「暴力で時の政府を打ち砕く」―。
学生運動が盛り上がりを見せた1960~70年代ごろ、「共産主義革命」を掲げて警官隊と激しく衝突した中核派。警察庁から「極左暴力集団」「過激派」と認定されるこの組織は、規模が縮小したとはいえ、今も活動を続ける。ここに集う若者は何を思い、どのような生活を送っているのだろうか。彼らの活動拠点「前進社」(東京都江戸川区)にビデオカメラが入った。(Yahoo!ニュース編集部)
メンバーの肉声を動画(約6分)に収録した
そもそも「中核派」とは何か?
彼らが人生を捧げる「中核派」とはそもそも、どんな組織なのか。
警察庁の資料などによると、1950年代、路線対立などが原因で日本共産党を除名されたり、離党したりした者が相次いだ。「武装闘争」を否定した同党に飽き足らない者たちが結集。1957年に「革命的共産主義者同盟」を結成した。いわゆる「新左翼」の始まりである。
ところが、この組織は内部で激しく対立し、「中核派」や「革マル派」などに四分五裂していった。
ベトナム反戦運動や大学紛争、70年安保闘争などを背景に、過激派は一時勢力を伸ばした。
警察白書(1988年版)によると、ピークの1969年には総計約5万3000人に達した。しかし、70年以降は減少に転じ、88年には約3万5000人まで減った。その当時は5グループ・22党派があり、最大勢力の「中核派」は約5000人だったという。
現在の人数について、昨年7月に放送されたテレビ東京の報道番組では、警察・公安調査庁調べの数字として、過激派が約1万2000人、そのうち中核派が約3000人だとしている。
過激派はかつて、東大安田講堂の占拠事件や成田空港反対闘争(三里塚闘争)などを繰り広げ、警官隊と衝突を繰り返した。同時に内部抗争やリンチが横行し、「あさま山荘事件」なども引き起こした。
「日本赤軍」のように海外で無差別テロを起こしたグループもある。
一般市民も殺傷されたことで、過激派を支持する国民はほとんどいなくなった。近年では、表だった派手な活動は影を潜めている。
中核派は、現在も公安警察の監視下にある。今回ビデオカメラが入った「前進社」も24時間、警察が見張っている。
建物の中で生活する若者も「常に緊張感があります。警察にも監視されているから。ビール買いに気軽にコンビニにも行けない」と口にする。
「中核派は減って、高齢化している」
中核派を含む過激派をどう見るか。ジャーナリストの青木理氏は共同通信社の記者時代、千葉県の成田支局で「三里塚闘争」を取材し、東京では公安警察を担当した。
青木氏によると、過激派の活動がピークだった時代、監視する側の公安警察は警視庁公安一課だけで約350人。殺人などを担当する刑事部捜査一課の約300人よりも多かったという。
「今は公安一課で200人もいないと思う。中核派のゲリラも10年以上、皆無に近い。中核派も減って高齢化している。(警察は現在、中核派を約3000人と言っているが)警察にすれば、過激派は『お客さん』。いなくなったら仕事が無くなるから、多く見積もるでしょう」
青木氏にはオウム真理教事件の取材経験もある。
「宗教と政治活動は全然違うけど、共通性もなくはない。彼らはある意味、純粋でまじめ。しかし理想や信念を求心力として狭い世界の中でカルト化していくと、とんでもないことを起こしてしまう。今は革命なんて起こせるわけがない。就職も学校も家族関係もメチャクチャになるのに、中核派に入ろうなんて、よほどの真面目か純粋かピント外れか……」
少数派に根付く「裏返しのエリート意識」
「突破者」などの著作で知られる作家・宮崎学氏は早稲田大学在学中、日本共産党の青年組織「日本民主青年同盟(民青)」の活動家として、大学紛争などに関わった。
当時は過激派のやり方を否定しつつも、「革命はできる」と本気で思っていたという。
「活動は盛り上がってメンバーも増えたけど、世の中全体では少数派でした。そして活動家には、少数派でいることの安堵感がある。『あいつらとは違うんだ』という裏返しのエリート意識です。まじめに授業に出て就職を考えるくだらない奴とは違うんだ、と。それが若者を過激派に向かわせているんです」
宮崎氏は、過激派に集まる若者についてそう分析する。
中核派の集う若者たちの考えは?
では、当の中核派に所属する20代や30代のメンバーはどう考えているのだろうか。なぜ、中核派に入ったのか? 革命を本当に起こせると思っているのか? 警察が24時間監視する建物の中で、どんな生活をしているのか?
動画をまだ見ていない読者は、動画を視聴してその答えを確認してほしい。
[制作協力]
オルタスジャパン
[写真]
撮影:八尋伸
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝