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玄界灘に「神宿る島」あり  孤島・沖ノ島 上陸記

2017/05/11(木) 16:59 配信

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「女人禁制」「不言様(おいわずさま)」「禊(みそぎ)」――。数々の禁忌に包まれた玄界灘の「沖ノ島」は、1600年以上前から神の島だった。古代祭祀の遺跡がほぼ手付かずの状態で見つかり、貴重な品々も大量に出土している。それら8万点は国宝に指定され、「海の正倉院」の別名も持つ。神職以外の上陸は原則禁止、女性の立ち入りも禁止。いったいどんな島なのか。世界文化遺産への登録が確実になった島に昨年9月、特別に上陸が許された。その後の取材も交え、ほとんど知られることのない「いにしえの島」を報告する。(Yahoo!ニュース 特集編集部)

玄界灘の絶海で世界遺産登録を待つ

沖ノ島は福岡県の北、玄界灘に浮かぶ周囲約4キロの孤島である。玄界灘の中央付近にあり、九州本土からの距離は約60キロ。宗像(むなかた)市に属し、島全体が「ご神体」とされてきた。この島は、この7月にも国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に正式登録されることが確実になっている。

沖ノ島は朝鮮半島と日本本土を結ぶ古代航路に位置する(作成:オルタスジャパン)

日本政府による世界遺産への推薦は昨年1月。ユネスコの諮問機関「世界記念物遺跡会議」(イコモス、本部・パリ)は現地調査を踏まえ、今年5月5日に正式登録を勧告した。対象は沖ノ島、および岩礁の「小屋島」「御門柱(みかどばしら)」「天狗(てんぐ)岩」の4件で、順調に進めば、文化遺産・自然遺産を含め、沖ノ島は日本で21件目の世界遺産になる。ただ、同時に推薦されていた宗像大社(沖津宮遙拝所・中津宮・辺津宮)、新原奴山古墳群など4件の資産はイコモスの勧告から外れたため、地元関係者や文部科学省は8件すべての登録を求めていくことにしている。

ところが、世界遺産候補になるほどの島でありながら、沖ノ島は地元の九州でも、どのような島なのか、知る人の少ない謎めいた存在だという。

1600年以上続く祭祀 「海の正倉院」

玄界灘に面した神湊(こうのみなと)漁港から高速の遊漁船で1時間余り行くと、沖ノ島に着く。島の出土品は約10万点に上り、そのうち8万点が国宝に指定されている。見つかるものはほとんどが国宝級だ。島が「海の正倉院」と呼ばれる理由もそこにある。

福岡県の鐘崎漁港。沖ノ島は、この沖に浮かぶ(撮影:オルタスジャパン)

朝鮮半島や東アジアの古代史に詳しい九州大学名誉教授の西谷正さんはこう話す。

「自然崇拝から国家的祭祀への変化の過程が、一つの島にそのまま残されているんです。出土品からはアジア各地との文化交流もうかがえる。そして、1600年が過ぎた今も地域の信仰の場として継承されている。この点も貴重。これも世界に例がありません」

西谷正さん。「海の道むなかた館」館長も務める。(撮影:オルタスジャパン)

上陸! 「島のいま」を動画で

上陸を禁じられている沖ノ島は昨年9月、報道陣に特別公開され、Yahoo!ニュース 特集編集部も参加した。その後の取材も加え、ふだんは目にできない「神宿る島」をお伝えしたい。まずは約10分間の動画で。

「禁忌に守られた島」

報道陣に沖ノ島が公開された昨年秋、現地で秋の大祭の幕開け「みあれ祭り」に遭遇した。神様を乗せた「御座船(おざぶね)」を大小およそ240の漁船が囲み、玄界灘へ向かう。海の安全と豊漁を祈願するためだ。

「みあれ祭り」。中央が「御座船」(編集部撮影)

特別に用意された高速の遊漁船で「沖ノ島」に近づく(編集部撮影)

報道陣を沖ノ島で出迎えたのは神職1人だった。他に人はいない。

神職以外は原則、入島禁止。それが掟(おきて)だ。仮に立ち入りが許されても、島での出来事を一切口外してはいけない。「不言様(おいわずさま)」と呼ばれる由縁である。「一木一草一石たりとも島外への持ち出しは許されない」という決まりもある。

掟を破ると、「祟りがある」と言われ、島全体が「畏れ」の対象だった。地元の漁師は「島のものを持って帰るなんて、もってのほか。石ころ一つでも絶対に、です。したらアカンことをしたら、『不言様のバチが当たる』って、子供の時からよく聞かされていましたから」と話す。こうした禁忌が沖ノ島の存在を隠し、古代祭祀の姿を今にとどめることになった。

地元の漁師たちは「禁忌」を頑なに守っている(撮影:オルタスジャパン)

荒天で船が避難したり、氏子の漁師が魚を届けたり―。そういったことは時折ある。無線での定時交信が本土側との唯一だった通信手段も、最近ではNTTドコモに限って通話ができるようになった。それでも、禁忌は今も島を包み込んでいる。

「禊」のあと、島の奥深くへ

「沖ノ島」を守るのは、宗像大社(宗像市)の神職20人である。1人ずつ持ち回りで島に上陸し、10日で交代する。天候や季節に関わらず、毎日、海で禊をし、中腹の社殿に参り、神事を執り行う。途切れることなく、何百年も続く祭祀だ。報道関係者も上陸の際は、禊を行い、身を浄め、ようやく鳥居をくぐることが許された。

沖ノ島に着くと、この「上陸心得」が目に入る(撮影:THE PAGE)

禊の様子(編集部撮影)

鳥居をくぐり、登り始める(編集部撮影)

ここから先は、神の領域になる。参道は深い緑に覆われ、参道の視界は開けない。

島の森はタブノキを中心とする照葉樹林で、ビロウやオオタニワタリといった亜熱帯植物の北限でもある。「沖の島原始林」として国の天然記念物にも指定されている。

いよいよ、「沖津宮」に

目指す「沖津宮」は、山道の参道を600メートルほど歩いた先にある。高低差は約80メートル。一気に登り、息が切れ始めたころ、小さな鳥居が見えてきた。田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る沖津宮だ。

沖津宮拝殿(編集部撮影)

沖津宮と巨岩(編集部撮影)

二つの巨岩に挟まれた、わずかな空間。そこに石組みの基礎が築かれ、社殿が立つ。巨岩はどちらも高さ7~8メートル。一つは社殿を押し潰すかのようにせり出している。

沖津宮の周囲には祭祀に用いられた13の巨岩が集中し、22カ所で祭祀遺跡が発見された。この範囲だけで4世紀後半から9世紀にかけての祭祀の変遷をたどることが可能だという。こんな場所は世界にここしかない。各時代の祭祀で使った出土品も数多く、シルクロード経由と考えられる品もある。

いにしえの祭祀 現代に

沖ノ島は宗像大社の神域だ。ご祭神は、田心姫神のほか、「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」の3姉妹の神であり、「宗像三女神」と呼ばれる。

九州本土側、宗像大社の総社「辺津宮」(撮影:オルタスジャパン)

三女神は「道主貴(みちぬしのむち)」の別名を持つ。「貴(むち)」は、最も格の高い神の尊称で、天照大神(伊勢神宮)、大国主命(出雲大社)と並ぶ存在だ。この三女神を祀る「宗像神社」「厳島神社」などは、全国で約6200を数え、その総本社が宗像大社である。

4世紀後半 岩上祭祀

では、沖ノ島での祭祀や出土品はどう移り変わってきたのか。写真を中心にたどってみよう。

最初の祭祀は4世紀後半、岩の上で始まった。天上に最も近い場所に石組みの祭壇をしつらえ、神を降ろす場所「依代(よりしろ)」とした。「岩上(がんじょう)祭祀」と呼ばれる。

この時代の出土品は、鏡、鉄剣、勾玉の「三種の神器」などが中心。畿内地方(近畿地方)の古墳から同種のものが出土することなどから、当時の大和朝廷が島の祭祀にかかわったと考えられている。上は「鏡」、下は「勾玉(まがたま)」=(写真:いずれも宗像大社提供)

「岩陰」から「半岩陰・半露天」「露天」へ

5世紀後半に入ると、巨岩そのものを「依代」とし、祭壇は「岩上」から「岩陰」へと移った。「岩陰(いわかげ)祭祀」である。さらに7世紀後半になると、岩陰の祭祀は露天でも行われるようになった。「半岩陰・半露天祭祀」だ。

そして、8世紀から9世紀末になると、祭祀は平坦な場所で行われるようになっていく。これが「露天祭祀」である。こうした時代の出土品は―。

「岩陰祭祀」時代、朝鮮半島から運ばれたとされる品々はいずれも豪華そのもの。南北朝時代の中国・宋(南朝)との交流が盛んだった。上は金製指輪、下は=ササン朝ペルシャ伝来のカットグラス椀片(写真:いずれも宗像大社提供)

「半岩陰・半露天祭祀」の時代。出土品の代表格は金銅製龍頭だ。精密な細工は今も鮮やか。この時代の一部の出土品は、伊勢神宮の祭祀にも用いられている。大和朝廷が律令制を敷き、その権力が各地に届き始めていた(写真:宗像大社提供)

露天祭祀の時代になると、大陸の品は姿を消す。外交の価値が国内政治的に薄くなり、国家として祭祀を行う意味も薄れてきたため、と考えられている。半面、国産の須恵器=写真上、滑石製形代(かっせきせいかたしろ)=写真下などがおびただしく出土している(写真:いずれも宗像大社提供)

海の民 豪族・宗像一族と大和朝廷

絶海の孤島でありながら、沖ノ島はなぜ、大和朝廷に手厚く祀られてきたのだろうか。

古代、この地方を治めていたのは豪族・宗像氏である。海人族であり、漁労だけでなく、航海術にも長けていたとされ、朝鮮半島とも独自に交流していた。大和朝廷は、そんな宗像氏と同盟を結んで大陸との交流拡大を図ったという。

沖ノ島「沖津宮」(写真:宗像大社提供)

宗像大社の月次際。拝殿の前で神職が祝詞(のりと)を捧げる(撮影:オルタスジャパン)

九州大学名誉教授の西谷さんが語る。

「祭祀があった500年間は、日本の歴史の中でも国際交流が非常に盛んになりました。古代国家(大和朝廷)が統一国家として完成する過程で、大陸の進んだ技術や文化・制度を導入し、それを糧として国家を建設していったわけです」

沖ノ島は、宗像の海人たちが崇めてきた地方の神。大和朝廷はその神を国家の神として直接祀ることで、宗像氏との関係を深めた。つまり、国家の成立にとって沖ノ島の存在は非常に大きかった、と西谷さんは言う。

信仰は現代にも生きている

大和朝廷が支えるなどした沖ノ島の国家的な祭祀は10世紀に役割を終えた。しかし、その信仰が途切れたことはない。中でも沖ノ島を望む「大島」の漁師たちは信仰心が厚い。

玄界灘は荒れることで知られる。漁師は荒天時に沖ノ島を拝む(撮影:オルタスジャパン)

漁網を整えていた大島の漁師は「船の上から沖ノ島を拝みますよ。風が強いときは『無事に帰れますように』とか。神様がおるけんね」と言う。不漁が続くと神様に「献魚」するため、沖ノ島にも行く。もちろん、禁忌は絶対に犯さない。

大島の漁師と沖ノ島は特別な関係にある。「昔から沖ノ島仲間ちゅうてね。沖ノ島で漁をしながら、沖津宮(沖ノ島)を守ったという伝統があった」。沖西敏明さん(68)はそう語る。先祖代々、大島の漁師。自身は引退後も「沖中両宮奉賛会」の会長として沖ノ島の祭祀にも携わる。

沖西敏明さん(撮影:オルタスジャパン)

沖西さんによると、1960年ごろまで、大島の漁師たちは沖ノ島に小屋を建て、住み込み、周辺での漁も許された。この「結(ゆい)」のような組織を「沖ノ島仲間」と呼ぶ。「船もエンジンも小さい(時代だ)から、行き来が大変。うちの先祖もそんな生活しとるわけ。助け合いながらね」

沖ノ島仲間には、盗掘から島を守るという意識も強かったそうだ。出土品を狙う動きに対抗し、漁師たちは何度も結束してそうした輩を追い出してきたという。

漁師たちの結束と信仰心は強い(撮影:オルタスジャパン)

一枚の葉、一本の木。そうしたすべてに神が宿るという日本古来の信仰。それを今に残す沖ノ島が世界遺産に正式登録される。

「候補」になって以降、宗像大社や大島への来訪者は増加している。神職以外に唯一、沖ノ島への上陸が許される5月の「沖津宮現地大祭」では今年、200人の枠に約700人の応募があった。正式登録されると、その数はいっそう膨れ上がると予想されている。

沖西さんは、漁師たちの気持ちをこう代弁した。

「正直に言うと、世界遺産は複雑です。注目が集まると、いろんな人の目に留まりますから。そっとしておいてほしい、という思いもあります」

世界遺産候補になってから参拝者は増えてきた。写真は宗像神社で参拝する留学生たち(撮影:オルタスジャパン)

世界遺産登録をめぐっては、イコモスの勧告が辺津宮や中津宮などを除外したことから、地元関係者の間では落胆も広がった。しかし、これらの文化的価値が変わるわけではない。ことに沖ノ島には今後、無断で上陸を試みる者が出るなどの懸念も消えない。

これに対し、宗像大社の権禰宜(ごんねぎ)、鈴木祥裕さんはこう言い切る。

「国にも県にもきちんと申し上げております。沖ノ島での禁忌は曲げる気はございません、と。信仰を守るという意味では、神社としてはそれを変えることはできないということです」

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撮影:オルタスジャパン、THE PAGE、Yahoo!ニュース 特集編集部
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