4月下旬の夕暮れ、韓国の首都ソウル。大統領だった朴槿恵(パク・クネ)氏に「弾劾」を突き付けた韓国国会がライトアップされて浮かび上がっていた。そして今、韓国では大統領選が行われている。低かった若者の投票率も上がりつつあり、政治への関心は日本と比べて相当に高い。若者はなぜ選挙に行くようになったのか。史上初めて「弾劾罷免」で大統領を引きずり下ろしたものは、何だったのか。その答えを探そうと、韓国政治とネット選挙に詳しい李洪千(リ・ホンチョン)東京都市大学メディア情報学部准教授と一緒にソウルを歩いた。日韓は投票の仕組みも大きく異なる。まずは、その様子から。(笹島康仁/Yahoo!ニュース 特集編集部)
候補者討論会 テレビでスマホで
4月23日の日曜日。大統領選が始まって6日後の夜8時すぎ、ソウルの雑踏ではスマートフォンの画面に見入る人々があちこちにいた。座って画面をのぞき込む人がいれば、イヤホンを耳にして歩きながら画面を眺める人もいる。街頭や駅のテレビを見守る人も目立つ。
人々が見ているのは「中央選挙管理委員会」主催の候補者討論会だった。韓国の大統領選では1997年に初めてテレビ討論が登場。近年はそれが勝敗を大きく左右するようになり、「選挙は完全にアメリカ型になった」と李准教授は言う。
テレビ局が主催した4月19日の討論会では、視聴率が26.4%に達した。ソウル市内の政策研究所に勤める男性は「今回の視聴率は特に高い。(朴氏の)失職で急に始まった選挙なので、みんなが情報を求めているんです」と言う。
日本の国政選挙で行われる「党首討論」は社団法人日本記者クラブなどが主催するほか、近年ではネットメディアの主催で「ネット党首討論」も開催されるようになった。これに対し、韓国ではメディアだけでなく、大統領選を管轄する「中央選挙管理委員会」も討論会を主催する。しかも5月9日の投票まで3回に及ぶ。
4月23日夜の討論会はその初回だった。ネットや街角のテレビに限らず、路線バスの車内で流れるラジオでも討論会は中継される。朝鮮日報の報道によれば、この夜の討論会の視聴率は地上波3局を含む7局で実に計38.4%にも達した。
選管の総合コントロール室、日本メディアで初取材
韓国の中央選挙管理委員会が担うのは、選挙の運営だけではない。中央選管は憲法に規定された独立の組織で、選挙違反の取り締まりも行う強い権限を持つ。本部が置かれているのは、ソウル近郊の果川市。取材に訪れると、広報担当者が「内部の取材を許可するのは日本のメディアで初めて」と明かした。
総合コントロール室には、モニター画面やパソコンが並んでいた。韓国全土の投票所を常時映し、不正やトラブルがないかを監視する。韓国ではネットを使った選挙運動も活発だ。サイバー監視は全国で約250人。この本部でも10人ほどがツイッターなどのSNSを開き、候補者や政党名で書き込みをチェックする。その検索ワードは300個近くあるという。
ある女性係官はモニターにツイッターのタイムラインを6列表示させ、次々と流れる書き込みを監視していた。昨年12月の朴氏弾劾からこれまでに、公務員による投票呼び掛けなど約3万件もの違反が見つかったという。
指紋で本人確認 どこでも投票
投票でも機械化が進んでいる。韓国には、日本の「投票所入場券」に相当するものがなく、身分証と指紋で本人の認証を行う。議員選挙の場合、それぞれの有権者の選挙区に応じた投票用紙がその場で印刷される仕組みだ。このため、有権者(19歳以上)はどの投票所でも投票できる。
空港や駅にも投票所が設置され、選管のキャンペーンでも「投票から逃れることはできません」「旅行の前に1票を」といったキャッチフレーズがしばしば使われる。
世論調査、投票近づくと公表禁止
近年、中央選管は「世論調査の監視」にも力を入れている。「中央選挙世論調査審議委員会」は2014年の法改正で設置され、「どの候補が優勢か」といった世論調査をチェックする。中央選管の傘下にありながら、独立した機関として権限を持ち、今年から違反を捜査当局に告発する権限も持つようになった。
結果公表の有無にかかわらず、世論調査の実施には委員会への届け出が必要で、政党や候補が自ら実施する世論調査は公表禁止だ。メディアなどによる世論調査も、投票日の5日前以降は結果を公表できない。新聞やテレビが投票日の間近に「終盤の情勢」を公表することもある日本とは大きな差がある。
例えば1問だけ「支持政党は?」と聞くアンケートでも、「選挙に関する世論調査」と見なされ、無届で摘発された例もある。厳しい監視には、世論調査が投票行動に強い影響を与え、場合によっては選挙の公正さを損なう、という考えが働いている。
世論調査を管轄する審議委員会の鄭忍鶴(チョン・インハク)次長(43)は言う。
「世論調査の影響は強く、政党は世論調査の結果で公認候補を決めます。『政治家は国民ではなく、世論調査が選ぶ』というジョークがあるほど。だから、調査は公正に行わなければいけません」。実際、今回の大統領選でも、無届けで実施された世論調査の結果をある政党の代表が公表し、2000万ウォン(約200万円)の罰金を科せられたという。
なぜ、政治に関心が? ソウル市民らに聞く
大統領選が本格的に始まってから初めての週末だった4月22、23日。ソウル中心部の光化門広場は多くの家族連れでにぎわっていた。
広場では、毎週のようにイベントや集会が開かれる。22日の土曜日は環境保護にちなんだイベント、23日はフリーマーケット。週末はいつもたいへんな人出だ。そして、この広場は朴大統領を失職に追い込んだ「ろうそくデモ」の出発点でもあった。
伝統的なコメのジュースをフリーマーケットで売っていたオム・チンオクさんは「前の大統領は公約を守らなかった。『農業を守る』と言いながら、農業を切り捨ててしまった。次の大統領は、まず約束を守ってほしいです」と話す。40代の彼女も、ろうそくデモに何度も足を運んだという。
デモ参加の高1男子「大統領の不正で政治に関心」
高校1年の男子生徒、趙晳晛(チョ・ソッキョン)さん(15)もデモに参加していたという。「『デモ』というと暴力的なイメージだったけれど、全然違う。驚きました。人がたくさんいたのに平和的で。お店が出ていて、コンサートやダンスもあって、お祭りみたいでした」
ろうそくを手にするデモのスタイルは2008年ごろから定着してきた。朴氏退陣を求めるデモは昨年の10月29日に始まった。朴氏の不正が明るみに出た直後で、参加者は主催者発表で3万人。翌週は20万人に、翌々週は100万人に膨れあがった。大統領の退陣と不正の徹底捜査。それを求める人々はろうそくを手に持って広場を埋め尽くし、大統領府(青瓦台)近くや憲法裁判所前などを通り、ソウル市庁舎までの約1キロを行進した。通りを埋め尽くした人の大波は日本のニュース番組でも盛んに報道された。
趙さんは日本にも友だちがいる。日本語も少し話せる。19歳になっていないため、今回は投票できないが、政治には強い関心がある。「(朴氏の不正)事件で政治に関心を持つようになって…。周りの友だちも同じです。政治を無視していたら悪い人たちに支配されてしまう、と。それを知りました」
韓国では20代の投票率が最近急増している。中央選管によると、2008年の総選挙で28.1%だったのに、2016年の総選挙では52.7%に跳ね上がった。
「失業増で若者が政治に関心」
大統領選の候補者は今回15人 (うち1人は辞退)で、主要政党の候補者は5人。支持率で大きくリードするのは、朴政権下で野党だった「共に民主党」の文在寅(ムン・ジェイン)氏、「国民の党」の安哲秀(アン・チョルス)氏の2人だ。その他は支持が伸びず、与党だった保守系の「セヌリ党」も二つに割れている。
有力とされる文陣営の幹部、田謹昊(ジョン・インホ)さん(52)は「今回は不平等や腐敗、財閥との癒着を改めるチャンス。これまでの民主化は、そこまでできていなかった」と話す。そして、ろうそくデモに象徴されるように、若者の政治参加が増えた理由をこう解説した。
「一番は失業です。20~30代は恋愛や結婚を諦めた『三放世代』と呼ばれていますが、要は(職が無いという)仕事の問題。過去の政権はこれらの問題解決に失敗し、若者の仕事をつくる政策には無関心でした」
安陣営の趙暎守(チョ・ヨンス)企画局長(51)も若者重視を強調する。「今の若い人はみんなスマホ。これなしの運動は考えられない。SNSでの配信が若い人たちに受けています。若者はやはり、仕事についての質問が多い」。陣営は360度カメラで撮影した選挙運動の動画を配信するほか、夜にはフェイスブックのライブで候補自身が視聴者からの質問に答えている。
保守の支持者も「デモは必要だった」
光化門広場を離れ、ソウルの街角を歩く。服飾会社を経営する男性(56)は「今回は『誰にも投票しない』が正解だよ。(有力候補は)思想的に合わない」と言った。仕事場を訪ねたのは夜7時すぎ。部屋では女性が1人で紺の布を縫っている。日本向け新商品のサンプルだという。
男性は昔から保守政党の支持者で、2012年の大統領選では朴氏に投票した。その彼も「ろうそくデモは必要だった」と振り返る。「失望が大き過ぎたんだ。庶民が知らないだけで、韓国のリーダーたちは今までそのように(私的利益の追求を)やってきた。その事実が分かって国民は失望したんだよ」
ソウル駅近くで取材した男子大学生(19)も「(朴氏を失職に追い込んだ)ろうそくデモをきっかけに、政治の話をよくするようになりました」と言い、こう続けた。「国民が政治の主役のはずなのに、政治家はそうは思っていない。それに気づきました。国が正しく機能するためには、国民が政治に関心を持つことが必要なんです」
朴政権を倒した「ろうそくデモ」の出発点・光化門広場は、2012年の選挙で大統領の座を射止めた朴氏の当選祝賀会が開かれた場所でもある。大統領府は「景福宮」のさらに北側。3月10日に朴氏が失職してからは、そこに主人はいない。
ソウルの街角で李准教授は言った。
「民主主義では、自分たちの権力を政府に委託するけれども、全てを政治家に渡すわけではありません。有権者の方も常に権利を持っているんだ、と。ろうそくの火はそれを表していました。1人では小さいけども、1万人、10万人、100万人になると、大きなうねり、つまり国民の主権意識として現れます」
「社会が良くなってほしいという気持ち。ろうそくに火を付けることで、みんながそれを確認し、どんどん広がるということが起きたんです。おもしろいことに、今回は100万人の集会で火を消した瞬間がある。100万の灯りがばっと消えた。私たちは、火を付けることも、消すということもできるんだ、ということです」
[取材協力]
李洪千(リ・ホンチョン)
韓国記者協会(編集局次長)、民主党大統領候補者演説秘書を経て、2011年に慶應義塾大学総合政策学部専任講師。2015年4月より東京都市大学メディア情報学部准教授。博士。
[取材]
笹島康仁(ささじま・やすひと)
高知新聞記者を経て、2017年2月からフリー。