かつて、台湾が日本の一部だった時代があった。日本の台湾統治は、1895年の日清戦争の勝利で始まり、1945年の太平洋戦争の敗北によって、ちょうど半世紀で終止符を打たれた。50年という時間は決して短くない。日本と台湾は、統治と被統治という不平等な関係ではあったが、台湾の近代化に貢献しようと頑張った日本人も多かった。結果として、台湾では建築や鉄道など多くの「日本」が残され、いまもなお生きている。その一方で、姿を消した「日本」も少なくない。地名の大半は、孫文や蒋介石など指導者の名前から取った「中山路」や「中正路」や中国の地名に改められた。日本人の信仰の対象であった神社もまた、消え去った「日本」だとすっかり思われてきたのだが、このところ、いささか様子が違うのである。
(ジャーナリスト・野嶋剛/Yahoo!ニュース編集部)
各地で始まる再建・復活の動き
日本統治時代に、無数の神社が台湾に建てられたが、日本人が去ると管理する者もないため急激に荒廃し、のちの1972年の日華断交(日本と中華民国の国交断絶)によって日本に反発した国民党政権はその2年後、「台湾における日本帝国主義の優越感を表す植民統治記念遺跡の除去の要点」という内政部通達によって、多くの神社遺跡も破壊してしまった。
ところが、ここ5年ほど、失われた神社を再建・復活させようという動きが、台湾各地で続々と始まっているという。
現地をまずは訪ねてみた。台湾・東部にある台東県鹿野郷。フィリピン海プレートとユーラシアプレートがぶつかる場所にできた細長い谷間平原を利用し、熱気球の国際大会の開催地にもなっている風光明媚な観光地である。
緑の多い鹿野郷のなかでも、異様なほど丁寧に碁盤の目の区画整備が行われているのが、今は龍田村という名称で、日本時代は「鹿野村」と呼ばれた場所だ。貧しい日本の農村から活路を求めて台湾に渡った人々の「移民村」の一つだった。先住民との対立やマラリアに悩まされながら、鹿野村の日本人たちは一生懸命田畑を開墾し、豊かな農村集落を築いた。その中心にあったのが1923年に建立された「鹿野神社」で、祭られていたのは自然神である。
日本の敗戦後、神社の社殿部分は取り壊された。コンクリートの土台だけが雑草に囲まれて残っていたが、神社の存在は忘れられていた。ところが、2010年ごろから村の若者たちが地域おこしの一環として「神社をよみがえらせたい」と地元政府に掛け合って、鹿野神社の復活運動を始めた。
彼らが協力を依頼したのは、日本留学経験を持つランドスケープデザイナーの郭中端さん。台湾で日本建築の保存や活用に実績のある郭中端さんは、昔の写真を元に鳥居を含めた神社全体の復元計画を立てた。
復元に使う木材は、日本から檜を輸入し、宮大工も日本から招いて台湾の作業員たちと共同で作業した。2015年10月に社殿など全体の神社の復元作業は完了した。除幕式の様子は台湾メディアにも大きく報じられた。
現在の鹿野神社は、ちょっと不思議な空間だ。こぎれいな木造の社殿と鳥居が、公園のような平たく広い空間に突然現れる。中華風の灯籠も混在する。荘厳な神社がよみがえったというより、テーマパークのようなイメージである。
郭中端さんは言う。
「鹿野神社の復元は、古いものを元通りにする修復ではなく、『新しい観光資源を造る』という目的だからこそ、成功したと思います」
台湾では、日本の植民地統治の肯定とも捉えられかねない「神社」の復活は、一つ間違えれば、政治問題に発展しかねないリスクが存在していた。だから、あくまでも観光資源を造るという建前部分と、再建を期待する住民の熱い思いの本音部分の両方があって、うまく実現できたと郭中端さんは見ている。
そこには、台湾における「日本」問題の複雑さが垣間見える。
台湾には戦前、当時の記録にあるだけで、200カ所以上の神社があった。日本統治初期の日本文化を浸透させようとした時期や、戦争に突入した後の皇民化運動の時期など、いずれも政治的な意図をもって建てられた大型の神社と、移民たちが自らの生活と信仰のために自ら欲して建てた小型の神社の二種類がある。前者の神社の大半は、台湾への派遣軍を率いて亡くなった北白川宮能久親王を祭ったが、後者の神社の方の祭神は様々だった。もちろん後者の神社の方が数は多く、復活された神社の多くも後者の地域密着型の神社である。
アンバランスな空間
鹿野郷から車で一時間ほど北に向かうと、台東県から花蓮県への境界を越え、まもなく鳳林鎮の旧林田村にたどり着く。ここは東部台湾でも有数の規模を誇った移民村で、いまでも日本統治時代の学校や校長宿舎、当時盛んに栽培されたタバコの工場跡なども残っている。その一角に、いささかアンバランスな空間が広がっている。コンクリートの真新しい鳥居が2つ。その奥に、樹々に囲まれた小さな丘。これは一体何であろうかと、思わず自分の目を疑った。
この場所は1915年に建立された「林田神社」で、当時は地元の人たちの厚い信仰を集めたという。戦後やはり荒廃し、コンクリの社殿もなくなってしまった。そこに地元の有志が神社復活の声を上げ、鳥居や周辺の環境整備を進めた。ただ、わざと社殿は復元させなかったという。どうしてだろう。
林田神社の復活運動の中心に立った李美玲さんは言う。
「私たちは信仰のために神社を再建するのではなく、地域の歴史を後世に残すために再建するのだから、社殿をつくるのは変だと思いました」
李美玲さんが神社の復活を呼びかけると、賛同者は驚くほどスムーズに集まった。問題は再建費用の捻出だった。旧林田村の一帯は客家と呼ばれる人々が多く暮らしている。李美玲さんは台湾政府で客家問題を担当する客家委員会に資金の供出を掛け合ったが、日本時代を美化するような神社の復活には予算は出せないと断られた。だが、生活環境改善という理由で同じ政府内の環境部に改めて補助を申請すると、意外なほどあっさりと認められた。台湾で神社の復活をどう受け止めるか政府部門ごとに異なる見方が存在する、ということなのだろう。
「日本」がタブーだった時代
もともと戦後の台湾では日本と戦争を戦った国民党の一党支配が長く続き、その「中国史観」が支配的ななかで、歴史教育は台湾史より中国史を中心に教えられ、もちろん「日本」を肯定的に語ることは不可能だった。1990年代以降の民主化で表面的にはそのタブーは解除されたが、言論界ではなお、日本の文化やアニメはいいが、歴史問題は批判的に語るという暗黙のルールがあった。1994年に出版された司馬遼太郎氏と当時の李登輝総統の対談を収録した「台湾紀行」や、2001年に出版された小林よしのり氏の漫画「台湾論」がいずれも政治問題化したのは、日本統治を肯定すると受け止められる本の内容が、中国史観のまだ強かった台湾の政界やメディア界、言論界からバッシングを受けたためである。
しかし、台湾では時の経過と共に中国史観の影響力は減退し、この10年で「日本タブー」は、ほとんど姿を消していった。日本統治時代の歴史の掘り起こしが批判を浴びる懸念も低減し、神社の復活にも追い風になったようだ。ただ、現在の台湾の歴史研究者からも、日本の苛烈な統治による多数の人民の殺害や弾圧があったことは常に強調される。一方、過去と異なるのは、イデオロギー的に日本の台湾統治を悪の所業や皇民化の企みと否定的に頭から決めつける論じ方がなくなった、という点であろう。
この点を訪ねると、李美玲さんは「難しいことは分からないけど」と笑いながら、こんな風に説明してくれた。
「当時は台湾で台湾人と日本人は一緒に生活し、その関係は社長と社員だったり、先生と学生だったり、恋人同士だった人もいました。その記憶はいまもこの林田村に残っています。国と国とは歴史や政治の問題があるでしょう。でも、私たちはあくまでも人と人との関係から、日本を考えてみたい。村の老人たちは日本時代を懐かしがっています。そんな歴史の真実は埋もれずに残されてもいいのではないでしょうか」
話を聞いていて気付いたことがある。それは、彼女たちが、信仰のある神社を求めているのではなく、台湾史の一部としての神社を復活させようとしているのだということだった。だから、あえて社殿は造らなかったのだ。
地域の人たちが自発的に神社復活へ集結
旧林田村から南の台東の方向に少し戻った位置にある、同じ花蓮県の玉里に向かった。ここにも、最近復活を遂げた「玉里神社」があると聞いたからだ。李美玲さんの知り合いが中心に手がけたという。
玉里神社は、比較的大きな街である玉里の郊外にある。小高い山全体が神社となっており、日本の地方でもよく見かける神社の立地である。入口には日本時代のものと分かる古い鳥居がある。一方、頂上に向かう階段は木製の新しいものだ。樹々の整備も行き届いている。一見して公園として復元されたことが分かる。頂上にある社殿は林田神社と同じように再建されていない。
玉里神社の復活を推進したのは、地元の郷土史家であり、教師でもある黄家栄さんだ。黄家栄さんは玉里の近くに暮らしているが、地元のある場所の地名の由来が日本統治時代の神社と関係していたことを知り、神社の問題に興味を持つようになった。
公式の史料にあたってみると、花蓮県内だけでも二十数カ所の神社があったことが分かった。学校の教科書には載っていなかった。自分でさらに調べて、最終的に神社は50カ所まで確認できた。それぞれ訪れてみると、大部分は荒廃していた。規模の大きい方だった玉里神社も遺構は完全に雑木林の中に埋もれていた。
「人知れず眠っている玉里神社の跡を見ていると、すごく神秘的な感じがしました」と黄家栄さんは振り返る。
行政に問い合わせると、建造物がすでにないので、文化財保護の対象にはならなかった。だが、放置しておくのは惜しい、なんとか昔の姿を復活させたいと考え、歴史愛好者のネットワークで賛同者を集めた。そのなかに地元の古老の男性の知り合いがいて、その古老の男性は若い頃、玉里神社で結婚式を挙げたことがあることが分かった。妻は亡くなっているが、古老の男性が生きている間に神社をどうにか復活させようと決意を固めたという。
地元の古老が結婚式も行った場所
有志で1カ月に1、2度のペースで神社の掃除と整備を2007年から進めた。地道な活動が評価され、やがて花蓮県や中央政府の文化部から補助が出ることになった。林田神社と同じように社殿の復元には手をつけず、山全体を自然公園として活用し、市民の憩いの場とすることを目指した。2010年ごろには山全体を含めた玉里神社の復元はほとんど完成していたという。
黄家栄さんにとって、玉里神社の存在の意義は「私たち地元の人間が自分の歴史を振り返ることができることにある」という。
「学校の先生も歴史の授業に使える。観光の効果もある。地元の人も散歩に来る。過去の国民党の時代、日本のことはすべて悪いものとされたけれど、日本人でも台湾人でも、いい人もいれば、悪い人もいる。歴史にも、いい面も悪い面も、功も罪もある。そのすべてをひっくるめて残せばいいのです」
黄家栄さんは1979年生まれ。小学校時代には民主化が始まり、報道や言論も自由になった。「台湾は中国の一部であり、台湾人は中国人である」という教育を受けた以前の世代とは根本的なアイデンティティも異なっている。
台湾では、民主化以降のこの20年ほどの間に、自らを中国人ではなく台湾人であると位置づける「台湾アイデンティティ」が主流化した。台湾の主体性や自決を掲げる民進党の蔡英文政権が今年5月に誕生したのも、そうした社会の動向と密接につながっている。黄家栄さんの言葉にあるように、日本の歴史も、その前の清朝の歴史も、あるいは戦後の国民党の政治も、台湾の歴史の一部として相対的に公平に見ようという台湾史観が定着し、神社の再建が活発化した面も大きい。
東部台湾以外に南部の屏東県でも昨年8月に現地と日本との協力で「高士神社」が再建されたというニュースが流れた。中部の台中市でも、台中公園にかつて存在していた巨大な鳥居の復元プロジェクトが親日家である林佳龍市長の呼びかけによって市政府主導で動き出している。
こうした台湾における「日本」の復活は、実は、神社だけに留まらない。日本時代の家屋やビルなどの古い建築を「リノベーション」することによって、おしゃれなカフェやショップに生まれ変わるケースが増えている。「懐日ブーム」と呼ばれる動きだが、その中心にいるのは70年代以降に生まれた人たちだ。彼らは、若いころから日本のアニメやドラマに親しみ、観光や仕事で頻繁に日本も訪れ、日本への親近感は強い。それは、いわゆる日本語世代と呼ばれる高齢の人々が語ってきた「親日」とは異なるもので、日本のいいところ、優れたところを積極的に取り入れながら、自らのセンスで巧みに現代風にアレンジして作り替えていくスタイルである。
リノベされる日本の神社
考えてみると、各地で復活している神社も、こうした「日本をリノベする」という流れの一環と言える部分もあるだろう。社殿を設けない復活の形は、神社の本来の意味からすれば「魂」が入っていないことになる。しかし、その魂の部分は日本人が台湾から去った時点で早々に失われている。いま台湾で求められているのは、地域の歴史としての神社であり、日本人のこだわる「魂」ではなさそうだ。
前出の李美玲さんは「いつか行ってみたいと思っているけど、まだ日本には行ったことは一度もない。こんな私が神社を復活させるなんて不思議なもの」と話していた。黄家栄さんも日本事情には詳しく、日本語も勉強しているが、日本には一度も行ったことはないという。神社の復活に関わっている人々の日本との距離感はほどよく近く、ほどよく遠い。
むしろ彼らが行動の原点にしているのは、それぞれの地域で共有される「日本という記憶」なのであろう。それは、過去には国民党の中国化という方針のなかでいったんは消された自分たち台湾の歴史を取り戻そうとする「自分探し」なのである。
野嶋剛(のじま・つよし)
ジャーナリスト。1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学・台湾師範大学に留学。1992年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学の後、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月からフリーに。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に活発な執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾で翻訳出版されている。最新刊に『故宮物語』(勉誠出版、2016年5月)『台湾とは何か』(ちくま新書、2016年5月)。
公式サイト
[写真]
撮影:鐘聖雄
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝