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長谷川美祈

3人に2人が高齢者、群馬県南牧村から人が減った理由

2017/06/06(火) 09:44 配信

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「高齢化率60.5%」。群馬県南西部に位置する南牧村(なんもくむら)では、村民の3人に2人が高齢者という厳しい状況を迎えている。2014年には、民間シンクタンクに「消滅可能性が最も高い村」と名指しされ、一躍注目を浴びた。かつて豊かだった村は、なぜ高齢者ばかりになったのか。人々の生活は成り立っているのか。高齢化の最前線で人口減少に立ち向かう、山あいの村の「いま」に迫った。(ライター庄司里紗/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「消える」と名指しされた村

東京から、車でおよそ2時間30分。上信越自動車道から県道に出て、のどかな山あいを進んだ先に、南牧村はある。

村を東西に横切る南牧川が刻む深い谷に沿って、うねうねとしたカーブの狭隘(きょうあい)な道が続く。急峻な山肌にしがみつくように立ち並ぶ家々や、石垣を巡らした段々畑、そして鬱蒼(うっそう)とした森がたたずんでいる。

群馬県南牧村の風景(撮影:長谷川美祈)

長野との県境に位置する群馬の小さな村の名が、一躍全国区になったのは2014年。民間シンクタンク「日本創成会議」が発表した報告書(通称「増田レポート」)がきっかけだ。

増田レポートとは、人口再生産の鍵となる若年女性(20~39歳)の2010〜2040年の人口変化率をもとに、各自治体の存続可能性を示したもの。すでに高齢化率日本一となっていた南牧村は、若年女性が約9割減少するとされたうえ、「消滅可能性が最も高い」と名指しされた。

「滅びゆく村だと言われて、村の住民は皆、ショックを受けた。南牧の人たちは、米が一粒も採れない山を切り開き、知恵と工夫で厳しい環境を乗り越えてきた。そんな暮らしをしてきた人たちに、ずいぶん失礼じゃないか、って」

明治10年創業の老舗「信濃屋嘉助」で3代目を務める金田征之さん(撮影:長谷川美祈)

南牧村で和菓子店「信濃屋嘉助」を営む金田征之さん(77)は、そう語気を強める。南牧で生まれ育ち、1877(明治10)年から続く老舗で今も店先に立つ金田さんは、村が最も栄えていた頃をこう述懐した。

「昭和30(1955)年に尾沢村、磐戸村、月形村が合併して南牧村になった頃は、この小さな村に1万人以上も人がいた。当時は養蚕やコンニャクイモの栽培で農家はみんな潤っていてね。お役所勤めの年給が70万円ぐらいのとき、農家は100万円以上稼ぐことができた」

親子2代で店先に立つ。4代目の鎮之さん(46)は、村への移住支援を行う有志のグループ「南牧山村ぐらし支援協議会」で会長を務める(撮影:長谷川美祈)

最盛期は半世紀前

金田さんの言葉通り、もともと南牧村は豊かな村だった。古くは良質な砥石の産地として知られ、江戸時代には幕府の御用砥として重宝された。主力産業では養蚕が栄え、明治以降はコンニャクイモの栽培も盛んになった。傾斜が多く水はけのいい南牧の土地は、寒さに弱く根腐れしやすいコンニャクイモの栽培に適していた。コンニャク市場はたちまち南牧村の独壇場となり、当時は「コンニャクの荒粉(あらこ)をセメント袋1つ分売れば3カ月遊んで暮らせる」と言われたほどだった。

南牧村の農業は、1950年代半ばから1970年代初頭にかけて最盛期を迎える。しかしその頃をピークに、村の人口も農業も下り坂となっていく。1955年に1万573人だった人口は、過疎と少子高齢化によって急減。2015年には2000人を割り込み、1979人となった。ピーク時の5分の1以下だ。その間、3校あった小学校と中学校はそれぞれ1校に減った。金田さんが言う。

「やっぱり仕事がないと、残りたくても残れないよね。村外で働く人は多いけど、交通の便が悪いから職場の近くに引っ越しちゃう人もいる。村は便をよくしようと道路を広げたりもした。だけど……道路の拡幅で立ち退いた人の多くは、その補償金で富岡や下仁田に家を建てて村を出て行ってしまった。皮肉な話だよねえ」

林業が基幹産業の1つだった(撮影:長谷川美祈)

平地がほとんどない

急激な人口減の最大の理由は、農業と林業の衰退、そして新たな基幹産業の不在だ。背景には、南牧村の地形に起因する「産業転換の難しさ」がある。

南牧村は1000メートル級の山々に囲まれた険しい地形の中にある。平地はほとんどなく、村の総面積(約120平方キロメートル)のうち9割近くを林野が占める。農地は約5%、宅地に至っては1%にも満たない。

「ここらは日当たりが悪くてねえ。杉が邪魔して、10時半を過ぎないと日が当たらないんだよ」

南牧村のほぼ中央に位置する六車(むくるま)地区。農作業をしていた岩井茂之さん(75)は、斜面に広がる畑を見上げながらつぶやく。

コンニャクイモ農家をしていた岩井さん(撮影:長谷川美祈)

「農業がダメになって、畑をつぶして杉を植えてみたら、林業もダメになって。誰も木を切らないから杉の背がどんどん高くなる。昔はここいら、ぜーんぶ畑だったけど、今では家庭菜園よ」


そう笑う岩井さんも、かつてはコンニャクイモの栽培の農家だった。しかし、数十年前に廃業。隣接する下仁田町に勤めに出て、定年を迎えた。


「1960年代の品種改良で、平地でも作れるコンニャクイモが登場した。それで産地が平地に移っちゃって、価格も下がった。農家の多くは、村の外に勤めに出るしかなかった」

村の産業史を笑いながら振り返る(撮影:長谷川美祈)

高度成長の陰で

急斜面の畑では機械を入れられず、大規模な栽培は難しい。悪条件の畑では、コンニャクイモに代わる高収益な作物は育てられない。岩井さんは、採ってきたばかりのワラビを「持っていって」と差し出しながら言う。
「ここは地形が悪すぎるんだよ。鹿やイノシシも多くて、畑にわるさするしね。人間が暮らすには、ちょっと厳しすぎるんだよなあ」

急斜面に石垣を積んで作った畑。まっすぐ立つことも難しい場所での農作業は、想像以上の重労働だ(撮影:長谷川美祈)

1960年代の日本といえば、高度経済成長の真っ最中。都市部がその恩恵を受ける一方、南牧のような山村はその反動を受けることになった。村の主要産業だった養蚕は価格の安い輸入品やナイロン糸にシェアを奪われ、頼みのコンニャクイモも価格競争力を失った。そこに追い打ちをかけるように、林業の不振が重なった。

同じく六車地区で製材業を営んでいた大野由紀夫さん(63)は、先代が一代で築いた製材所を数年前にたたんだ。自宅の柱を指さしながら、大野さんは言う。

「この家を建てたとき、杉材は高価で使えなかったんですよ。職人の日当が350円で、杉の木には1本7000円前後の値がついた時代です。周りも豊かな家が多くて、自宅にカラオケがある家も珍しくなかった」

大野さんは東京の大学に2年通ったあと20歳で製材所を継いだ。妻のあい子さん(62)も南牧村の出身だ(撮影:長谷川美祈)

実際、南牧では林業も盛んで、落ち目の養蚕やコンニャクイモに代わって杉の植林に活路を見いだそうとする農家も少なくなかった。それも、木材輸入の全面自由化(1964年)による安価な外材の大量流入で潮目が変わる。そしてプラザ合意(1985年)後の急速な円高などで、国産材の価格競争力はさらに低下。国内の林業は壊滅状態に陥った。林業の凋落で村の経済は完全に「手詰まり」となり、村民は仕事を求めて次々と村を離れていった。

特に人口の流出が著しい、村の最奥部の集落。朽ちるがまま放置されている空き家も少なくない(撮影:長谷川美祈)

大野さんは、「急激な人口流出の理由は、雇用問題だけではない」と指摘する。見逃されがちなのが、村内に高校がないという問題だ。

「育ち盛りの子どもたちを抱える親世代にとっては、教育も大問題。村には中学までしかないので、進学する子どもたちは必然的に村外の高校や大学に通うことになる。仕事も村外、子どもたちの学校も村外となれば、子育て世代が村を離れていくのは仕方ない側面もあると思う」

大野さんの息子のうち2人は就職を機に村を出て、今も村外で暮らす。末っ子の隆史さん(28)は村に戻り、現在は南牧村役場に勤務している(撮影:長谷川美祈)

人口が流出していく状況に、村もただ手をこまぬいていたわけではない。住民サービスを拡充し、道路の拡幅や整備を行い、最奥部の集落にも電波が届くようケーブルテレビも開局した。1999年には、全戸に対してインターネット環境も整えた。ただ、時代に即した新たな産業を起こすことだけは、どうしてもできなかった。

企業誘致をしたくても、急な斜面だらけで工場を造れるような用地が確保できない。雇用の受け皿として村の職員を増やせば、人件費が財政を圧迫する。財源の多くを地方交付税に頼る村にとって、難しいかじ取りが続いた。

老人ホームへUターン

そんな中、2014年に南牧村村長に就任したのが長谷川最定さん(63)だ。前職で長く村の総務を担当していたという長谷川さんにとって、村が抱える課題は明白だった。

「平成元(1989)年の南牧村の高齢化率は約28%で、今の日本の平均値と変わらない水準でした。ところが30年足らずで60.5%まで上昇した。これは高齢者が増えたというよりも、若い世代が極端に減ったことが原因。まずは、雇用を増やすことが最重要課題でした」

南牧村の長谷川村長(撮影:長谷川美祈)

長谷川村長はまず、村のお年寄りが安心して余生を過ごせる有料老人ホームの建設に着手した。

「南牧のお年寄りたちは、この村で最後まで暮らしたいという思いが強い。ホームを造れば、その願いを叶えると同時に新たな雇用が生まれ、若い人たちの転出を防げる。実際、施設長をはじめ職員の数名は、村外からUターンした南牧出身者です」

2016年に開所した「ケアハウスいこい」。定員は20名で、現在は要介護2までの高齢者を受け入れる(撮影:長谷川美祈)

「以前、南牧に資格を活かせる場所はなかったが、ここが出来たおかげで帰ってこられました」と話す施設長の黛美尚子さん(45)(撮影:長谷川美祈)

入所者の一人、茂木又一さん(92)は「ここでの暮らしはお世辞抜きに最高ですよ。こういう施設を村が造ってくれて本当にありがたい」と語る(撮影:長谷川美祈)

老人ホームの入居費用は、月額5万8610円から。村に多い国民年金受給者に配慮した金額設定だ。運営には国からの補助金や介護保険等を活用しながら、職員の給与を公務員と遜色ない額にするなど、長く働ける仕組みづくりにこだわった。年内には、同じ敷地内にもう1棟の老人ホームを建設する予定だ。

雇用の確保と並行して「移住者誘致」にも力を入れる。南牧村では、2011年に村内の空き家を移住希望者とマッチングする「空き家(古民家)バンク」を開始。このサービスを利用して、これまでに21世帯39人(2016年9月現在)が南牧村に移り住んだ。人口2000人に満たない村にとっては、大きな数字だ。空き家バンクを担当する村づくり・雇用推進課によれば、「現在も年間100件前後の問い合わせがある」という。

村の雇用政策や過疎対策、移住支援などを担当する村づくり・雇用推進課課長の浅川秀行さん(右、52)と今井和則さん(左、41)(撮影:長谷川美祈)

あえて移住した20代女性も

親子2世代で南牧に移り住んだ家族もいる。静かな田舎暮らしに憧れ、夫とともに千葉県から移住した眞庭信子さん(62)は、村の空き家バンクを利用して現在の古民家を借りた。家賃は破格の1万円だ。

「20年以上空き家になっていたので、引っ越し当初は床からタケノコが生えていました。驚くこともあるけど、静かな環境だし畑もあるので気に入っています」

母親の信子さんと、娘の紗綾香さん。昔ながらの古民家を少しずつリフォームしながら暮らす(撮影:長谷川美祈)

娘の美山紗綾香さん(23)は「自然豊かな環境で子育てがしたい」と、出産を機に夫とともに両親のいる南牧に移り住んだ。長女の夢彩(いぶき)ちゃんは、南牧で生まれた。

「子どもが少ないからか、娘が生まれたときはご近所のみなさんもすごく喜んでくれました。『赤ちゃんを見るのは十数年ぶりだから』と、わざわざ遠くの集落から娘に会いに来てくれた人もいました」

南牧村に移住した当初は「友人たちから『過疎の村なのに大丈夫なの?』と心配された」という紗綾香さん(撮影:長谷川美祈)

とはいえ、南牧村の生活には不便も伴う。村にある商店はわずか2軒。診療所は数年前に閉鎖された。病気の際には週2回の出張診療に頼るか、隣の下仁田町の病院を受診するしかない。

「妊婦健診や出産の時には(近隣の)富岡市の総合病院まで通う必要があり、不安に思ったこともありました。でも、日常の買い物は移動販売車もあるし、生協と契約すれば宅配もしてくれるので、あまり不自由を感じません。車がないと生活が成り立たないとは思いますが……」

そんな紗綾香さんは、半年後に村の老人ホームで働くことが決まっている。夫は、すでに林業関連の企業で社員として働いている。信子さんが言う。

「家のリフォームや畑のやり方、娘夫婦の仕事探しも、みんなご近所さんが手伝ってくれました。ここは本当に『人』がいいんです。これからもできるだけ長くこの村に住み続けていきたい」

信子さんと孫の夢彩ちゃん(撮影:長谷川美祈)

座して死を待つ気はない

新たな産業振興が望めない今、南牧村の期待は村の将来を支える「人材」にかかっている。長谷川村長は、東京のメディア企業・カドカワと提携し、同社が展開するインターネット通信制高校「N高等学校」を通じて若者にプログラミングやキャリア教育を行う「Nセンター」の開設を準備中だ。

「南牧には高校も学習塾もありません。村の若者たちが、村内に住みながら新たな教育機会を得られれば、将来の人材育成につながる。また、都心の自治体と提携して子どもたちが南牧へショートステイする企画や、村外の学生たちに役場で職業体験をしてもらうツアーも計画しています。多くの若者に南牧の生活を知ってもらい、将来、移住や就職という形で貢献してくれる人を一人でも増やすことが狙いです」(長谷川村長)

数々の施策が進む一方、今も自然減を含め、毎年100人前後の人口が減っている。時間を巻き戻すことができない以上、劇的な人口回復は期待できないのが現実だ。長谷川村長も、そんな夢物語は描いていない。

「15〜20年後、おそらく村の人口は今の半分になるでしょう。ただ、雇用対策と移住促進に全力で取り組めば、人口減は900人前後で止まり、そこからはこの規模を維持できると考えています。900人という人口規模で自治体が機能するのかと問われれば、非常に厳しいと言わざるを得ない。でも今、何も対策を打たなければ、南牧村は本当に消滅の道を歩むことになる。だから今、村としてできることはすべてやっていくつもりです」

村の将来に向け、じっと前を見据える(撮影:長谷川美祈)

(最終更新:6/6(水) 10:50 )


庄司里紗(しょうじ・りさ)
1974年、神奈川県生まれ。大学卒業後、ライターとしてインタビューを中心に雑誌、Web、書籍等で執筆。2012〜2015年の3年間、フィリピン・セブ島に滞在し、親子留学事業を立ち上げる。現在はライター業の傍ら、早期英語教育プログラムの開発・研究にも携わる。明治大学サービス創新研究所・客員研究員。


連載「地域のすがた」
人口減時代を迎えた日本。右肩上がりの成長も、横並びの発展も望めない状況下で、地域格差がこれまで以上に顕在化している。消滅危機に瀕した村もあれば、子育て世代の移住が進む町もある。ただ、他所の成功例を模倣するだけでは、抜本的な解決につながらない。ヒントは現場にあるはず――この連載では、地方の町や村で住民の生の声を掬い上げ、地域の素顔を浮き彫りにすることで現在進行中の課題に迫る。

[写真]撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝