ある日、肉親や知人が突然、姿を消す——。あなたの周囲でそんなケースはないだろうか。日本では1956年以降、毎年8万人以上が行方不明になっている。残された家族は「なぜ」を問いつつ、「あの時、こうしていれば」と自らを責めることもある。どこかで元気に暮らしているのか、そうではないのか。ひたすら帰りを待ち続ける当事者たちに迫り、行方不明者の周辺を追った。(Yahoo!ニュース編集部)
「ここ1、2年、幸せと思ったことはない」
「息子に連絡が取れない、っていう事実があるわけですよ。『幸せだわ、私』って、この1年2年、思ったことない。何かが絶対欠けているんです。それがすごく苦しい」
静岡県に住む小嶋真美さん(55)は絞り出すように言った。1人息子の雄飛さんが28歳で失踪してから、既に2年余り。2016年春に取材班が密着取材を始めた際も、疲れがにじんでいた。
雄飛さんは親元を離れ、愛知や群馬などの各県で契約社員やアルバイトとして働いていた。職場に馴染めないことも多く、すぐ辞めては別の職場に移る状態だったという。
失踪、全く突然に
真美さんと夫は、伊豆高原の自宅で喫茶店を経営している。そこに「息子失踪」の連絡があったのは、2014年12月のこと。愛知県の勤め先の寮から姿を消し、連絡が取れなくなった。全くの突然だった。
真美さん夫妻は、わずかな手がかりを頼りに行方を捜した。しかし、居場所はつかめない。
真美さんは言う。
「(両親の期待に)応えられなかった自分を悔しく見てるんじゃないかな、って。叱咤激励(のつもりだった)が、追い込んじゃったところもあったし」
役者を目指す息子「輝いてた」
真美さんは25年ほど前に離婚し、5歳だった雄飛さんを引き取った。そして10年ほど前、敬一さんと再婚する。
真美さんの目に、小さい頃の息子は穏やかで控えめな性格と映った。特に離婚後は、母が忙しく働いていたこともあり、わがままを言ったこともほとんどないという。
雄飛さんは高校を卒業すると、役者を目指し、芸能プロダクションの養成所に入った。アルバイトで生計を立てながら、レッスンに励む日々。その当時のことを真美さんも「好きなことをやってる時って、やっぱり彼は輝いてた」と表現する。
歯車が狂い始めたのは、雄飛さんが養成所に入って3年目のころだ。次のレッスン課程に進むための試験に落選。養成所に残ることができず、役者への夢を見切ってしまったのだ。
それ以降、息子は職を転々と変わるようになる。
「役者をやりたいんだったら続けなさいと言ったつもりだけど、本気で言ってなかった。本人が決めればいいと、自分と同じ目線で突き放したかな、って」
息子は東京にいた。母、手紙を書く
雄飛さんが生まれ育ったのは、東京・品川だ。両親は近辺のネットカフェや本屋など、息子が立ち寄りそうな場所を手当たり次第に捜したこともある。真美さんは「親子の会話をさせなかった自分がいる」と自省し、息子と向き合ってこなかったと悔いる。
息子の足取りをつかめたことがある。密着取材を始めた直後の昨年5月。居酒屋チェーンを展開する東京の企業から「雄飛さんを採用する」という通知が伊豆高原の自宅に郵便で届いたのだ。
失踪から1年半。自宅を連絡先にしていたこともあって、真美さんは「この通知は息子からのメッセージ」と捉えた。「ここで自分は頑張る、って。見えないアピールをしてきたんだな、と」
このとき、両親は東京の職場を訪問しないことにした。息子の新しい生活。それがやりにくくならないように、と考えた結果だ。その代わり、真美さんは手紙を書いた。長くはない文面。縦書きでペンを走らせた。
渡したい物や小荷物をお送りしたいと思います。
独身寮の住所などお知らせ下さい。
身体に気をつけて
頑張ってね。
返信はなかった。
東京で再び失踪
それから約2か月後、会社の人事担当者から「雄飛さんが1週間前から出勤していない」という連絡が入った。再び姿を消したのである。真美さんは急ぎ、東京へ行き、人事担当者に会った。そこで息子の近況などは聞いた。しかし、行き先に関する手掛かりは何も見つからないままだ。
再び続くことになった「何かが絶対的に欠けている」日々。真美さんもまた、自問しながら言う。
「何で会話ができなかったんだろう、って。どこかで相手を責めてしまうけれど、そういう話をさせなかった自分がいるんですよね」
行方不明者の4割は10〜20代
「行方不明者」とは、生活の本拠を離れて行方が分からなくなり、家族などから警察に行方不明者届が提出された人を指す。
警察庁の統計によると、2015年の行方不明者は約8万2000人だった。近年はおおむね8万人台で推移している。年齢別の構成比は、70歳以上の高齢者がおよそ2割、10〜20代は4割ほど。原因別では、認知症を中心とする「疾病関係」が最も多く、「家庭関係」「事業・職業関係」と続く。
高齢者の場合は、認知症の徘徊で自宅に戻れなくなるケース、病気を苦にして「家族に迷惑をかけたくない」と自ら姿を消すケースなどがある。高齢者は1人で遠出しにくいことから、自宅周辺で短期間のうちに見つかることが多いものの、郡部では山の中などに迷い込み、遺体で見つかる例も少なくない。
支援のNPO ホームページで不明者の情報公開
行方不明になった人をボランティアで見つけ出そうという団体もある。東京都多摩市のNPO法人「日本行方不明者捜索・地域安全支援協会」もその一つで、2009年に発足した。同様の団体としては日本初。ホームページ上で行方不明者のプロフィールなどを提供しながら、関係機関とも協力を続けている。
理事長の田原弘さんは警視庁や大手調査会社などで通算約50年間、行方不明者に関わる仕事を手掛けてきた。
田原さんによると、10〜20代の行方不明者には家庭の問題が関係している場合が多いという。核家族や共働きが増える中、最近では家庭内で親子の会話も減っている。そうした状況で育った子どもが社会に出ると、一部には学校や職場の環境になじめず、姿を消したり、引きこもったりするという。
24歳男性もある日、突然
東京都荒川区に住む宮本正榮さん(75)、妻のはるみさん(75)、長男の剛志さん(41)は15年間も次男・直樹さんの帰りを待ち続けている。宮本さん一家にとっても「行方不明」は突然のことだった。
2002年3月3日、日曜日の午後3時半ごろだったという。「今夜は夕飯はいらない」と言って、直樹さんは自宅を出た。当時24歳。見送った正榮さんによると、変わった様子は何もなかった。次男はそれまで無断で外泊することもなかった。それなのに翌日も戻らない。
2日後の火曜日。これも突然に福岡県の門司海上保安部から電話が入った。「船室に荷物だけを残し、本人が見当たらない」と言う。免許証、財布、メガネ、コンタクトレンズなどを残したままだった。
門司海保の調べなどで、直樹さんは日曜の夜7時10分に東京湾フェリーターミナル発のフェリーに乗ったらしいことが分かった。徳島経由、新門司港行き。下船の形跡がないため、事件や事故の可能性も疑われ、海保や警察が動いた。それでも手掛かりはない。船内で直樹さんを見かけた人はおらず、航路上で海中に転落した可能性はない、との報告が家族にもたらされた。
宮本さん一家による自前の捜索は、ここから始まる。
「この人を捜して」九州でもチラシ配り
自宅近くの警察署に行方不明届を出した後、手製のチラシを作って自宅周辺や通っていた大学、アルバイト先などに配って回った。フェリーに乗るまでの経路を考え、バス停や駅、東京湾沿岸でも配った。さらに、寄港地の徳島、目的地の九州は全域を対象にした。テレビや雑誌の取材も積極的に受け、メディアを通して情報提供を訴えたこともある。
そんな中、千葉と長野、徳島の各県で目撃情報があった。長男の剛志さんが現地に向かい、情報を確かめたが、違っていた。剛志さんは「やれることは全てやってきたつもりです」と話す。
「見当もつかない。なぜ…」
家族によると、直樹さんは明るい性格で、友だちもたくさんいたという。大学時代には東南アジアなどを1人旅。将来は、開発途上国の子どもたちのために学習塾を開きたい、と語っていた。
失踪当時は大学を卒業し、高校生の時から続けていたビル清掃のアルバイトを続けていた。それも熱心にこなし、バイト先から「正社員にならないか」と勧められていたという。
家族は「何でいなくなってしまったのか。見当もつかない」と口をそろえる。理由が分からないからこそ、自責の念も募る。
「もう少しね、相談のできる親になっていればよかったのかなと」と父は言い、兄は「(仕事のことで)相談された時に、もっとちゃんと話をすればよかった」と悔いる。その横で母はうなだれていた。
「失踪宣告」の申告を断る
NPO法人「日本行方不明者捜索——」理事長の田原さんは、父の正榮さんに「失踪宣告」を勧めた。失踪宣告とは民法に則った手続きで、肉親らの請求により、家庭裁判所が決定する。音信が7年間途絶えた場合、法律上、「死亡」とみなすもので、親族らとの法律関係を解消することができる。
田原さんの助言に対し、父は首を縦にふらなかった。
「直樹が死んだなんていうことは、1回も考えたことはない。直樹のことを思わない日なんて1度もない。1秒たりともない」。それでも、苦しさは続く。「でも、できるだけ直樹のことを忘れようとしているのも事実。そればかり考えていると自分の体が参っちゃう。どこに住んでいてもいい、健康であれば、と。それだけを思って、今日まで生きてきました」
正榮さんは脳血栓を患い、母のはるみさんは介護が必要な状態だ。長男の剛志さんは「父と母が元気なうちに…。帰ってこなくてもいいから、どこかにいるとか、話せるとかになれば」と念じている。
所在未確認 これまでに63万人
宮本さん一家のように、身内の所在が分からず、苦しんでいる人々が、この日本にはたくさんいる。警察庁によると、統計が残る1966年以降、およそ63万人にも及ぶ行方不明者の所在が確認されていない。
家族らにできることは限られているかもしれない。でも、諦めきれるはずもない。NPO法人「日本行方不明者捜索——」は、ホームページ上に行方不明者の情報を掲載し、情報提供を呼び掛けている。理事長の田原さんは「行方不明者の捜索には、信憑性の高い情報をより多く得ることが重要です。そのためには、早い段階で広範囲に情報提供を呼び掛けること大切」と言う。近年では、SNSなどネットを縦横に使うことも効果があると言い、実際にSNSによる発信が居場所判明に結びついた事例も少なくない。
田原さんは、とにかく諦めないことです、と繰り返している。
情報提供の呼びかけ
行方不明者について情報をお持ちの方はNPO法人「日本行方不明者捜索・地域安全支援協会」に連絡をお願い致します。情報提供の記入フォームは、同協会のホームページにあります。
この記事に登場する行方不明者2人のプロフィールは、同協会によると、以下の通りです。雄飛さんは、母・真美さんの再婚前の姓「児玉」を使っています。
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[制作協力]
オルタスジャパン
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝