少子高齢化と人口減少に各地の自治体が悩んでいる。そんななか、若い子育て世代を招き寄せることに成功し、40年以上、人口が増え続けている自治体がある。愛知県長久手市だ。名古屋市の東側に隣接する同市の新興住宅地では、1学年に5〜6クラスというマンモス小学校もできている。なぜ長久手市に子育て世代が増えているのか。現地を訪れ、理由を探った。(ライター・庄司里紗/Yahoo!ニュース 特集編集部)
話題の商業施設が次々と進出
平日の午後6時すぎ。市内を東西に横切る幹線道路の左車線に、長い車列ができている。赤いテールランプが続く先にあるのは「イケア長久手」。2017年10月、世界最大級の家具量販店の国内9番目の大型店としてオープンしたばかりだ。
子育て世代を中心に人気の高いイケアが東海地区初進出の地として長久手を選んだ背景には、同市の40年以上続く人口増がある。
国勢調査によれば、1970年に1万1317人だった長久手の人口は、2015年に5万7598人となり、約5倍に増えた。他の多くの地方都市で人口が伸び悩むなか、長久手は2005年から2015年の10年間だけで24%(約1万1000人)も人口を増やしている。人口増を受けて、2012年には町制から市制への移行も果たしている。
興味深いのは2005年以降、30代の転入が顕著に増えている点だ。
若い世代の増加は市全体に若返りをもたらしている。2015年時点で、長久手市の平均年齢は38.6歳で自治体別で日本一低い。全国平均年齢46.4歳に比べると、7.8歳も若い。
長久手市は名古屋市と、世界的な自動車メーカーを擁する豊田市に東西を挟まれている。長久手から両市の中心部へは車で30〜40分程度。そのため長久手は、1970年代から両市のベッドタウンとして発展してきた。
その長久手で人口が増え続けているのは「住みやすさ」に理由がある。
「視界がひらけた街」
「名古屋周辺で新居を探していたとき、『愛知 住みやすい』というキーワードでネット検索すると、よく出てきたのが『長久手』だったんですよ」
4年前、結婚を機に栃木県から引っ越してきたという松岡茂美(仮名)さんは、長久手を選んだ決め手をそう話す。
松岡さんが暮らすのは、長久手市南部に位置する市が洞(いちがほら)地区。物件探しのため車で市内を回っていた際、このエリアで「急に視界がひらけた」。
適度に植栽が整備され、道路は広々としている。地区内の主要部分には、大型スーパーや専門店、おしゃれなカフェやベーカリーも連なっているうえ、大きな公園や小学校もあった。
「子育てにも良さそうだし、ここで暮らしたい」
松岡さんは一目で気に入ったという。
「夫の勤務先に近い名古屋市内でも探したんですが、家賃が高く、子どもがのびのびと安心して遊べる場所も少ない印象でした。その点、市が洞は緑が多く、街並みも新しくてきれい。駅からは遠いので、車がないと不便なんですが、歩ける距離にお店が充実しているので、とても暮らしやすいです」
現在、夫と5歳の長女と暮らす沈寿代(しむ・すで)さんは、2005年に同市で開催された「愛・地球博」をきっかけに2013年に土地を購入し、長久手への移住を決めた。
当初は愛・地球博記念公園に近い土地を探していたが、幹線道路から離れた静かな環境、そして夫の職場である名古屋市へのアクセスがいい市が洞に落ち着いた。
沈さんは「自然環境と利便性のバランスがよいところに魅力を感じた」と話す。
「このエリアはとくに子育て世帯が多いです。引っ越し当初、朝の時間帯に私立幼稚園の送迎バスが大量に行き交うのを見て、びっくりしました」
エリア内を歩いてみると、150平方メートルほどのゆったりとした区画に品のいい瀟洒(しょうしゃ)な家と高級車、という取り合わせが目につく。また、早朝や夕方には犬を散歩させる住民たちの姿が数多く見られ、動物病院やペットサロンも目立つ。
2年前、市が洞に進出したペットショップ「PET DESIGN」長久手店の宮地章子店長は「お客様はペットに対する健康意識の高い30〜40代のオーナーさんが中心」と話す。
「安全性の高い穀物不使用のドッグフードを購入する方が多いですね。トリミングに来ていただく頻度も2週間に一度程度と、他のエリアより多い傾向があります」
ベビーブームのような小学校
平日の午前8時、「市が洞小学校」の前には、集団登校する児童たちの長い列ができる。3方向から1000人を超す子どもたちが正門に吸い込まれていく光景は圧巻だ。
市が洞小学校は、子どもの急増を受けて2008年、長久手で6つ目の小学校として開校した。
「開校当時、540名だった児童数は、それから9年で1126名にまで倍増しています」
長久手市教育委員会教育総務課の瀧善昌・指導室長はそう話す。市が洞小学校は小学校1校あたりの児童数の全国平均約320人と比べると、3.5倍ほどの規模を抱えていることになる。瀧室長は2014年から2016年までの2年間、同校の校長を務めていた。
「この地区では児童数の増加ペースが急激で、開校から6年で校舎を増築しました。各学年で5〜6クラスあるので、社会科見学も2日に分けて行うなど、まるでベビーブームの頃を彷彿とさせる状況でした」
なぜこれほどまでに若い世代の流入が続いているのか。
「2005年頃から校区内で戸建住宅の建設が相次ぎ、市外や市内の他エリアから子育て世代が数多く移り住んできたのです」
その背景にあったのが、市が洞校区一帯で行われた土地区画整理事業だ。
歩くことが楽しくなる“まち”
長久手の開発は、いわゆる「ニュータウン」のように、短期間に集中的に開発をするのではなく、人口が緩やかに増えていくよう、少しずつ計画的に進められてきた。
市が洞小学校があるエリアも、そんな土地区画整理事業によって生まれた街の一つだ。1998年、市内を東西に横切る東名高速道路の南側、約100ヘクタールの土地に、新たに1880戸を設ける一大プロジェクトとしてスタートした。
「2005年以降、とくに若いファミリー世帯が増えているのは、この長湫(ながくて)南部エリアのまちづくりが成功した影響が大きいでしょう」
そう分析するのは吉田一平・長久手市長だ。
吉田市長は2011年に町長(2012年に市制施行に伴い、市長に就任)に就任する前、長湫南部地区と呼ばれていたこの一帯で、特別養護老人ホームや幼稚園を運営しており、土地区画整理事業でも主導的な立場を務めたという。
1980年代後半、大半が山林と農地だった同地区では、家電ごみや産廃の不法投棄が大きな問題になっていた。
「その惨状を見て、『美しい自然を守りながら、豊かに暮らせる街をつくれないだろうか』と思った地権者や役場の職員たちが集まり、未来のまちづくりを話し合った。それが宅地開発のきっかけでした」(吉田市長)
その後、同地区では、行政主導ではなく、地権者たちによる組合方式で区画整理を行うことを決定。1998年には「長湫南部土地区画整理組合」が設立された。その組合で、真っ先に掲げられたコンセプトが「歩くことが楽しくなる“まち”」だった。
当時、組合の理事長を務めた水野賢二さんは、当時をこう振り返る。
「できるだけ今ある自然を残す。これが大前提でした。自分たちの暮らす街を、セミも鳴かない、ホタルも飛ばないような場所にはしたくなかったんです」
まちづくりの参考にしたのは、米カリフォルニア州デービス市のビレッジホームズだ。1981年に建設されたニュータウンで、いちはやく「自然との共生」や「持続可能な強いコミュニティ」を打ち出し、環境意識が高い裕福な住民の誘致に成功していた。
公園などが広く確保され、住居は自然の地形を生かして建築され、歩行者や自転車が中心のまち──。こうしたまちづくりを、住民が主体となって進める姿に、視察に訪れた組合の理事たちは「大きな衝撃を受けた」と吉田市長は振り返る。
「だから、私たちもできるだけ緑を残そうと、理事たち10人ぐらいで雑木林に入り、4カ月ぐらいかけて木々に一本一本、ビニール紐で目印をつけて回りました」
しかし、理想とした「緑の残るまちづくり」は困難を極めた。
人気のきっかけは「愛・地球博」
緑地を多く残した当初の計画案は、国土交通省の定める「土地区画整理事業」の要件に合わず、修正を余儀なくされた。
また、同地区の地下には明治期から戦後の高度成長期まで亜炭(石炭の一種)を採掘していた古い坑道も存在しており、その坑道を埋めもどす工事にも、膨大なコストと時間がかかった。
問題は組合で保有する保留地と呼ばれる土地の売却だった。当時は不動産価格は下落の一途という時期。保留地が売れないリスクもあった。
ハウスメーカーに売り込みに行くと、「豊かな緑なんて売りにならない」「駅から遠い不便な場所を誰が買うのか」と辛辣な言葉を投げかけられたと水野さんは振り返る。
「組合の理事たちは45億円という借金の連帯保証人になっていました。ですから、保留地が売れない時期は本当に胃が痛い毎日でした」
風向きが変わったのは2000年代初頭。2005年の愛・地球博のメイン会場に長久手にある愛知青少年公園(現在は愛・地球博記念公園に改称)が選ばれ、長湫南部地区も場外臨時駐車場として使われることになった。それをきっかけにハウスメーカーの意識が変わったという。
ハウスメーカー6社に委託販売した区画は愛・地球博の開催中に完売。同年10月から計5回行った公開抽選では、倍率は最高26倍にも達した。
当時の販売価格は、150平方メートルほどの土地と建物で4000〜5000万円前後。駅から遠い立地にしては強気な価格だったが、それでも販売が好調だったのは、おもな購買層が名古屋や豊田など周辺都市の大企業に勤め、緑豊かな住環境を重視する子育て世帯が中心だったためだ。
2005年に制定された条例や景観ガイドラインも地区の魅力を後押しした。
同地区内では、パチンコ店や工場などの建設が制限され、主要道路は緑化された。住宅についても、道路沿いは植栽を施し、隣り合う建物の位置が広めに設定された。
こうした「まちづくり」の成果はすぐに表れた。
2005年以降、分譲地は次第に価格が上昇。2017年には1平方メートル当たり15万円前後となり、5〜6年前に比べて2万円近く上昇しているにもかかわらず、住民の転入は衰えていない。
その結果、同地区は現在までに約1900戸、5000人ほどが暮らす人気の地区となった。
それでも、吉田市長は危機感を募らせている。
その一因が「人と人とのつながり」だ。転入してくるのは長久手に地縁がない人々が大半を占めるからだ。
「推計では2050年頃まで長久手の人口は増えていきますが、それでもその先に高齢化や人口減が避けられない。だからこそ、今から地域の絆を深め、自助や相互扶助の枠組みを作っておく必要があるんです」
そこで長久手市は、市内にある6つの小学校区を住民自治の基本単位に設定。校区ごとの「まちづくり協議会」の発足も支援している。
前出の沈さんも、今年から「市が洞まちづくり協議会」の立ち上げに参加している。
「私や夫にとって、ここは生まれ育った地元ではありません。でも娘にとっては、ここが“ふるさと”なんですよね。数十年後、大きくなった子どもたち世代が住みたいと思える街、いざというときに頼れるコミュニティを作っておくことが、私たち世代の役割なのかな、と思ったんです」
吉田市長は言う。
「かつて土地バブルの狂騒の中で『豊かな自然が街の財産になる』と言っても、誰も耳を貸さなかった。ところが今、人々は『自然が残っている』と長久手にやってくる。30年先には、地域社会に参加する煩わしさが街の強みになる日がくる。私はそう信じています」
庄司里紗(しょうじ・りさ)
1974年、神奈川県生まれ。大学卒業後、ライターとしてインタビューを中心に雑誌、Web、書籍等で執筆。2012~2015年の3年間、フィリピン・セブ島に滞在し、親子留学事業を立ち上げる。明治大学サービス創新研究所・客員研究員。
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝
図版:ラチカ