Rain, 2014-2015(C)Yoshinori Mizutani/courtesy of IMA gallery
「写真さえあれば世界とつながれる」――就活に挫折した大学生が写真家として「逆輸入」されるまで
2017/03/19(日) 07:31 配信
オリジナル今、世界のアートマーケットから熱い視線を浴びている一人の日本人写真家がいる。水谷吉法(みずたによしのり)、29歳。デビューから4年足らずという若手ながら、ロンドン、ミラノ、ベルギー、スイス、北京など、世界の錚々たるギャラリーから作品展示のオファーが相次ぎ、エルメスのアートコレクションにも作品が並ぶ。
雑誌掲載は2016年だけで伊アート誌『Pagina99』、仏ファッション誌『REVS magazine』、米ファッション誌『HARPER’S MAGAZINE』など20誌以上に及ぶ。今年2月にはパリで初の個展を開催し成功を収めるなど、活躍の舞台は国境を越える。国内よりも先に海外で人気に火が付いた“逆輸入型”の写真家ともいえる。彼の作品の魅力は何なのか。世界からこれほど評価されるのはなぜなのか。そして、彼は何者なのか。世界が惚れる日本人写真家・水谷の素顔に迫った。(ライター・宮本恵理子/Yahoo!ニュース編集部)
東京・六本木のギャラリーに現れた彼は、静かで穏やかな佇まいでそこに立っていた。決して口数は多くはないが、ゆっくりと丁寧に自分の言葉を選ぶ。
1987年生まれの29歳。福井県で生まれ、高校までその地で過ごした。両親は共働きのサラリーマン。3人兄弟の末っ子だった水谷は、高校ではサッカー部に所属するごく普通の若者だった。「アートや写真には、まったく関心がなかったし、それがどういうものかさえ知らなかった」。将来なりたい職業ややりたいことがつかめないまま日本大学経済学部に進学し、東京での一人暮らしを始める。大学3年生になると、周囲の慌ただしさに巻き込まれるように就職活動に突入。すぐに挫折した。
「なんだか雰囲気に疲れてしまって。甘えだと思いますが、エントリーシートや面接に打ち込むことができなくて、就活はやめてしまいました。両親には『大学を辞めてやりたいことを見つけたい』と相談もしました。父親からは『福井に帰ってこい』と言われ、悩んでいました」
その頃、たまたま始めた神保町の古書店のアルバイトが、水谷の運命を拓く。書棚を整理しながら、ふと引き寄せられたのが『路上(On the road)』に代表されるジャック・ケルアックの小説や詩集だった。物質主義的な価値観を拒絶し、世界中を旅しながら連続する思考の中で自分自身を探していく。1950年代のアメリカを席巻したビート・ジェネレーションの精神に、水谷は自分の迷いを重ね合わせた。
著作を探して読むうち、ケルアックが序文を寄せた“ある写真集”に出会う。ロバート・フランクの写真集『The Americans』だった。街角でタバコをふかすカウボーイ、ハンドルを握る運転手の横顔、星条旗が揺れる建物……。古き良きアメリカの風景とそこに暮らす人の営みを切り取ったスナップにあふれる「写真」という表現の魅力に、水谷の視界は大きく開かれた。
すぐにニコンのフィルムカメラ「New FM2」を中古で買い、シャッターを切る生活が始まる。夢中になった。目に留まったものを記録できるというシンプルな撮影行為は、口下手だという水谷の言葉代わりの道具になった。
「写真さえあれば、世の中とつながれる」――。写真を本格的に学ぶため、大学卒業後は専門学校に入学。作品性の高い撮影のコースを備える東京綜合写真専門学校を選んだ。デジタル一眼レフカメラも揃えた水谷は、まるでおもちゃを与えられた子どものように、寝食を忘れて街に出て撮っていた。
撮影活動を始めた頃から公開している水谷のホームページには、カテゴリーごとにまとめられた作品が見られる。初期の作品には、道端に停められたカバーで覆われた車だけを撮り集めた「cover」シリーズや、タクシードライバーの身分証明書を後部座席から盗み撮りした「Taxi Driver」など、誰でも見つけられる、しかし見落としがちな街風景のピースが集積している。
「はじめは特にテーマを意識せずに散漫に、目に留まったものを写真に収めていきました。僕の場合は、撮影のために山に登ったり海外に行ったりすることは一切なく、日常の行動範囲の中で発見したものが対象。自然と、東京の街の風景や自然が中心になっています」
コンセプトありきではなく、偶然出会ったものが作品になっていく。「アイディアは自分の外にある」という水谷の姿勢は、刊行以来、途切れることなく海外でも売れ続けている写真集『TOKYO PARROTS』(2014年)にも如実に表れている。
同書は水谷が自宅近くで偶然出会ったインコを追って、そのねぐらを突き止め、「東京に住む野生のインコの大群」というインパクトをそのままに表現した作品集。あとがきに水谷は「東京にいるはずがないインコ。東京にいてはならないものがいる事実。あのとき感じた猛烈な違和感が、写真に写っている」と書いている。
インコの鮮やかな色彩をより一層鮮やかに表現するため、日中、光量が十分な時にもストロボを使用し、レタッチで色味を強調。写真というより絵画のような印象も受ける。水谷が所属するIMAギャラリーを主宰する雑誌『IMA』の太田睦子氏は「ストロボ使用ならではのベタッとした2次元的な世界と鮮やかな色彩は、古典的な日本画を思わせます。村上隆氏の“スーパーフラット”です。その独特な表現が、海外のファンを増やしているのではないか」と分析する。
「日常風景を撮る」という身構えない姿勢は、“撮影”という行為がごく身近な体験だった世代がもたらす特性なのかもしれない。「初めて手に入れた“カメラ”は中学3年生の時に持ったガラケーのカメラ機能。スマホももちろんカメラだと思っている」と水谷は言う。ポケットの中に常にカメラを携帯してきた世代だから、日常とカメラの距離は極めて近いのだ。
水谷の作品の多くが「縦」の向きで撮られていることも、携帯電話やスマートフォンがごく身近な存在であったからこそ。「ガラケーやスマホの画面で被写体を撮ってきたから、写真はむしろ縦位置で撮るものという感覚がある。それに縦位置のほうが、背景に余計なものが入りにくい。情報をそぎ落として見せたいものを強調できるという点でも、僕は縦位置を選んでいる」。
就活につまずき先行きの見えない時期に写真という武器を得た水谷だったが、専門学校を卒業する頃にも写真で食べていける確信はなかったという。
「職業にしようという覚悟はまったくありませんでした。ただ、『撮った写真を見てほしい』という思いは、誰よりも強かった。写真を知った日から、僕の人生は写真一色になり、それ以外はどうでもよくなった。写真は自分そのもので、僕が社会とつながるためには、写真を誰かに知ってもらうしかなかった」。
リアルな人間関係ではシャイで控えめな水谷だが、作品の売り込みとなると水谷はアグレッシブになる。
「写真集を出したり、海外で展覧会を開いたりと、写真家として『いつかかなえたい』と描いていた夢がデビューから1年足らずでほとんど実現したことは奇跡のよう。でも、自分がやってきた行動が実ったのだとも思っている」
その言葉通り、水谷はひたすら“行動”してきた。TumblrやインスタグラムなどのSNSに毎日のようにアップし、活動や自作を紹介するホームページ制作に力を入れ、まめに管理をする。コンテストにも学生時代から積極的に応募し、学校を卒業して半年後の2013年秋、国内最多の応募者数を誇るフォトアワード「ジャパン・フォト・アワード」)で受賞。この応募作品が写真専門誌『IMA』エディトリアルディレクターの太田睦子氏の目に留まったことで「LUMIX MEETS BEYOND 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS」(パナソニックが日本人若手写真家を支援する企画として特別協賛する写真展)の参加が決まった。
同展は、アムステルダム、パリで展示を行い、最後に東京に凱旋するが、そのつど写真家も現地に招待される。しかも、展示時期は世界最大級のアートフォトイベント「パリフォト」が開催される時期と重なり、各国から集まった目利きの評価に触れられる。水谷にとっては、額装した作品を人前で展示してコメントを直接感想を聞ける初めての機会だった。この経験はデビューして半年という真っ白な状態の水谷を、一気に“世界基準”に塗り上げた。「写真家でやっていこうという覚悟が決まった」。
インターネットを介せば、世界ともダイレクトにつながれる。SNSに作品を公開していると、外国からの反応やコメントもやってくる。そのうち「うちのギャラリーでも展示してほしい」「作品を購入したい」「雑誌に掲載したい」というオファーも来るようになった。もともと英語が得意というわけではないが、調べて翻訳をしながら対応した。
さらに、「あちらから連絡できるのだから、こちらからも売り込もう」と海外の賞にも応募した。ダメモトだったと本人は謙遜するが、応募した先は「Foam Magazine Talent Call」(オランダ)、「Lens Culture Emerging Talent Awards」(アメリカ)など名だたる賞であり、いずれも受賞している。自分で作品を集めて本の形に整え、スイスの出版社に売り込み、出版を決めたこともある。「作品を撮ることに熱心な写真家はいくらでもいるが、作品を見せることにこれほど行動をおこせる写真家はなかなかいないのでは」(太田氏)。
水谷はひと世代上の写真家のように、海外から「見出されて」評価されたわけではなく、インターネットを最大限活用しながら、自らの貪欲なアクションによって評価を引き寄せている写真家なのである。
世界では日本文化のブームが続いている。「自分を“日本人写真家”として意識することはあるか?」と聞くと、水谷は「ない」と即答する。
「もともと写真の世界に惹かれたきっかけはロバート・フランクやエグルストンのような海外の写真家で、日本人写真家はあまり知らない。普段メールやSNSでコミュニケーションをしていて海外が遠いと感じることもない。実際に外国に行ってみても、ほとんどの都市が似通っているし、同質なものだと感じる。僕の作品を『外国人が撮った東京の風景みたいだ』と言われることはありますが、作品作りを通して“日本人らしさ”を意識する瞬間はほとんどないですね」
この気負いのなさが、新世代の日本人写真家として世界が注目する価値を生んでいるのだろう。自然体に軽やかに、世界へ飛び立った水谷。東京の空に舞うインコのような鮮やかさを放ちながら、その存在はこれからも注目されていくはずだ。