オルタスジャパン/米国立公文書館

首都圏にも多かった米軍基地――その跡地から見えるもの

10/4(水) 11:22 配信

例年ほど暑くなかったとはいえ、神奈川県の湘南海岸にはこの夏も大勢の観光客が訪れた。湘南海岸の1キロほど沖合には、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」にも歌われた烏帽子岩も浮かんでいる。しかし、この有名な海岸が1950年代まで米軍基地だったことを知っている人は、そう多くないかもしれない。湘南に限らず、かつては首都圏や関東各県にも多くの米軍基地が置かれていた。それにとどまらず、日本本土には33都道府県に東京ドーム約2万9000個分の米軍専用施設があった。米軍機の事故や米兵による犯罪も頻発し、今の沖縄と同様、基地反対運動が激しかったという。この夏、基地の跡地を歩きながら、今に通じる歴史を探した。 (Yahoo!ニュース 特集編集部)

海水浴客とサーファーでにぎわう湘南海岸。かつては米軍の演習場だった(撮影:オルタスジャパン)

「チャコの海岸物語」の烏帽子岩も

茅ヶ崎市に住む漁師の石坂三郎さん(83)は、1950年のある夏の日をよく覚えている。アジ漁のため、父と兄との3人で烏帽子岩の周辺に舟を出していた。アジの一本釣りの舟は30~40隻だったという。

そこに突然、激しい砲撃音が鳴った。米軍戦車が海岸から烏帽子岩を目がけて砲撃演習を始めたのである。 「必死にろをこいで逃げたよ」。舟を陸に揚げたところ、直径10センチほどの砲弾の破片が、兄の座っていた席の反対側に転がっていた。

漁師の石坂三郎さん。湘南の海を隅々まで知っている (撮影:オルタスジャパン)

石坂さんが振り返る。

「(砲弾が)反対側に落ちたら兄貴が亡くなっておっただよ。直撃で当たってよ。(訓練の事前)通知なんて無かったな。漁協にはよ。今だったら大変だけどよ、戦争で負けちゃっているからしょうがねえよ。人間殺されちゃっても。昔はそんなだった」

茅ヶ崎市から藤沢市にかけての海岸一帯はかつて「チガサキ・ビーチ」(茅ヶ崎演習場)と呼ばれる米軍の演習場で、朝鮮戦争(1950~53年)の頃は、海兵隊と陸軍による上陸、砲撃、爆破などの訓練・演習が連日のように行われていた。

上=海岸から烏帽子岩を目がけて砲撃を行う戦車隊。1953年11月 下=チガサキ・ビーチでの上陸演習。1950年6月28日(提供:いずれも茅ヶ崎市/所蔵:いずれも米国立公文書館)

激しい訓練の連続に、住民は猛反発した。漁ができない、といったことだけではなく、米兵による犯罪や不法行為も多発した。地元郷土史家の記した「茅ヶ崎とアメリカ軍(3)」によると、当時、地元で開かれた公聴会では、こんな発言があった。

「兵士に追いかけられることが頻発して夜間婦女子の交通は全くの不可能の状態となり、通勤の婦女子は壮年男子の護衛を必要とする不安な有様」

「演習兵士が昼夜を問わず付近住宅に侵入、ビール、酒などを求め付近住民は夜も眠れずにいる有様」

この当時、米軍基地は全国の至る所にあった。その様子はどんなものだったのだろうか。住民は何を考えていたのだろうか。ここで動画(約9分)をじっくり見てほしい。

1950年代、基地反対の動きは全国に広がっていた。例えば、1952年には石川県で試射場建設に反対する「内灘闘争」が始まり、1955年には東京都の立川基地の地元で「砂川闘争」が起こった。そうした中、基地返還も少しずつ実現し、海兵隊を中心とする地上部隊は1958年には本土から姿を消した。その海兵隊の向かった先が、米統治下の沖縄である。

石川県の内灘闘争(提供:内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」)

本土から沖縄へ 海兵隊移転の理由とは

なぜ、海兵隊は沖縄に移転することになったのか。日米関係史に詳しい沖縄国際大学非常勤講師の山本章子さん(38)は「抑止力や軍事性とは無関係。政治的な判断が理由でした」と語る。

大きなきっかけは、1957年1月に群馬県の相馬ヶ原米軍演習場内で起きた日本人女性射殺事件「ジラード事件」だったという。この事件で日本本土の反基地感情が一気に高まると、全国的な反米感情に転化することを恐れた米側は、海兵隊を即時、本土から全面撤退させることを決定。移転先は当初計画されていたグアムではなく、一部部隊が既に移転済みの沖縄が選ばれた。

砂川闘争。住民と警官隊の激しい衝突も繰り返された (提供:東京都立川市)

山本さんは「沖縄は米国の支配下だったので、(本土と同じような)反米・反基地運動が起きてもつぶせる、と。そういう判断が働いたんですね」と言う。

琉球列島米国民政府や琉球政府の資料などによると、こうした海兵隊の沖縄移転により、日本本土の米軍専用施設は1955年から60年にかけて約13万ヘクタールから一気に約3万3500ヘクタールにまで減少。一方の沖縄では1.86倍の約3万ヘクタールに増加した。

日本本土と沖縄の米軍専用施設の面積推移。1972年まで沖縄は米軍施政下

水戸市近郊にあった米軍基地

海兵隊が沖縄に移転したことで、本土の米軍専用施設は大幅に減少した。それでも、空軍や海軍の基地はあちこちに残っていた。

今は国営ひたち海浜公園となっている茨城県ひたちなか市のエリアもそんな場所の一つだ。ネモフィラやコキアを目当てに年間約200万人もの観光客が訪れる。湘南海岸と同様、ここも「水戸対地射爆撃場(水戸射爆場)」という米軍の施設だった。

淡いブルーが美しいネモフィラの群生。観光客が大勢集まる国営ひたち海浜公園(提供:同公園)

ひたちなか市の黒澤一さん(86)は当時も今も、同じ住宅地に住んでいる。水戸射爆場から1キロほど。射爆場があった当時、住民は上空を飛び交う米軍機の騒音や誤射・誤爆などに悩まされ続けたという。

「大変も大変。学校の授業はできないし、豚は餌を食わなくなる。ニワトリは卵を産まなくなる。射爆場の音でね。よくもそんな中を生き抜いたと思います」

住宅地に隣接していた水戸射爆場。米軍機が住宅街の頭上を飛び交った(提供:国営ひたち海浜公園)

惨劇もあった。その一つは1950年7月20日の終業式の日だった。

射爆場から約1キロ離れた阿字ヶ浦海岸で遊んでいた小学3年生、8歳の黒澤嘉代子さんが銃弾に撃ち抜かれ、出血多量で死亡したのである。嘉代子さんの姉で、たまたま近くにいた当時中学生だった大和田はるえさん(80)はあの日を忘れられない。

「妹のところに駆けつけたら、米兵が現れ、ジープで病院まで運んでいきました。とにかく、母が嘆き悲しんでいるのを見るのがつらかった。(葬儀の後は)墓標にしがみついちゃって。泣いている姿が頭から離れないです」

このほか、米軍機が住宅に墜落したり、落下した燃料タンクで6歳の男児が死亡したりする事故もあった。旧勝田市(現ひたちなか市)の調査などによると、1946年の射爆場供用開始から1970年までに起きた誤射・誤爆などは、確認されただけで155件に上り、少なくとも住民5人が死亡している。

住宅に墜落した米軍機(提供:関根直正さん)

「おれたちは標的ではない」

1957年にはとんでもない“事件”も起きた。当時の地元紙などによると、8月2日、水戸射爆場近くの農道を自転車で走行していた64歳の女性と24歳の息子が、超低空飛行の米軍機の車輪と接触した。女性は即死、息子も重傷。この出来事は、操縦していた米兵の名前から「ゴードン事件」と呼ばれたが、米兵が公務中だったため、日本検察は起訴できなかった。

地元自治体の職員だった小武浩さん(81)は飛行機がわざと親子を引っ掛けたと思っている。

「戦争に負けたからこれくらいやられるのかなと思った。われわれを馬鹿にした話だよ。実弾射撃をやられているとね、戦争中と変わりがない。だから(射爆場に隣接する)阿字ヶ浦の人は(運動に)一生懸命だった」

上=1969年2月の第3回水戸対地射爆撃場返還促進大会の様子(提供:茨城県) 下=1972年の県民大会(提供:ひたちなか市)

水戸市内などで開催された返還要求の大会では「おれたちは標的ではない」などの文字が掲げられ、運動は激しさを増していく。運動は結局、1973年の返還まで十数年も続いた。

風化の中で当事者たちは

水戸射爆場は今、公園やショッピングセンターなどに姿を変えている。跡地には記念碑もない。そのため、取材で会った多くの人は「基地の歴史が風化している」と口にした。

射爆場の事故で亡くなった黒澤嘉代子さんのいとこ、大内陽子さん(76)は言う。

「私は夏になると、必ず(事故で亡くなった人たちを)思い出すんです。返還されて、景色がまるで変わったのは良いことだけど、新しい人、よそから来た人は『射爆場って何?』という感じでしょう。形だけでも何かが残ればいいと思うんです。記念碑とか」

米軍の誤射で妹の黒澤嘉代子さんを亡くした大和田はるえさん=左、いとこの大内陽子さん=右。黒澤さんはこの場所で撃たれた(撮影:竹内弘真)

黒澤一さんも米軍の誤射で親類の男性(当時24)を亡くした。

「誰と誰が亡くなったかを覚えている人は、もういなくなってしまったと思います。(それを思うと)日本の平和って何なんだろう、って。ああいう苦労があって、戦後の復興はあったわけですから、みんなが忘れることは非常に悲しいんです」

黒澤一さん。取材中、涙ぐんだ (撮影:竹内弘真)

沖縄への基地集中、本土の人たちは…

水戸射爆場が返還される直前の1970年前後、日本ではベトナム戦争に反対する動きが広まり、各地の基地反対運動が激しさを増した。そうした中、日本政府は関東圏を中心に米軍基地の縮小を米国政府に求めるようになる。ベトナム戦争で財政が悪化していた米国もこれに応じたため、1960年代後半〜70年代、本土では基地縮小が進み、沖縄では負担の固定化が進んだ。

多くの人が忘れかけている基地の歴史。かつて本土の「米軍基地の街」で暮らした人たちは、沖縄への基地集中をどう思っているのだろうか。

ひたちなか市の箕川恒男さん(69)は地元紙記者を経て、記録作家として水戸射爆場などの歴史を調べてきた。高校生の頃、射爆場に忍び込み、キノコ狩りをしていた際、米兵に銃を突き付けられたこともある。

箕川恒男さん。水戸射爆場の関係者らに取材を行い『禁断の海辺』を著した(撮影:オルタスジャパン)

「(本土の基地が減ったといっても)日米安保が廃棄されたわけじゃないんだから、(基地を)どこかに持って行ったわけですよね。沖縄がその分を引き受けざるを得なかった。それを想像する力が私たちにはないんでしょう。ヤマトンチュ(本土の人)はずるいわけです。彼らから言わせるとね」

小武さんにも尋ねてみた。小武さんは自治体職員として返還運動に関わっていた。

小武浩さん(撮影:オルタスジャパン)

「日本全体で(負担を)分担しろ、って沖縄が言うのは当たり前だと思う。おれは沖縄に1回しか行ってないけど、気の毒だった。米軍基地を見て、沖縄の人が怒るのも仕方ないな、と。日本の国全体を見て、もともと基地だった場所は基地として残しておくべきだったんだ。何カ所かね。そういうバランスは取るべきだったと思うよ」

関東圏では多くの米軍施設が返還された。上=水戸射爆場の跡地にできた商業施設群(撮影:竹内弘真)、中=東京都北区の「王子キャンプ」は現在、陸上自衛隊十条駐屯地(撮影:オルタスジャパン)、下=埼玉県朝霞市の「キャンプドレイク」のゲート付近は、運動公園になった (撮影:同)

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[制作協力]
オルタスジャパン
[写真]
撮影:竹内弘真、オルタスジャパン
提供:米国立公文書館、茅ヶ崎市、内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」、
立川市、国営ひたち海浜公園、関根直正さん、茨城県、ひたちなか市

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