フランス・パリで日本茶の可能性を掘り起こそうとする男がいる。丸若裕俊(37歳)「日本の伝統文化の再生屋」と言われている男だ。丸若はフランスで何をしようとしているのか。丸若が語る「日本茶、日本の伝統文化の可能性」とは?(ライター宮本恵理子/Yahoo!ニュース編集部)
ユネスコ無形文化遺産に登録されるなど、世界的なブームが続く「和食」。現在、政府が力を入れようとしているのが「日本茶」だ。
現在、日本の茶の輸出量は2014年に70億円超で3年前と比べて1.5倍に増加した。政府は農林水産物・食品輸出の“重点品目”の一つに位置づけ、2020年までに150億円という目標を掲げる。課題は新興市場の開拓だ。健康志向が強いアメリカや、茶文化の素地がある台湾、香港、シンガポールなどアジア圏が安定した輸出先となってきた一方で、ヨーロッパのマーケットはほとんど開拓できていない。このヨーロッパで日本茶の文化を根付かせようとしているのが丸若だ。
フランスのサンジェルマン地区、高級エリアでありおしゃれなブティックが軒を連ねるエリアは日本で言うと白金や青山のような場所だ。ここで丸若が構える「NAKANIWA」では日本茶と共に数々の日本の伝統文化の品々を販売している。丸若は「日本茶には大きな可能性が眠っている」と話す。
アパレルから伝統工芸の世界へ
元々は伝統文化とは縁もゆかりもないアパレルブランドの出身だった丸若。なぜ、伝統工芸の道へと足を踏み入れ、日本茶をフランスで売るまでに至ったのか。「20代から放浪癖があって」と語る丸若自身、歩んできた道も放浪そのものだった。
20代は世界有数の海外アパレルブランドに勤め、販売担当をしていた時期は全国で1位の売り上げるほどの活躍ぶりだった。服が好きで身を投じたファッション業界だったが、“ある違和感”を覚えるようになった。
「どんなに惚れた服でもシーズンが終わるころにはセール品となって、最終的には処分されてしまうんです」。
2002年、当時23歳、原宿にZARAの2号店がオープンしたばかり。ファストファッションが世界中を席巻する直前の出来事だ。
疑問を抱えながら販売員として地方を飛び回るうちに出会ったのが石川県の九谷美術館で展示されていた古九谷の焼き物だった。「一発で惚れ込んだ。こんなにかっこいい焼き物が日本にはあるんだって。ゴッホの絵画を間近で観たときのような衝撃と言ってもいいかもしれません。華麗な色使いと、大胆な構図。圧倒されて、しばらくその場から動けませんでした」。圧倒される丸若は真横で思いもかけない一言を耳にする。
「ずいぶん高そうねぇ」。
同じ古九谷を見ていた老夫婦だ。
「同じものを見ていたはずなのに。値段でしか測れない人もいる。この老夫婦にも伝統工芸の凄みをわかるように伝えたい。と思うようになったんです」
そこで一念発起して九谷焼の有名な窯元に通い詰めた。
そうして地道な活動を続けていくうちに九谷焼とスポーツブランドPUMAとのコラボレーションにまでこぎつける。
ハンドルやサドルを九谷焼でカスタマイズした自転車に続き、2009年には、伝統工芸の工房や金属加工の高い技術を持つ企業と一緒に、弁当箱も制作した。
その後も日本の伝統文化の可能性を伝えるためにかつてのアパレル業界の仲間たちに「個人的な布教」を続けた。そこで生まれたのが丸若の名前を一躍有名にしたドクロ型の菓子壺だ。130年の歴史を持つ窯元とコラボレーションし、九谷焼の本来備えている「繊細さと力強さ」の価値を研ぎ澄ませ、そこに日本人の「ストイックでありながら底抜けに寛容な死生観」を表現した。
現在は金沢21世紀美術館に永久保存され、世界的な芸術的価値を認められた。だが「僕、現代アートとかわからないんで」と笑いながら語る。
だが、伝統工芸の世界に身を投じていくうちにファッション業界にいた時と同じ思いが頭をよぎるようになった。
「僕がやってきたのは、唯一無二の伝統技術を通し、そこに息づく精神をより多くの人に伝えるためのものづくりです。でも、焼き物や漆器といった“ハード”だけで価値を提案していくのには限界があるのかもしれないと、壁を感じ始めていた」
ファッションと同様に焼き物も次々と生産されてはただ消費されていく。そこに「伝統」や「職人魂」に思いを馳せる余地はない。
日本茶との出会い、伝統工芸の生き残りの道
日本茶と出会ったのは2年ほど前、仕事で訪れた佐賀で何気なく出された一杯の茶がきっかけだった。
「『おいしいですね。どこのお茶ですか』と尋ねたら『嬉野茶です』と。東京で生まれて横浜で育った僕にとっては、佐賀の嬉野が茶の名産地ということも初耳でした。お茶を飲むうちに気づいたんです。『日本茶に大きなチャンスがある』って」
日本茶を売るということは、「日本茶を飲む」というライフスタイル、つまり新たな習慣を提案することである。日本茶を茶器に注ぎ、色や香り、味を楽しみ、そしてまた注ぐ。その営みが繰り返されれば、茶器という“ハード”も生活の中に定着するのではないか――。
さらに、健康志向の高まりを受け、世界的にお茶は健康飲料として注目されている。
だが、海外のマーケットに対しては冷静な視線を向ける。パリにも拠点を置き、日本に対する評価を肌で感じてきた丸若には、日本食なら何でも受け入れられるという楽観は一切ない。
「楽観どころか逆です。お茶と言っても知名度は限定的で、例えば抹茶が人気なのは、主にお菓子などに使われるフレーバー。抹茶自体の定着は、多くの人にとってはまだまだマイナーな飲料というレベルです。だからアプローチをゼロから考えました。重要なのは誰にとっても分かりやすいキーワード。お茶はもともと薬として使われていたという“ストーリー”があるのが強みで、世界的な健康志向にもフィットすると感じました」。
全国にある産地の中で嬉野を選んだのにも、“分かりやすさ”という理由があった。
嬉野に現存する「大茶樹」は、1600年代の慶安期に撒かれた茶種が生育し残ったと伝えられる。「“ルーツ”と言えるシンボルツリーがある」という分かりやすさは、世界へのアピールになると丸若は考えた。
世界を目指す上で、一人の師との出会いも大きな転換点となった。佐賀県・嬉野の茶師・松尾俊一氏だ。6代続く茶農家に生まれながら脳科学を学び、高度医療に携わっていたという異色の経歴から茶師になり、わずか2年で大臣賞で最高位入賞実績を残した嬉野きっての茶師である。
「お茶を飲むと、“どこかほっとした”気持ちになるでしょ?それが実は脳にとてもいい影響があるんですよ。やはり健康という言葉は世界共通です。日本のお茶文化の“伸びしろ”は外部にいたからこそ見えてくるものもあるんです」
松尾氏は丸若のオーダーに応える最適な品種を選定し、最小限かつ必要となる農薬の調合などを決定する。丸若のブランド「NAKANIWA」で、ふたりが作り上げた嬉野茶の限定販売も始まった。
パリでの日本茶は「相当厳しい」
「日本最古のお茶」というストーリーと「健康」という言葉。「イケると踏んでいた」がそれでもパリではなかなか受け入れられなかった。「なんとか日本茶をフレンチに組み込めないか」とう丸若の相談に対してパリの有名レストランのシェフたちは「相当厳しい」と口を揃えたという。
その根拠として彼らは「パリのトレンドをリードするビストロでは品質がいいだけでは通用しない。スピードも求められる。時間をかけて提供する伝統的な日本茶は難しい」と指摘。一方、伝統的なレストランでは日本茶を取り入れる店も増えてきているが、まだ日常生活に馴染むには至らない。
そこで丸若は“ある一つの仕掛け”を施す。
それが「日本茶を薬瓶に入れる」という発想だ。古い薬瓶をモチーフにしたデザインのグラスポットと水出し茶用のティーバッグを提供したのだ。水と入れてティーバッグを入れて、あとは振るだけ。お茶のルーツである「健康」を連想させる容器と、振るだけで水が美しいグリーンに変わるというエンターテインメント性がパリっ子に受けた。
「これならいける」
試しにパリのカフェに持ち込んでみたところ、パリっ子から口々に「美味しい」という言葉が。
ハードからソフトへ。日本の輸出コンテンツがシフトする中、「食」というソフトの中でもメッセージ性の高いものがより受け入れられると丸若は考える。自らがプロデュースした茶器に注いだ茶の色を確かめながら言う。
「お茶を飲み、一息をついて、周りを見渡す。この“時間”の提供に価値があると感じています。『日常の消費のクオリティを上げる』というライフスタイル提案が、日本の伝統産業を守る循環にもつながっていくと信じて」
「クールジャパン」と銘打たれて次々と外国へ輸出されていく日本の文化。だが「『クールジャパン』とは、最終的にそれを受け入れる人々が評価してくれた上で成立するもの。なんでもかんでも押し付けていいわけじゃない」丸若は語る。果たして日本茶はパリで根付くのか。丸若の挑戦は続く。
丸若裕俊
まるわか・ひろとし/株式会社丸若屋代表。アパレル勤務などを経て、2010年に株式会社丸若屋を設立。
伝統工芸から最先端の工業技術まで今ある姿に時代の空気を取り入れて再構築。「商品開発」「映像配信」「ものづくり・ことづくり」など、手段を問わず、視点を変えた新たな提案を得意とする。
2014年、パリのサンジェルマンにギャラリーショップ「NAKANIWA」をオープン。2016年には、日本の文化や風土を国内外に伝えるためのツールとして、映像プロジェクトを立ち上げる。有田焼400周年を記念に製作した映像〈BUNSHO〉では「カンヌ コーポレートメディア&TVアワード2016」ゴールド賞を受賞した。