岡本裕志

問われた災害への対応力――熊本地震から1年、知事に聞く

4/4(火) 11:51 配信

春の夜、2度にわたった震度7の地震が熊本の姿を大きく変えた。この震災では政府や自衛隊の機動的な動きがあった一方、大勢の車中泊避難が発生するなど新たな課題も見つかった。これらの課題に行政はどう対応していたのか。蒲島郁夫県知事に振り返ってもらった。(ジャーナリスト・森健 ノンフィクションライター・三宅玲子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

県庁まで10分、走って行きました

2016年4月14日21時26分、森の都・熊本を震度7の前震が襲った。2日後の4月16日未明にはさらに激しい本震が追い討ちをかける。400年の歴史を持つ熊本城は天守閣が崩落寸前となり、阿蘇では阿蘇大橋が陥落した。気象庁によると、九州地方が震度7を観測したのは初めてだ。余震は4200回に及んだ。

崩落した阿蘇大橋。4月19日撮影(写真: 毎日新聞社/アフロ)

──地震が発生した4月14日夜、知事はどこにいましたか。

県庁の近くにある知事公邸にいました。県庁まで10分、走って行きました。やっぱり知事がみんなに見えるところにいることが大事ですよね。すぐに自衛隊に連絡して1時間以内に出動依頼をしました。自衛隊・警察・消防のおかげで1700人が救助されました。

──1日挟んで4月16日深夜1時25分、さらに大きな本震が起きました。

前震の時には対応できたなと思ったんです。それで帰って安心したところに2度目の本震でしょ。本震後は県人口の約1割の18万人の人が避難した。震度7の地震が2度起きたことと、余震がとめどなく続いたことがわれわれの対応を難しくしました。

──この初期対応時、知事としてやるべきことをどう考えましたか。

人々の期待はどんどん上がるんですよね。まず人命救助。次が水と食料。そして避難所。こうした災害時の期待に対して、実態がそぐわないと不満を持つんです。だから期待が小さい時に、どんどん対策をとるのが大事なこと。でも、そんなに速くは進みませんよね。予算と人が必要。そういう時には、展望を述べることが大事なんです。展望を示すことで不満が小さくなる。私は即座に「地震対応の3原則」を職員に示しました。

──地震対応の3原則とは何ですか。

「被災者の痛みの最小化」「創造的な復興」「熊本の更なる発展」です。確か本震の2日後には示しました。人命救助で混乱している中で、知事は変なことを言うなあと職員は違和感を持つわけです。でも、ちゃんと響いていたと思います。

避難者の50%が車中泊だった

前震翌日4月15日夕方時点で死者は9人。本震翌日17日の時点で新たに32人の死亡が確認された(死者50人、災害関連死者169人/2017年3月31日熊本県発表)。特に被害が大きかったのは熊本市と熊本市東部の益城町、そして阿蘇の西原村、南阿蘇村だった。激しい揺れで家屋の被害が大きく、益城町のグランメッセ熊本(産業展示場)では一時期最大2200台が車中泊を続けた。

車中泊で避難している被災者が多く見られるグランメッセ熊本の駐車場。4月19日の状況(写真: 読売新聞/アフロ)

──この震災では、政府が自治体からの要請を待たずに支援物資を送る「プッシュ型」支援が行われましたが、避難所への到達が滞りました。

「県庁の1階ロビーに物資が眠っている」との批判も受けたように、物資集積場所から各避難所への分配が遅れました。3日目には行き渡りましたが、熟練したボランティアの力を頼るべきでした。

──いち早く熊本県庁に物資を受け取りに行った避難所のリーダーが、「ほかの避難所との平等性を考慮する必要があるから」と支給してもらえなかった話を聞きました。

熊本県に限らず、役人は「平等性」を優先する思考のクセが抜けない。非常事態に何が大事か。人の命です。助けられる人から助けることを優先して動くべきでした。

熊本県庁のロビーに荷降ろしされた、大量の支援物資。4月18日撮影(写真: 読売新聞/アフロ)

──今回の熊本地震では車中泊が多かったです。

いや、余震が続き、家も避難所も危険だったあの時、県民が一番安全と考えたのが車の中だったんです。誰にもエコノミークラス症候群という発想はなかった。プライバシーが保たれ、安全で移動できて、お風呂にも入りに行ける。あれだけ大量に車中泊があったのは熊本地震が最初じゃないでしょうか。

──4月18日の時点でエコノミークラス症候群による死者が出ています。行政が安全な地域へ誘導することの検討はされたのでしょうか。

当時、政府から「なぜ青空避難しているんだ」「中に入れろ」という指示があったんですが、仮に中へと指示しても、建物の中は危ないと本能的に感じているから、みんな中に入らなかったでしょう。

4月14日深夜、益城町役場前の駐車場に避難してきた人たち。建物内で過ごす人は少なかった(写真: 読売新聞/アフロ)

──益城町、西原村、南阿蘇村に被害が集中しました。これら被害集中地域の人たちを一時的に別のところに避難させることは難しかったのでしょうか。

近隣の県や和歌山県の知事から何千人単位での避難者受け入れの申し出をいただきました。でも、避難者は自宅近くに避難して、家をチェックしたいんですね。それもまた本能でしょう。地域に耐震性がしっかりした避難所を用意することが大事だと思いましたね。

不満の声が上がった大規模仮設

家屋の被害は甚大だった。全壊家屋は8666棟、大規模半壊、半壊は県内家屋の4分の1にあたる3万3526棟が甚大な被害を受けた(2017年3月28日熊本県発表)。こうした住宅被害に対し、県内では4303戸の仮設住宅と1万2000世帯あまりのみなし仮設住宅(借り上げ住宅)が提供された。

6月5日、最初に入居が始まった甲佐町の仮設住宅(写真: 読売新聞/アフロ)

──仮設住宅は最初の入居が6月5日で、全仮設住宅建設完了が地震発生から7カ月後の11月14日。整備が遅いという批判がありました。

それは仮設に対するわれわれの考えもあるんです。本来、仮設住宅はプレハブ製です。しかし、全体の約15%は木造にしようと決め、683戸を木造で建設しました。熊本県産の材木を使って、熊本県の工務店に頼めば、復興にも役立つ。しかも、その方が住みやすい。

──しかし、その分、設置が遅れました。不満がつのった一因ではないでしょうか。

遅れましたが、仮設住宅における快適さの受け止め方はみんな違います。いま現状で「こんな小さいところで」という不満はありません。

被害が集中した益城町の人口は約4万人。住民の98%の住宅が被災し、益城町内に合計1562戸の仮設住宅が建設された。中でも「テクノ仮設団地」は益城町の居住地から約10キロのテクノリサーチパークという工業団地の近くで、516戸の大規模仮設である。だが、この設置には住民から不満の声も上がった。

建設中のテクノリサーチパークの仮設住宅。6月7日撮影(写真: 読売新聞/アフロ)

──「テクノ仮設団地」は、益城町の居住地から離れている問題がありました。

益城町全体が被災して仮設住宅を建てる土地がありませんでした。ただ、居住地から離れている分、1.5倍の敷地で仮設にゆとりを持たせ、ペットOKにしました。

益城町は熊本市に隣接するベッドタウンで、旧住民と新住民がいますので一概にコミュニティについて語れない側面もあるんです。そこで対策として、「みんなの家」という集会所をつくりました。

7月の入居開始時に市街地と結ぶ路線バスを新設したり、9月にイオン九州の仮設店舗を開店してもらったりなどの工夫をして、最終的にはテクノ仮設団地も満室になりました。今は町内会の会長さんが県と交渉をして敷地内に広場をつくろうとされています。住民が自分たちで快適性を追求しようと変化が生まれていますよね。

蒲島郁夫(かばしま・いくお)1947年熊本県鹿本郡(現・山鹿市)生まれ。高校卒業後、農協職員から1968年に農業研修生として渡米。のちにネブラスカ大、ハーバード大大学院。1997年東大法学部教授。専門は政治行動論、政治分析。2008年3月の熊本県知事選に出馬し、当選、現在3期目(撮影: 岡本裕志)

特措法は争点にしない

──知事は前震翌日の4月15日には、激甚災害指定を要請しました。それに対して、政府は4月25日に激甚災害指定をし、5月13日には7780億円の補正予算(予備費)を閣議決定しました。

激甚災害指定となったおかげで、政府がグループ補助金(中小企業数社などグループで申請し、地域の復興につながると認定されるとグループに支給される補助金)を提供しました。これは国が2分の1、県が4分の1、事業者本人が4分の1を負担するという中小企業向けの支援ですね。自社のみでは再建が難しいような事業者がグループで申請することができます。これを活用してみんなで立ち上がろうという呼びかけが早かったので、みんなが「やるぞ!」となって、震災関連の倒産が7件(2017年2月末時点)と少なく済みました。

2016年3月、3選を問う知事選は、悩んだ末の出馬だった。圧勝で3期目がスタートした4月16日に本震が起きた時、「運命だと思った」(撮影: 岡本裕志)

東日本大震災では、復興事業の財源を確保するため、復興特別所得税・復興特別法人税の特別措置法(特措法)が創設された(平成49年まで)。当初、蒲島知事は熊本地震に対しても特措法による財源確保を求めたが、10月になって「今は国との争点にすべきではない」と特措法にこだわらない考えを示した。今後の熊本地震の復興予算は復興特別所得税のような安定的な財源ではなく、通常の単年度予算から年ごとに配分されることになる。そのため、被災市町村の自治体には、いまも復興財源に対して「中長期的に不安」という声がある。

──知事はなぜこの特措法適用の要望を取り下げたのですか。

熊本県を「ゼロ負担」にするためには増税が必要ですよね。東日本大震災の時には所得税に2.1%上乗せする復興特別所得税を実現しました。

県民のゼロ負担を要望した場合、増税となる。すると、増税が閣議決定されて財源確保ができるまで、復旧・復興が前に進まないんです。安倍首相が補正予算の審議の際、「躊躇なく復旧復興をやってほしい」「財政的なダメージを地方自治体に与えない」と発言された、これを「安心感の担保」に、できる復旧・復興からやっていくということです。

熊本城の奥には被災地を応援するくまモンの姿が。6月13日撮影(写真: 読売新聞/アフロ)

「善意の爆発」

蒲島郁夫氏は、東京大学法学部教授だった2008年3月、川辺川ダム工事の見直しを公約に掲げて初当選した。観光のトップセールス、農産物のブランド化等を積極的に進め、2011年からはキャラクター・くまモンを著作権フリーで展開し、熊本の知名度アップに成功。2016年3月の県知事選でも圧勝したが、3期目の初日(4月16日)に起きたのが本震だった。

──この地震は自治体職員にとってはどういう経験でしたか。

自治体職員は自らも被災者なのに、献身的に働きました。また、発見もありました。例えば罹災証明書。震災前は、こんな大地震が起こるなんて誰も想像していなかったので、罹災証明書の発行経験もなく、出すのが遅れた。そんな中、甲佐町が先駆けて罹災証明書発行に着手しました。それは、東日本大震災の際に応援に行った職員がいて、彼の経験を生かせたからなんです。災害への対応力という意味で、ほかの自治体に派遣されて学ぶということは全国的に非常に大事なことがわかります。

罹災証明書発行のため、家屋の損壊程度を調べる兵庫県淡路市から派遣された職員ら(写真: 毎日新聞社/アフロ)

──大変な苦難の1年でしたが、この経験から得たものもありませんか。

3つあります。「何でもない日常のありがたさ」。震度7という大地震を実感したことでの「人々の一体感と絆」。そして、日本全国からの応援への「感謝の気持ち」。地震を通して、この3つを熊本県民みんなが共有しましたよね。

世界中の人からの「熊本のために何かやってあげたい」という思いがさまざまな形で届いた時、人々の「善意の爆発」を感じました。

「善意の爆発」を体験した、これは地震のおかげです。

運ばれてきた支援物資をトラックから降ろすボランティア(写真: 読売新聞/アフロ)


森健(もり・けん)
1968年東京都生まれ。ジャーナリスト。2012年、『つなみ――被災地の子どもたちの作文集』で大宅壮一ノンフィクション賞、2015年『小倉昌男 祈りと経営』で小学館ノンフィクション大賞を受賞。
公式サイト

三宅玲子(みやけ・れいこ)
1967年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。「人物と世の中」をテーマに取材。2009年〜2014年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「Billion Beats」運営。

[写真]
撮影:岡本裕志
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝
[図版]
ラチカ

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