25年前にこのカブを手に入れてから、仕事が楽になったよ。どうしても欲しくて、親戚じゅうからお金を借りまくって買ったんだ。もう相棒みたいなものさ。愛着があるから修理しながら乗り続けて、買い替える気はないね」

朝夕の時間帯、ホーチミン市内の道路はバイクで埋め尽くされる(撮影:大池直人)

フンさんとマン・フンさんが乗っているのは、ホンダの「スーパーカブ」シリーズである。この「スーパーカブ」シリーズは世界中で現地の生活に合わせた仕様で生産されており、ベトナムでは日本製の中古車もあれば、「Super Dream」「Wave」など独自ブランドもある。ベトナムブランドのスーパーカブはロングシートで2人乗り、3人乗りできるようになっているのが特徴だ。2016年には世界で生産された「スーパーカブ」シリーズのうちベトナムが32%ともっとも多かった。

現在は世界15カ国16拠点で生産され、これまでの生産台数は全世界で1億台を突破した。

バイクでナイトクルージングを楽しむ4人。マスクでオシャレ(撮影:大池直人)

本田宗一郎がこだわった「手のうちに入るバイク」

初代のスーパーカブC100が発売されたのは1958年、今から60年前のこと。創業者・本田宗一郎自らの号令から開発が始まった。

「手のうちに入るバイクを作れ、というのが本田のテーマでした」と語るのは、現在のスーパーカブの開発責任者である亀水二己範(ふみのり)さん(56)。本田技術研究所二輪R&Dセンターで第1商品開発室主任研究員を務める。「手のうちに入る」とは取り回しが良い、という意味である。

バイク専門の「洗車屋さん」もホーチミン市内に多い。ピカピカにしてくれる(撮影:大池直人)

「1958年当時の日本人の体格は今より小さかったので、ハンドルの取り回し、停まったときに両足がつくかなどカブの大きさに本田はこだわりました」

そこで重要だったのが、タイヤ径である。当時の標準規格は18インチ。だが本田はスーパーカブには17インチの特注品を考えた。大手のタイヤメーカーから製造を断られても本田は1インチの違いにこだわった。

ベトナムのバイク修理工場の人。技術力は高い(撮影:大池直人)

「タイヤの大きさ=カブの大きさなんですよ。1インチ大きくするだけで、荷台も高くなるしハンドルのポジションが決まって全体がワンランク大きくなってしまう。逆に1インチ小さくすると、当時まだ多かった未舗装の道路での走行の安定性に問題が出ます。18でも16でもなく17インチでなければならなかった」

17インチのタイヤは現在でも基本モデルのスーパーカブに引き継がれている。

スコールが降ってもレインコートを着てバイクに乗る。ホーチミン市内で(撮影:大池直人)

スーパーカブは“前からまたぐクルマ”

さらに本田がこだわり、スーパーカブの性格を決定的にしたのが、「またぎ」である。従来のバイクは燃料タンクがハンドルとシートの間に取り付けられており、乗車の際は足を後ろに跳ね上げてシートの後方から回さなくてはならなかった。本田宗一郎はその乗り方をスーパーカブでは採用しなかった。ホンダの社史にこんな言葉が残されている。

これは、後ろに足を上げてまたぐオートバイじゃないぞ。前からまたぐクルマだ。スカートはいたお客さんにも買ってもらうクルマだ。

シートの前を少しまたぐだけで乗れるスーパーカブは、こうして女性にも開放された。

1960年代に出たスーパーカブのカタログの表紙。女性モデルを起用して乗りやすさをアピールした。当時はヘルメット着用義務がなかった(写真提供:HONDA)

スーパーカブを横から見ると、「またぎ」の部分からシートを通って後ろの車輪を覆うところまで、Sの文字を横に倒したカーブを描いている。

ホンダは2018年のスーパーカブ60周年を記念して、記念モデルを開発した。開発陣が意識したのは「原点回帰」だった。亀水さんの同僚でデザイン開発室の吉田麻央さん(34)は、ヘッドライトの形を初代と同じ丸目型にし、この「S字ライン」をとくに意識したという。

「乗るときに足でまたぐS字のへこんでいるところは高さも決められていて、試乗の際には『またぎ性』といって厳しくチェックされます」

「スーパーカブはこのデザインが良いから作ったというものではなく、こういう人に乗ってほしいというものを本田宗一郎が考えてデザインしました。それが本当のプロダクトデザインなのかなと思うんです」

山間部をたくさんの荷物を積んだバイクがカッ飛んでいく。ドライバーは女性だった。ベトナム・ダラットで(撮影:大池直人)

荷台の高さもお客のため

ホンダは過去にスーパーカブのデザインを大きく変更しようと試みたことがあったが、結局、本田宗一郎が最初に考えた今のデザインを超えることはできなかった。亀水さんは「最初から完成されたデザインだったんですね」とうなずく。

タイヤ径、S字デザイン以外にも、1979年から変わらない設定がある。50ccは荷台から地面までの高さがずっと695ミリなのだ。

「お客様が荷物を荷台にあげるとき、そこの高さが違うと感覚が狂ってしまいます。だから統一しているんです」

スーパーカブ50ccが受け継ぐ3つの「伝統」(写真提供:HONDA、作成:編集部)

亀水さんは営業担当者とスーパーカブのお客のもとに出掛けて、使い勝手について意見を拾い上げることがある。ブレーキが摩耗するタイミングなど、スーパーカブに詳しいことに驚くという。

「おそば屋さんなら、おそばの道具並みにカブにも詳しい。それだけ大事な日常のお仕事の道具だということですね。このバイクは最初からお客さんが要求するレベルがあって、それに応えてなおかつ上回る性能をつけて新モデルを出さないといけない。開発責任者として責任感、重圧を感じる仕事でしたよ」と亀水さんは笑う。

60周年記念モデルを挟んで、吉田さん(左)と亀水さん。本田技術研究所で(撮影:神田憲行)

ベトナムでバイクは全て “HONDA”

「ベトナムではオートバイのことを全部HONDAって呼ぶんだ。他の会社のバイクも全部HONDAだ」

と言うのは、ホーチミン市でバイクの修理店を営むゴー・クアン・ディエンさん(50)。修理店は1922年におじが開業し、86年に引き継いだ。修理するのは1日平均15台、その8割以上がホンダ製のバイクだという。

ホーチミン市内のバイク修理屋さん。「HONDA」だけでなく全てのバイクを修理する(撮影:大池直人)

「ホンダのバイクはパーツが入手しやすく、修理しやすいんだよ。自分が生まれて初めて買ったバイクもホンダのスーパーカブだよ。もう25年になって走行距離が28万キロなんだけど、まだ動くよ」

ベトナムでスーパーカブが認知されたのは、ベトナム戦争時代。南ベトナムに駐留していた多くの米兵が輸出品を購入したのがきっかけだった。最盛期には月に5万台も売れたという。ベトナム戦争が終わった後も、米兵たちが残していったスーパーカブをベトナム人たちは修理して乗った。

スーパーカブに乗ってきてカフェでひと休みするベトナム女性。ホーチミン市内で(撮影:大池直人)

女性に人気だったスーパーカブ

戦争後、ベトナムの女性たちもスーパーカブに乗った。扱いやすく丈夫で、戦争で傷ついた男たちの代わりに社会の働き手となった彼女らにスーパーカブは貢献した。

現在のホーチミン市でも、ベトナムの民族衣装のアオザイを着てスーパーカブに乗る女性ドライバーの姿を見ることができる。

大手銀行ベトコムバンクに勤めるグエン・ティー・フィン・アンさん(28)は、毎週月曜日の会社の「アオザイ着用日」にはスーパーカブで通勤する。アオザイの上着は横に深いスリットが入った長い裾が特徴だ。長い裾が運転の邪魔になりそうに感じるが、スリットより後ろの部分をお尻に敷き、前の部分はハンドルグリップと一緒につかむ。走ると裾が風にたなびいて、情緒がある。

「アオザイで運転すると自然と背筋が伸びるんです」とフィン・アンさん(撮影:大池直人)

「カブは通勤だけでなく、遊びで出かけるときも使います。大学生のときも友だち30人とカブに乗って旅行したんですよ。そのとき感じた風や、刈り取ったばかりの草むらから漂う香り、磯の匂いなどは今でも楽しい想い出です」

スーパーカブは「スカートをはいたお客さん」だけでなく、「アオザイを着たお客さん」にも愛されてきた。

アオザイの前の裾とハンドルを一緒につかむのがベトナム女性のたしなみ(撮影:大池直人)

5年ぶりの日本国内生産再開

「60周年」「1億台」を契機に、ホンダはスーパーカブの原点に立ち戻った。5年ぶりの日本国内生産の開始である。

「やはりホンダ=スーパーカブとおっしゃるお客様が多い中で、なぜ日本製がないんだという声もお聞きしていましたから。現場で生産に携わるわれわれにも、熊本に戻って来たことに感慨深いものがあります」

そう語るのは、ホンダの熊本製作所で完成車組み立てモジュール技術主任を務める末吉良太さん(42)。

ホンダは昨年、スーパーカブの生産を中国から熊本県大津町の熊本製作所に移管した。熊本製作所では2012年6月までスーパーカブを、2017年8月までリトルカブを生産していた。スーパーカブとしては5年ぶりの国内生産再開と世界生産累計1億台を発表したとき、八郷隆弘社長は記者会見で感極まって声を詰まらせたという。

熊本製作所のスーパーカブ生産ライン(撮影:宮井正樹)

熊本製作所のスーパーカブの生産ラインを取材した。

工場ではスーパーカブ1台分の部品を載せた搬送コンベアーが天井からつり下げられて、2階から1階のラインまで下りてくる。最初のラインスタッフが搬送コンベアーからボディーのフレームを手に取り、フレームナンバーを打刻する。次のスタッフがエンジンとフレームを結合させ、その次が配線を施す。始まりから終わりまで見ていくと、ばらばらの部品の山が人の手で徐々にバイクの姿になっていくのが面白い。

「ラインの全長は128メートル、今日は37人のラインスタッフでだいたい50分で1台組み上がる工程になります」と、末吉さんは言う。

末吉さん(左)と中原さん。熊本製作所で。白い作業着は本田宗一郎考案だという(撮影:宮井正樹)

組み立てられたスーパーカブは1台ずつ、人の手でチェックされる。その完成車品質モジュールのチームリーダーを務める中原崇宏さん(37)はこう話す。

「熊本製作所で生産する60周年記念モデルはデザインが一新されました。外観・品質のチェックはもとより、お客様に良い製品をお届けするために一段と気を引き締めています」

ベトナムのファッション誌編集者のタン・ハイさんもカブがお気に入り(撮影:大池直人)

ホーチミン市のカフェで、カブを乗りこなす小柄な女性を見つけた。タン・ハイさん、27歳。職業はファッション誌の編集者。彼女の愛車は黄色の「リトルカブ」と呼ばれる車種だ。日本国内だけの販売で輸出もされていないモデルだが、姉がどこからか入手し、譲り受けた。

「小型でかわいくて、それでいてパワーがあって壊れないから気に入っています。これからも乗り続けたいです」

本田宗一郎の徹底したお客さん本位の志が受け継がれ、それがスーパーカブを世界で最も愛されるバイクにしたのである。


中安昭人(なかやす・あきひと)
編集者・ライター。1964年、大阪府生まれ。2002年からホーチミン市在住。2000年に結婚したベトナム人妻との間に娘が1人おり、移住以来、路地裏にある妻の実家に居候中。

神田憲行(かんだ・のりゆき)
ノンフィクション・ライター。1963年、大阪府生まれ。関西大学法学部卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。その後独立し、現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』『「謎」の進学校 麻布の教え』など。

[写真]
熊本製作所
撮影:宮井正樹
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝

ベトナム
撮影:大池直人