長谷川美祈

「自由な俳句は平和な時代だからこそ」古老・金子兜太が語る

8/15(火) 12:49 配信

俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんは97歳。白寿を目前にした現在に至るまで、時代を切り取る「社会性俳句」を詠み、俳壇の選者をつとめたり各地で講演をしたりと精力的に活動してきた。2年前、安全保障関連法案に反対するデモのシンボルとなった「アベ政治を許さない」の字を揮毫(きごう)したのも、金子さんだ。今なお衰えない発信の原動力を尋ねると「戦争です」と即答する。一世紀に迫る人生のターニングポイントや、経験から感じる時代の危うさについて語ってもらった。
(ノンフィクションライター・秋山千佳/Yahoo!ニュース 特集編集部)

(撮影:長谷川美祈)

始まりは暇つぶしの文芸

金子さんが暮らす埼玉県熊谷市の日本家屋は、緑あふれる夏の庭から鳥や蝉の声が賑やかに降り注ぐ。

「生活に対して神経質なところはありません」といい、食事は同居する長男夫妻と同じものを食べ、酒も92歳で胆管がんの手術をした頃まで楽しんでいた。その際に骨密度を測定したところ、20代と同等の数値で周囲を驚かせたという。

(撮影:長谷川美祈)

酒止めようかどの本能と遊ぼうか

というユーモラスな句もある。いつ句作するかは特に決めていない。

「私は、俳句は生活から生まれると思っているんです。生活の中で呼吸している数だけ、言葉を並べられたらというのが理想。だからあまり気取ったものを作るという雰囲気はないんですよ」

そして「始まりは、暇つぶしの文芸だったんだ」と笑う。

まもなく98歳になる。誕生日は9月23日だが、実は本当の出生日は丸ひと月前の8月だという (撮影:長谷川美祈)

七五調に惹かれて

金子さんは1919年、埼玉県に生まれた。医師の父・元春(俳号・伊昔紅)は俳人で、秩父音頭を現在の形に体系化した人物としても知られる。七五調の音頭は体に染みつき、父の開く句会に集う知的でワイルドな「山の男」たちと接するうち「俳句の雰囲気に引き込まれちゃった」。

その雰囲気を嫌っていた母からは「俳句なんか作っちゃいけないよ」と反対されていたが、旧制水戸高校在学中の19歳の時に先輩から句会に誘われ、断りきれず句を作ったのを機に、のめり込んでいった。

しかし80年近い俳句人生の中で、一度だけ、俳句から離れた空白の時期があるという。第二次世界大戦中、東京帝国大学を繰り上げ卒業し、海軍主計中尉(のちに大尉)として赴いた南洋・トラック島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)でのことだ。

米軍機の爆撃を受けるトラック島

餓死が日常化したトラック島の日々

トラック島は日本の南約3500キロに位置し、第一次世界大戦以降は日本が占領していた海軍の拠点だった。だが、1944年3月の金子さんの着任時は、米軍の大規模な空襲により島じゅうが黒焦げになった直後。基地機能はすでに失われており、まもなく一切の補給が断たれた。

戦闘死よりも餓死が日常化してゆき、終戦までの10カ月ほどは句作を忘れた。

「極限状態まで行っていますから、芸術的なことは何もできない。200人ほどで芋作りをしても害虫に食われた。ぶらぶら歩いて食えるものがあると拾って袋に入れて、栄養失調のひどい連中にあげる、そういう行動だけになっちゃった」

トラック島の日本軍基地への爆撃(写真:AP/アフロ)

死骸を担ぎ、「わっしょいわっしょい」

当初は手榴弾を海に投げ込んで魚を取ることができたが、武器弾薬にも限りがある。そこで金子さんの所属する海軍施設部が、島内で試作された手榴弾の実験を命じられた。実験にあたる工員が海辺に立ち、金子さんや他の仲間は6メートルほど離れたところで見守った。しかし手榴弾は手元で爆発。工員の右腕は吹き飛んだ。駆け寄った金子さんらが倒れた彼を抱きおこすと背中の肉がえぐれ、絶命していた。

そのとき金子さんが「トラック島の記憶の珠玉」と呼ぶ出来事が起こる。

「工員さんたちが死骸を担ぎ上げて、『わっしょいわっしょい』と叫びながら皆で病院へ向かって走り出したんです。即死なのはわかっているが、仲間に対する哀悼の意でしょう。私も走りながら涙が出ました。人間っていいもんだと。その人間がこんなむごい死に方をする戦争は悪だと、つくづく思いました」

やがて敗戦を迎え、1年3カ月の捕虜生活を送った金子さんは、日本への最後の引き揚げ船で帰国した。甲板上で過ぎゆく島の海を見つめるうちに浮かんだのが、次の句だ。

水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

(撮影:長谷川美祈)

この句を金子さんは「生涯の代表句」と語る。

「詠もうとして詠んだものじゃない。この句が頭に出てきた時に、非業の死者への哀憐の念とともに、自分はこの体験を語り継いでいくつもりだという思いが猛然と起こりましてね。この句を忘れたら俺の罪だと。自分の人生を区切るものです」

1944年、トラック島にて。24歳当時(本人提供)

レッドパージで福島支店へ

帰国後は、戦地へ赴く前に3日だけ勤めた日本銀行に復職するが、すぐに職場に対して失望することになった。

「戦争から帰ってきたばかりの私から見ると、日銀当局なんて、ただのんびり金を勘定してレポートを書いているだけ。『でかいツラしてバカじゃねえか』と思う状態だった」

とりわけ馬鹿らしく感じたという学閥制度や身分給を変えるべく組合活動に励んだが、数年で距離を置かざるを得なくなった。1950年にGHQの指令で労働運動や共産主義の支持者を追放する「レッドパージ」(赤狩り)が行われた影響で、本店から福島支店へ「追い払われた」からだ。

「ちょうど当時、福島は磐城の常磐炭田の不況でね。その頃、炭鉱に代わって、原子力発電所の開発が見えつつあるという新聞報道が伝わってきて『これからは石炭どころじゃねえぞ』と話したのを覚えています」

1954年の常磐炭田。常磐線稙田駅積出ホーム(写真:毎日新聞社)

福島で3年暮らすうちに、仕事より句作に力点を置くようになり、かの地の経済的困窮を詠んだ。そんな縁もあるだけに、2011年3月の東日本大震災による原発事故には胸を痛め、報道を注視してきたという。2014年の終戦の日には、東京新聞にこんな句を寄せている。

原爆忌被曝福島よ生きよ

金子さんは「津波によって事故が起こったのも、そもそも安全に対する見地が浅かったからだ」と憂う。

「被『曝』の字は、原爆の被『爆』とは違うとして、政府は原発を正当化し、再稼働したり、輸出したりするわけでしょう。福島にいまだ続く被害を招いたのに。そういう経緯を見ていると、やっぱり腹が立つんです」

長年の付き合いがある俳人・黒田杏子氏が編著者としてまとめた『存在者 金子兜太』(藤原書店)には、近作も多数掲載されている (撮影:長谷川美祈)

原発輸出が核兵器開発につながりかねない危うさも感じているという。昭和30年代に長崎支店で勤務していた頃、作った句がある。

彎曲(わんきょく)し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン

「私の記憶の中の戦後間もない広島・長崎と、今の福島とはつながっている」と金子さんは語る。

自粛の空気を感じる

2年前に気迫あふれる毛筆で「アベ政治を許さない」としたためた金子さんに、現在の安倍晋三首相への思いを聞いてみた。

「平凡な人間の典型みたいな男が総理大臣になったものだから、急所における弁が冴えず、能ある勢力によって悪い方へ持っていかれちゃう。そんな政治家としての弱さがある。だから危ないですよ。十五年戦争の時の陸軍皇道派の荒木貞夫らのような連中が台頭してくるんじゃないかしら」

当時と現在に共通するものとして、「自粛の空気」を感じるという。

(撮影:長谷川美祈)

金子さんには若かりし日、時流に呑み込まれた苦い経験がある。

俳人として歩み始めた頃、新興俳句の俳人が次々に治安維持法で検挙された。「俳句弾圧事件」だ。反戦の句を掲載した俳句誌は廃刊に追い込まれ、金子さんの知人でも、両手の生爪をすべてはがされた人や、勾留された獄中での扱いから体を蝕まれて亡くなった人がいた。

「俳句が危険なものとして扱われたなんて、そんなへんてこりんな時代は今の若い人だと想像できないでしょうね」と金子さんは話す。

(撮影:長谷川美祈)

金子さんの参加する句会にも、たびたび特高警察が現れた。部屋の隅で論議に耳を傾けては何かをメモし、しばらくすると、帽子をちょっと持ち上げるような仕草をして帰る。

「それだけで皆、度肝を抜かれちゃって全然ダメ。自粛する雰囲気になりました。私もいわゆる俳句屋としては完全に素人で、事件に触れるという思いはなく、ちょっと逃げ腰でやっていた。その時の自分の態度をいつも悔やんできた。そんな時代になってはいけないんです」

廊下の一角に整然と並ぶこけしは、亡き妻が集めたものだ (撮影:長谷川美祈)

社会性俳句の意義は今を大事にすること

金子さんが再び「自粛」への危機感を募らせたのは2014年、さいたま市の公民館で、集団的自衛権の行使容認に反対するデモを詠んだ市民の句が、公民館の判断で掲載拒否されたことがきっかけだった。

金子さんは作家のいとうせいこうさんとの対談でこの問題を取り上げた。すると、翌2015年には、2人でレギュラー選者をつとめる「平和の俳句」が東京新聞紙上で始まった。読者が寄せる作品を1日1句、朝刊1面で紹介するものだ。

3年目の今も、毎朝新しい「平和の俳句」が世に送り出される。ほのぼのとした日常の風景もあれば、頭上をゆく軍用機の爆音を詠んでいるものもある。

国会前の抗議行動で、無数の「アベ政治を許さない」の文字が躍った(写真:Natsuki Sakai/アフロ)

金子さんは「社会性俳句の意義は、今という時代を大事にすること」と言う。そして17文字ほどの俳句が、やがて時代を覆う空気を変えていくことに期待しているという。

「自由に俳句を作れるのは、平和な時代だからこそ。至るところで平和を匂わせるものを感受して、作品として提示し、戦争に対する警鐘を打つ。俳句なら誰もが声を上げられるし、その努力をすることに意味がある。そこから私と読者、さらに国民の間に議論が巻き起こってくれれば非常にもうけものだと考えています」

(撮影:長谷川美祈)

金子兜太(かねこ・とうた)
1919年、埼玉県生まれ。1938年、旧制水戸高等学校に在学中に句会に参加。1943年、東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行するが、翌年応召し出征。海軍主計中尉に任官され、トラック島へ派遣される。九死に一生を得て復員し、日銀に復職。福島支店、神戸支店、長崎支店などを経て東京へ。社会性俳句運動を起こし、注目される。これまでに現代俳句協会賞(1956年)、日本芸術院賞(2003年)ほか、多数の受賞歴あり。


秋山千佳(あきやま・ちか)
1980年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、朝日新聞社に入社。記者として大津、広島の両総局を経て、大阪社会部、東京社会部で事件や教育などを担当。2013年に退社し、フリーのノンフィクションライターに。著書に『ルポ 保健室 子どもの貧困・虐待・性のリアル』『戸籍のない日本人』。

[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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