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比田勝大直

オバマは長崎に来なかった―― 71年目の長崎「最後の被爆都市」の意味

2016/08/09(火) 13:45 配信

オリジナル

今年5月27日、オバマ米大統領が現職の大統領として初めて広島の地を訪れた。オバマ大統領は2009年のプラハ演説で「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的な責任がある」とし、「核兵器のない平和で安全な世界(の実現)を目指す」と述べた。一方、この歴史的な一連の行事に長崎の被爆者が参加することはかなわなかった。原爆が投下されてから71年。「2つめの被爆地」長崎の意味を見つめ直す。(取材・文 ライター高瀬毅/Yahoo!ニュース編集部)

歴史的な1日に長崎の被爆者は加われなかった

今年5月、オバマ大統領が広島を訪問した。日本政府や国民の多くは歓迎したが、いまも違和感を持ち続けている人がいる。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)准教授、中村桂子さんだ。

「訪問自体には意味も波及効果もあるので、それを否定する気は全くありません。でもこれまで大統領が掲げてきた核軍縮、核兵器廃絶という目標に比べて、あまりに中身のないスピーチでした。あれは作られたショーでしかなかった」

中村さんが指摘する核軍縮問題の一つとして核兵器の近代化計画がある。「核発射用の新型潜水艦、ミサイル、爆撃機の開発によって米国の核兵器システムをアップグレードする野心的計画」(原水爆禁止日本協議会)だ。今後30年間で1兆ドル(日本円で110兆円)の費用を見込んでいる。多国間の軍縮外交にも米国は否定的だ。オバマ大統領の広島訪問が発表された5月はじめ、ジュネーブで開かれた国連総会の核軍縮のための法的措置に関する作業部会をボイコットしている。米国はどこまで本気で核廃絶を考えているのかと、非核保有国は疑問を抱いている。

長崎大学核兵器廃絶研究センター准教授の中村桂子さんは、「長崎は2番目の被爆地ではなく、最後の被爆地。その意味をもっと考えてもらいたい」と強調する

中村さんが疑問に思ったことがもう一つあった。

「これは長崎でニュースになっていたのですが、実は、(オバマ歓迎セレモニーの場に)長崎の被爆者は誰も同席していなかったんです」

いきさつはこうだ。当日の来賓として、被団協(日本原水爆被害者団体協議会)から、事務局長と、広島、長崎の代表委員3人が呼ばれていた。この中に長崎の被爆者として、全国的にも知られる谷口稜曄(たにぐち・すみてる)さんがいた。ところが高齢で体調が悪く、出席できなくなった。そこで長崎の被爆者団体5団体が、長崎からも被爆者をと外務省に申し入れたが、断られた。

長崎出身の彫刻家、北村西望作の平和祈念像。現在は、被爆地のシンボルとなっているが、祈念像のある場所は爆心地ではない

「何度も外務省に要請したのですが、検討しているというばかりで、最後まで受け入れてもらえませんでした。理由はいまだにわかりません」

そう語ってくれたのは、長崎の被爆者団体の一つ「長崎県被爆者手帳友の会」会長の井原東洋一さん(80)。井原さんによれば、オバマ大統領の前で涙を流した被爆者で、アメリカ人被爆者の調査・研究を続けてきた森重昭氏は、アメリカ枠として選ばれたという。また長崎からは被爆者を呼ばなかったのに、オバマ来日の前夜、突如、長崎の若者代表(ナガサキ・ユース代表団)が招かれてバタバタと広島に向かったことだ。「被爆者は招かないのに。あれもよくわからなかった」と井原さんは首をかしげる。いずれにしても長崎は大統領訪問もなく、被爆者代表も歴史的1日に加われないままに終わったのだった。

長崎は「人類史上“最後の”被爆地」

空から突然、原爆が“降って”きたかのようなスピーチも含め、中村さんも井原さんもオバマ大統領の広島訪問に釈然としない想いを抱きつづけている。それは2人だけではなく、私が知っている被爆者や、長崎市民の中にもいる。核廃絶を本気で考えているのならば、広島だけでなく長崎も訪れなければならないと考えているからだ。

井原さんは、被爆地が日本に2カ所あることの意味をこう見る。

「広島はウラン爆弾。長崎はプルトニウム爆弾です。2発の異なる爆弾を使ったということは、原爆投下は、初めから実験する狙いがあったのではないかということです」

長崎に投下されたプルトニウムを使った原爆は、原子炉を稼働させることで爆弾の原料であるプルトニウムを簡単に取り出せる。一方の広島型はウラン爆弾。原材料のウランは核分裂するウラン235の元素がわずか0.7%しかなく、遠心分離機を使って取り出すのに手間がかかる。しかし爆発はさせやすい。長崎型は起爆の難易度が高いため、米国ニューメキシコ州アラモゴードで人類初の核爆発実験を行ったのである。

原爆で瓦解した浦上天主堂の壁の遺構は、戦後保存される方向だったが、1958年に撤去され、壁の一部が爆心地公園の片隅に移築された

ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判の主席検事で米軍准将、テルフォード・テイラーは、「広島の是非については議論の余地がある。だが長崎を正当化するもっともらしい理由を聞いたことがない」と述べている。

原爆開発史や原爆投下の道程を研究しているスタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授はこう言う。

「1発目の原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、8月9日に長崎に落とされた2発目の原爆はほぼ間違いなく不必要なものだった」(『核の戦後史』より)

長崎に落とされた原爆によって、昭和20年末までに7万数千人が亡くなっている。14万人以上が犠牲となった広島が人類史上最初の被爆地なら、長崎は現時点において「最後の被爆地」ということになる。

「その意味は大きい。だからこそナガサキは、命の問題を考える多くの人たちのハブ(拠点)のような存在になるし、そういう情報を発信していくべきだと思う」

RECNAの中村さんはそう強調する。

原爆落下中心地公園の爆心を示す爆心碑。この頭上約580メートルでプルトニウムを原料とする原子爆弾が炸裂した

墓石に刻まれた日付

梅雨明け直後、長崎の原爆を象徴的に示すある場所を訪ねた。それは小高い丘の上にあった。石段を登り、滴る汗をぬぐうと墓地が見えた。

十字架が仏式の墓石の上にのった独特の形。白いマリア像もある。
長崎市坂本町の「経の峰(きょうのみね)」共同墓地。

仏式の墓と混在しているが、キリシタン墓地と見まがうほど十字架が多い。長崎ではこのような墓地は珍しくはない。ことに長崎市の北部、浦上地区はそうだ。周辺はかつてカトリックの信仰が、山裾の家々に、谷間の集落に染み渡るように浸透していった地域。深い信仰の歴史の痕跡がいたるところにある。

仏式の墓の十字架が乗った形。キリスト教徒と仏教徒の墓が混在している共同墓地。浦上の爆心地を見下ろす位置にある

十字架山、ベアトス様の墓、サンタ・クララ教会跡、帳方屋敷跡、聖マリア堂跡、聖フランシスコ・ザベリオ堂跡、聖ヨゼフ堂跡、小峰のルルド、カトリック本原教会(聖ペトロ・バプチスタ)、赤城聖職者墓地……。

原爆が投下されたのは、この浦上の地だ。経の峰共同墓地の墓石の裏には、原爆投下の昭和20年8月9日から、毎日のように、次々と家族、親族が死んでいった日付が刻まれている。8月から9月へとそれは続く。それには、原爆が炸裂した瞬間の爆風と熱線で直接的に殺傷されただけでなく、放射能・放射線による被曝、いわゆる“原爆症”とされる死が当然含まれる。

キリスト教徒の墓石の上段には、洗礼名が刻まれている

下段は、亡くなった日付。原爆が投下された1945年8月9日を境に、家族が次々に死んでいったことがわかる

「恨み事は言わずに生きてきた」

「おばばの親が『旅』に行ったと、子供の頃によく聞かされました。私なんか、ようしいきらん(とてもできない)もんね。苦しい話ばかりでしょ。いじめられたり、責められたり、閉じ込められたり、私どもでは想像できませんもの。そんげんまでした信仰を守りきれんよねと話してましたね」

そう語るのは、92歳の山田シズさん。代々続くカトリック信者の家に生まれ、カトリック系の女学校に通った。原爆で親やきょうだいを亡くしている。遺骨も見つからない。全滅した親戚もいる。

山田さんが言う「旅」とは、1868年から70年にかけて、長崎奉行によって投獄された浦上のキリスト教徒3394人が、江戸時代のキリスト教を禁ずる制度を受け継いだ明治政府によって、津和野、萩、福山など全国20藩に「流され」た弾圧のことだ。

92歳の山田シズさん(左)は、キリスト教徒。母ときょうだい4人を失った。母ときょうだい2人は爆心から至近距離にいたため、遺骨すら見つからなかった。親類の深堀キクノさん(88)もキリスト教徒

「流配」と言われるこの措置は、キリスト教の棄教と神道への転向を促すもので、各藩では拷問が行われた。

津和野に「流された」守山甚三郎と高木仙右衛門は、真冬の雪が降る日、氷が張った池に入れられた。仙右衛門は病気で衰弱していたが役人は容赦なかった。だが2人は、「オラショ」という、祈りの言葉を唱えながら耐え続け、棄教しなかった。

拷問によって死亡したり、病気で亡くなったりした信徒は613人。「旅」は6年あまり続いたが、弾圧を知った欧米諸国から批判を受け、明治6年(1873年)、江戸時代から約260年のあいだ続いてきた禁教令が解けた。浦上では、それまで信徒に対する大きな弾圧事件(崩れ)が3度あったが、この弾圧は「浦上四番崩れ」と呼ばれている。『日本キリスト教殉教史』を書いた片岡弥吉によれば、神父もいない中での260年間の潜伏と信仰は「世界宗教史の奇跡」だという。

晴れて信仰できるようになった彼らは、神父とともに教会を建設する。浦上天主堂である。双つの鐘楼をもつ東洋一の大聖堂。完成は大正14年。

正面に見えるのが再建された浦上天主堂。左の大きな建物はカトリック長崎大司教館。長崎のカトリックの中心地だ

原爆で崩壊した旧浦上天主堂の周囲に配置されていた聖像。もげた首や黒く変色した部分は、原爆の爆風や熱線によるものと考えられる

その浦上に、原爆が落とされた。当時の浦上信徒1万2000人のうち8500人が死亡し、爆心から北東方向500メートルの浦上天主堂も大半は瓦解した。それでも正面と側面の壁の一部や教会の周囲に置かれていたマリア像や聖像などは残った。

「人を見張る者よ、わたしがどんな罪過をあなたに犯したというのか。何故わたしをあなたの的にし、あなたの重荷にされるのか。何故わが咎を赦さず、わが罪を見過ごしにはされないのか」

旧約聖書の「ヨブ記」の一説。神に忠実であった者が、何故、更なる苦難を受けねばならないのか。神に問う物語。2000年以上前の物語が、浦上という原子野に再現されたのではないか。そう見る者もいる。広島にはない、カトリックの町、長崎の被爆体験がもつ独特の宗教性だ。

拷問を耐えた守山甚三郎の親戚筋にあたる森田結子さんや岩崎玲子さんも、カトリックの信者で被爆者だ。「『旅』の時代の人たちは大変な苦労をしたが、もう昔のことはよくわからない」という。

260年間の弾圧を耐え抜いた浦上信徒の親戚筋の人たち。左から岩崎玲子さん、森田結子さん、木口恵子さん(岩崎さんの妹、被爆二世)

結束の固かった「浦上」信徒たちも原爆で多くが犠牲となり、浦上も戦後の復興の中で、一般の住民が増え、閑静な住宅地となった。世代交代も進んだ。

「父は『アメリカの野郎が落としやがって』と言ってましたが、私は子供だったので、被爆した恨み言は言わずに生きてきた」(岩崎さん)

「原爆のことは言わない。どう生きるかに必死だったから」(森田さん)

戦後を必死で生きてきた彼女たちの口からは、原爆への恨み言は聞かれない。あらゆる苦難を耐えて生きてきた浦上信徒の「忍耐強さ」と言えるかもれしない。同時に長崎が広島に比べ被爆地としてやや存在感が薄いのは、原爆が落とされた浦上が、政治的な声を挙げないキリスト教徒の多い所だったことも影響しているのではないかと言われてきた。原爆関連の資料には、長崎市中心部の市民の中に、「原爆は浦上に落ちた」という言い方をすることが記録されている。背景には、キリスト教徒の多かった浦上地区と、弾圧する側がいた長崎市中心部との宗教的、思想的分断の歴史があり、広島ほどのアピールがなかったと言われてもいる。「怒りの広島」「祈りの長崎」という比較がかつてなされた所以だ。

旧浦上天主堂に置かれていたマリア像。原爆で倒壊した天主堂の瓦礫の中から偶然頭部だけ見つかった(写真はレプリカ)

「被爆者が証言できるのはあと10年」

長崎が広島の陰に隠れがちなのは、原爆ドームのような象徴的な被爆遺構がないことも影響している。

実は長崎にも、原爆ドームに匹敵するような遺構が、戦後13年目まであった。先述の浦上天主堂の遺壁である。保存計画が進んでいたが、戦後10年目に米国セントポールから姉妹都市提携の話が舞い込む。最終的に、米国国務省関連の機関の仲介で、長崎市長が渡米、ほぼ1カ月かけて全米を回り帰国した後から流れが変わり、議会などの強い反対があったにも関わらず、撤去されてしまったのだ。市長の「心変わり」の背景に何があったのか、いまでも「謎」の部分が多い。壁の一部は爆心地公園に移設されているが、初めて見る者には意味が伝わりにくい。

爆心地公園に移築された旧浦上天主堂の遺壁の一部は、原爆にも耐え、いまも頑丈だ

そんな長崎にあって、いま目ぼしい遺構があるとすれば、爆心から西500メートルに位置する長崎市立城山小学校(旧城山国民学校)の平和祈念館だろう。

そこでガイドをしている池田松義さん(78)は、城山国民学校の全児童・生徒1500人中、生き残ったわずか47人のうちの1人だ。爆心から700メートルの位置にあった自宅近くで防空壕を掘っていて助かった。だが両親を亡くし、7歳で焼け跡に投げ出された。幸い親類が面倒を見てくれたことから戦災孤児にならなくて済んだが、日常が平穏であることの有難さと大切さを骨身にしみて感じている。中学卒業後、三菱の工員として職を得、生活を築いてきた。自宅を建て、いまでは孫にも恵まれた。

旧城山国民学校(現城山小学校)では児童・生徒1500人が死亡。池田松義さんは生き残った47人の1人

「妻も被爆者です。当時被爆者の結婚には偏見もあり、生まれてくる子供は大丈夫かという心配もありました。子供も孫も健康です。でも、今度は孫が結婚して、健康な子供が生まれるだろうかということまで心配します。原爆の影響についてそこまで考えるのです」 

池田さんは、年齢を感じさせないほど、かくしゃくとしている。

「だけど被爆者が証言できるのはあと10年でしょう。広島ほど長崎の原爆のことは知られていません。長崎にもキノコ雲が上がったというぐらいのことしか理解されないままで、いいのだろうかと思います」

めぼしい遺構のない長崎では、旧城山国民学校の校舎は平和祈念館となり、資料を展示している

被爆二世へ受け継がれる語り部活動、浦上川のほとりの鎮魂花

被爆者団体の一つ、長崎被災協の「被爆二世の会・長崎」の会長である佐藤直子さん(52)に会った。待ち合わせたのは、爆心から北西500メートルの浦上川沿い。彼女の父親が、慰霊のために川沿いの土手を整備し、一人で花を植え育ててきた。

この川は、傷ついた被爆者たちが水を求めて集まり、次々と死んでいった場所だ。

父親の池田早苗さん(83)は、6人きょうだいの2番目。「その日」、姉や弟妹5人は、爆心から約800メートルの所にあった自宅で被爆。池田は母親と郊外に買い出しに出かけていて難を逃れた。その日から19日までの11日間に池田を除くきょうだい全員が次々と亡くなっていった。一番下の弟を一人で火葬した。「弟は関節をグギグギ言わせながら燃えていきました」。両親もその後、相次いで他界。

長崎被災協・被爆二世の会会長、佐藤直子さんは、4年前から父親の語り部活動を引き継いだ

だが佐藤さんは、子供の頃、父親から詳しい話を聞いたことはなかった。詳細を知ったのは4年前。語り部活動をしていた父親から初めて被爆体験講話を聞いたのだ。父親が被爆したのは12歳の時。戦後は、食道がんも患ったが、語り部として、修学旅行生などに体験を語り続けていた。そんな父の姿に、気持ちが動かされた。二世の会の会長となり、父親の体験を「家族証言者」として、語り継ぐ活動を開始し、いまでは全国各地の学校や集会に呼ばれるようになった。

「いま、被爆者団体そのものの存続が危ぶまれる状況です。被爆者の方たちも、戦後70年を超えて以降、気持ちも体力もガクっと来られた感じで、入院する人が増えたり、被爆者団体の集会の参加率も低下しています。二世の会が、親たちの会である被爆者団体の活動も受け継いでいかないといけない時代になりました」

被爆後、たくさんの遺体があった浦上川沿いには、佐藤さんの父親が育てている花々が咲き誇っていた

いま、浦上川の川沿いの花壇には、ピンクや白の松葉ぼたんと、鮮やかな赤いバーベナが咲き誇っている。

「松葉ボタンは、核廃絶のための高校生1万人署名運動の時に父が配っていました。日の明るい時にしか咲かないんだそうです。平和の花、と父は呼んでいます」


高瀬毅(たかせ・つよし)
1955年長崎市生まれ。明治大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送入社。記者、ディレクター。1982年ラジオドキュメンタリー『通り魔の恐怖』で日本民間放送連盟賞最優秀賞、放送文化基金賞奨励賞。1989年よりフリー。雑誌『AERA』の「現代の肖像」で18年にわたって人物ルポを発表する一方、ラジオ、テレビでコメンテーターやナビゲーターなども務めてきた。著書に『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞)など多数

[写真]
撮影:比田勝大直
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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