千賀健史

オバマ大統領、献花の祈りは「戦後」を変えるか

2016/5/25(水) 10:56 配信

 オバマ米大統領が広島を訪れる──。

 米ホワイトハウスは2016年5月10日、オバマ大統領がG7サミットで来日の際、広島を訪れる方針を発表した。広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花をするという。71年前の原爆投下以降、現職の米国大統領が同地を訪れるのは初めてのことだ。献花前後の発言はもちろん、どんな表情で慰霊碑に向き合うのか、大統領の振る舞いを日本中が注視するだろう。今回の献花は、単なる政治的パフォーマンスに留まらない。加害国と被害国、核と被爆、戦争責任と鎮魂……。後年、歴史の教科書に何らかの形で刻まれるに違いない。

この献花を広島の人はどう受け止めるのか、そして、過去そして未来という長い時間軸の中で、この献花はどのような意義があるのか。広島を歩き、世界に目を向けながら、米国大統領来訪の意味を考えた。
(ノンフィクション・ライター 神田憲行/Yahoo!ニュース編集部)

淡々と作る、白菊の花輪

陽の光が地面に敷き詰められたコンクリートに乱反射して眩しい。

5月上旬、公園内に点在するモニュメントの前で、小学生や中学生たちが、折り鶴を飾ったりメッセージを読み上げていた。原爆死没者慰霊碑に高校生たちが集結している。その前を通って、慰霊碑に手を合わせた。アーチ形のモニュメントの中を通して遠くに原爆ドーム、「平和の灯」が見える。碑の手前の祭壇には、訪れた人が捧げたカーネーションがまだ瑞々しさをたたえて、風に花びらを揺らせていた。

2歳で被爆、12歳で亡くなった佐々木禎子をモデルにした「原爆の子の像」(撮影:千賀健史)

慰霊碑に賓客が訪れるときは、菊などで作った花輪を捧げる「献花」の儀式が必ず行われる。その花輪を戦後70年作り続けているのが、広島市内で生花店を営む谷沢隆夫さん(66)だ。

生花店1階で花輪を製作する谷沢隆夫さん(撮影:千賀健史)

「淡々とね、ずっと淡々と作りよるですよ」
谷沢さんはスプレー菊を献花用の花輪の台に刺しながらそう話す。茎には台の発泡スチロールに挿さりやすいように、竹串がセロハンテープで付けてある。献花用の花輪は先代の父親の代から作っている。

父も母も被爆者。母親は原爆投下の日、広島市内にいた。父親は軍人として下関に駐屯していたが、妻を捜しに翌日広島市に入り、残留放射線を浴びた。花屋を開いたのはその翌年のことである。出身が生花業が盛んな土地で、心得はなかったが、仕入れてきた苗のトロ箱など一瞬にしてなくなるほどよく売れたらしい。戦争直後の食うや食わずの時代に花が売れたというのは意外な気がしたが、「荒れた自分の家を少しでも綺麗に飾りたいという気持ちがあったんでしょう」と谷沢さんは言う。

発泡スチロール製の花輪の台に、菊とカーネーション、グリーンのルスカスなど70~100本ほど挿し込み、周りを檜葉(ヒバ)で囲む。完成品は直径約80センチ、重さは3キロほどになる(撮影:千賀健史)

1971年に現職の内閣総理大臣として初めて慰霊祭に出席した佐藤栄作首相が手にした花輪も、谷沢さんが作ったものだ。81年のローマ法王ヨハネ・パウロ二世のときは直径1メートルの巨大な花輪も作った。オバマ広島訪問のきっかけになった先日のケリー国務長官らG7外相の花輪も作った。白をベースにする注文に、白の菊に「写真映えがいいので」ベージュの菊も交ぜた。花輪には国旗をイメージしたカラーリボンが必要なので、どんな国旗でも対応できるように青でも濃淡の違いなど色を細かく用意してある。作業机の上には読み古した『楽しい世界の国旗本』という本が置いてあった。たとえばノルウェーとアメリカなら赤、青、白の3色で作るが、アメリカは3色を等分で揃え、ノルウェーは赤を多めに配色する。

「それだけ献花用の花輪を作られていると、ご感慨もおありでしょうね」という私の問いに対する谷沢さんの返事が、先述の「淡々と」だった。

「でもね、親父の代から献花の花輪を作ってきたという自負がある。だからベージュの菊交ぜたり、リボンの配色変えたりとか、誰もわかりゃしないけど、そういう工夫はするんだ」

国旗をイメージしたリボン作り。「慣れたら誰でもできる」と謙遜する(撮影:千賀健史)

花輪の製作業者は入札で決定するので、オバマ大統領の花輪を谷沢さんが作るのかはわからない。だが「いまどきの菊はいちばん難しい」と谷沢さんは気を引き締める。

「菊は季節、温度、天候で開花する速さが違うんだ。とくに5月末は夏の菊がまだで冬の菊が最後だからよけい難しい。ちょうど献花するときに満開になっているよう逆算して用意しなくちゃいけない」

花輪を納品するのは当日の早朝。公園事務所に届けた帰り道、人気のない慰霊碑にそっと手を合わせるのが習慣だという。

元安川を挟んで対岸の原爆ドームを眺める修学旅行生たち(撮影:千賀健史)

この世では静かに祈り、あの世では仲間と賑やかに

被爆者だった父親の教えを後世につなごうとする人に、平和記念公園でも出会った。ヒロシマピースボランティアとして活動する甲斐晶子さんだ。甲斐さんに
「あなたのいちばん好きな場所に連れて行ってくれませんか」
とお願いすると、「そうですね」と一瞬考えて、すたすたと公園内を歩き始めた。ボランティアは平和記念公園と施設を無料で案内する。

ヒロシマピースボランティアの甲斐さん(撮影:千賀健史)

案内してくれたのは原爆供養塔だった。公園内には慰霊碑や原爆の子の像など「人気」のモニュメントが多いが、ここは人の気配が少なく、数人のお年寄りが読経をあげているだけだった。原爆供養塔の中には約7万柱の遺骨が納められ、そのほとんどは氏名不詳という。8月6日には慰霊碑の前にテレビカメラが設置され、大勢の人が集まる。だが子どものころ、被爆者だった父親に「あっちに行かんでええけ。こっちで祈れ」とこちらによく連れてこられた。

「子どものときはその理由がわからなかったんですが、静かに祈りたかったんでしょうね」

甲斐さんはガイドを始めて2年になる。小学校教師の勤めを終えて、次になにをしようかと考えたとき、広島で生まれ育ち、被爆者の娘である自分がすべきことが、来訪者たちに原爆の記憶を伝える今の仕事だった。

「だからオバマさんにはずっと前から広島に来ていただきたかった。原爆投下について謝罪する、しないという議論はあります。ですがオバマさんが原爆が残虐な兵器だと知るということは、世界が知るということになります」

「原爆の子の像」を写真に撮る外国人観光客(撮影:千賀健史)

原爆の子の像がある場所へ納められた折り鶴。英語の印刷された紙で折ったものも(撮影: 千賀健史)

甲斐さんと別れたあと、バーバラ・レイノルズ氏記念碑を掃除している女性を見つけた。「撮影してもいいですか」とカメラマンがカメラを向けると、「だめだめだめ、恥ずかしい」と大慌てでモニュメントの後ろに隠れた。バーバラ・レイノルズは核廃絶の平和運動をした米国人女性で、広島市の特別名誉市民にも選ばれている。

「私の両親もきょうだいも私も被爆者で、私以外みんな死んであの慰霊碑に入っているの。月に一度お参りして、ついでで申し訳ないけれど、尊敬しているバーバラさんのモニュメントを掃除しています」

原爆死没者慰霊碑には、原子爆弾投下によって亡くなった方の名簿が収められている。その名簿は投下直後で亡くなった方だけでなく、被爆者が亡くなると毎年更新される。昨年度は5359名が追加奉納されて、合計29万7684名の名前が眠っている。

彼女がそう説明してくれたあとの行動が、私には衝撃的だった。彼女は慰霊碑を指さして、こう言ったのだ。
「私も死んだらあそこに入れてもらえるの!」
その顔は明るく、まるで、楽しみにしているかのようだった。

その光景を広島県原爆被害者団体協議会(被団協)理事長の坪井直さん(91歳)に話すと、
「あっちには仲間がようけおるからなあ。そら、(死んで)ひとりぼっちになりたくないでえ」
と頷いた。

「被爆者は孤独だったから。孤独に耐えて耐えて生きてきたんだから、あの世に行ったら仲間と賑やかにやりたいわ」

広島県原爆被害者団体協議会理事長の坪井直さん。20歳で被爆し、戦後は教師となり「ピカドン先生」と名乗った(撮影:千賀健史)

坪井さんは20歳のとき被爆した。「体中ヤケドだらけだけん」という。癌、狭心症、再生不良性貧血を患い、これまで三度危篤状態に陥った。ここ20年、2週間に一度の点滴が欠かせない生活だ。死ぬということは、これらの苦しみから解放されて、何も語らずともわかり合える仲間たちとの「合流」を意味する。その慰霊碑に、アメリカの大統領が初めて花を持って鎮魂に訪れる。

坪井さんの被爆者健康手帳。何歳のときに爆心地から何キロの地点で被爆したかデータが記録されている(撮影:千賀健史)

「感謝ですよ。大いに歓迎したい。広島のことを知ってもらい、大統領を辞めたあとでも核廃絶に向けて行動して欲しいね。ネバーギブアップよ」

身振り手振りを交えてこう語り、付け加えた。
「お詫びなんか、いりゃあせんよ」

「アメリカ憎し」を乗り越える被爆者

原子爆弾投下は当然の判断で、謝罪など必要は無い、というのはこれまで米国および米国人の一貫した姿勢である。ケリー国務長官も献花の際に頭を下げることはしなかった。投下によって戦争終結が早まり、戦争続行によって死んだであろう多くのアメリカ人、日本人の命を救った、という論理である。

この論理が最初に登場したのは、1946年、米「アトランティック」誌に投稿した実験物理学者カール・コンプトン博士の「If the Atomic Bomb Had Not Been Used(もし原子爆弾が使われなかったなら)」という論考である。その文章は博士が戦後に日本兵に聞き取り調査などをしたことなどを紹介し、こう記してある。

《From this background I believe, with complete conviction, that the use of the atomic bomb saved hundreds of thousands-perhaps several millions-of lives, both American and Japanese 》(このような背景から私は原爆の使用は数万の、恐らくは数百万のアメリカ人と日本人双方の命を救ったと完璧な確信を持って信じている)

さらにトルーマン元大統領は1958年の米テレビ番組のなかで、現職時代に自分が投下指令を出したことについて、「原爆攻撃を指令したあとに、良心のかしゃくを少しも感じなかった」と語っている。この発言に被爆者団体、広島県知事、市長らが抗議の文書をトルーマン宛に送ったが、トルーマンからはさらに反論が送られてきた(宇吹暁『ヒロシマ戦後史』より)。被爆者たちの憤激を想像するに難くない。

また公的な被爆者対策は53年1月、広島県・市医師会が広島市原爆障害者治療対策協議会を組織し、救済活動を開始するまでほとんど実施されなかった。これはアメリカが原爆に関する情報を厳しく取り締まり、医学的な研究発表にまで制限を加えていたからだという(公益財団法人広島平和文化センター編『ヒロシマ読本』より)。

被爆者たちのアメリカへの怒りは原爆投下のみならず、こうした流れも含んでいるだろう。

原爆資料館を訪れた米国人観光客に「オバマ大統領は謝罪をすべきか」と尋ねると、強く「NO」と首を振った。イギリス人の女性も同じ反応だった。資料館で原爆のむごたらしさ、数万の一般市民を殺害した事実を知ってもなおこの反応なのだ。アメリカの世論調査でも、原爆投下は正当であったという声が過半数を超えている。70年前の論理が今もアメリカ政府と市民を支配している。

平和記念公園は夜でも訪れる人が途切れない。(撮影:千賀健史)

「個人的に恨む気持ちがないではないですよ。とくに戦争が終わってから20年くらいはアメリカ憎しの気持ちはありました」
と先述の被団協の坪井さんはいう。

「でもいろいろ外国に行ったりして、世界には我々と同じように戦争で苦しんでいる人たちが大勢おることがわかった。核を廃絶するために、感情は理性で乗り越えた。恨みの感情は戦争しか生まん。理性があれば核を止めさせられる」

オバマ献花で「始まる」平和外交

オバマ大統領の献花のあと、日本政府がなすべき事があるという人がいる。

 元共同通信ワシントン特派員でジャーナリストの松尾文夫さんは
「こんどは安倍首相がハワイの真珠湾に献花すべきです」
と主張する。

日本外国特派員協会で取材に答える松尾さん。1933年東京生まれ。共同通信ではニューヨーク、ワシントン特派員、バンコク支局長などを務め、退職後アメリカ専門のジャーナリストとして活動(撮影:千賀健史)

松尾さんは09年に出版した『オバマ大統領がヒロシマに献花する日』で、オバマ大統領の広島訪問とセットで安倍晋三首相がハワイにある真珠湾攻撃の戦没者を祀った慰霊施設「アリゾナ記念館」に献花することを提唱した。松尾さんはこれを「献花外交」と名付けている。この想を得たのは、95年に出張中のワシントンのホテルで、ドレスデン市で行われた夜間無差別爆撃50周年の鎮魂の儀式に爆撃を行った米英の代表者が出席しているのを見たからだった。

「献花外交とはそんなに難しいことをいってるわけじゃなくて、死者を弔うのは人類の行為として当然じゃないかということです。謝る謝らないというのは、不毛な議論になり、ハードルも高くなる。謝罪をぬきにして、お互いお線香上げましょうよ、ということです」

ただ広島とハワイをお互い訪問するだけで終わりにしてはならない。

「甘いと言われるかも知れないけれど、僕は中国や韓国にも安倍さんに献花外交してもらいたい。彼には『アナザーニクソン(もう一人のニクソン)』になることを期待しているんですよ。ニクソン大統領が米中和解できたのは、彼が国内の右派をおさえていたから。右の支持があることは逆に外交的にフリーハンドになるんですよ。安倍さんの今の環境ならできるはず」

2016年4月11日、G7外相会議のあと広島平和記念公園の慰霊碑に献花するケリー米国務長官(中)。この訪問がオバマ大統領への強い働きかけにつながったといわれる。左は岸田文雄外務大臣、右はハモンド英外相(写真:毎日新聞社/アフロ)

日本は戦後処理についてよくドイツと比較される。1985年、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」、「罪があろうとなかろうと、我々全員が過去を引き受けなければなりません」という言葉は、ドイツの公的姿勢を象徴する言葉として歴史に残る。だが東京大学大学院の石田勇治教授(ドイツ近現代史)は
「ドイツもすぐに自分たちの過去と向き合えたわけではありません」
と語る。

石田勇治東京大学教授。戦後ドイツがどう過去と向き合ってきたか記した『過去の克服:ヒトラー後のドイツ』などの著書がある(撮影:千賀健史)

「戦争直後のドイツは、大戦末期のソ連兵による蛮行などの記憶が生々しく、被害者感情の方が大きかった。ナチ党員だったエリート官僚が復職したり、日本の『逆コース』と同じような現象が起きていたのです」

転機は、第4代西ドイツ首相に就いたヴィリー・ブラントだった。ブラントは戦争中、亡命先で反ナチ抵抗運動をしていた人物で、戦後すぐには「売国奴」扱いされたこともあったという。

1970年の冬、ブラントはポーランドのワルシャワで、戦争中にナチスに虐殺されたユダヤ人の記念碑の前に進み出てひざまずいた。なにも言葉は発しなかったが、これがドイツの戦争被害国への初の公式謝罪と言われている。

「ブラントの行為が必ずしもすぐドイツ国民に広く受け入れられたわけではありません。賛否両論となり、保守派からはひどく叩かれた」

85年のヴァイツゼッカーのあの演説も、国内世論は割れたという。

「結局ドイツが過去と本格的に向き合うのはやはり東西統一されてからですね。それでもブラントの行為は政治家が過去を振り返るときの参照点になったのは確かです。国際政治の場で政治家に道義的振る舞いが求められるようになり、それは時間をかけて国民の間にも浸透したのです」

ブラント西ドイツ首相がユダヤ人の記念碑の前にひざまずくこの写真は、ヨーロッパの多くの歴史書、教科書などに掲載されているという(撮影:千賀健史)

2014年にはヨアヒム・ガウク大統領がギリシャのリンギアデス村を訪れている。ここはナチスではなくドイツ国防軍が住民を虐殺した場所だが、ガウクはその犠牲者の遺族を前に公式に謝罪した。

「ガウクの演説には、罪と責任を分ける戦後ドイツの基本的な考え方が表れています。虐殺に加担していない今のドイツ人に罪はないが、先人の罪から生じる責任はある。そして戦後、虐殺の事実を知ろうとせず、過去に目を背けたことが第二の罪につながったというのです」

この罪と責任論は日本にも大いに参考になるだろう。

「ヨーロッパでは、旧交戦国の戦争犠牲者の追悼はイギリスがドレスデンに行き、ドイツがリンギアデスに行ったように現地で個別具体的に行われています。ホロコーストの犠牲者に対してもそうです。日本の総理大臣が官邸から談話を読み上げるような包括的抽象的な形はとらない。個別具体的に国の指導者が訪問しあうことで国民相互の和解への気運が高まり、平和への信頼が醸成されていくのでしょう」

個別具体的は松尾さんの献花外交に通底するものがある。

広島城天守閣の望遠鏡を通して見た原爆ドーム(撮影:千賀健史)

平和へのバトンを携え、祈りを捧げる

オバマ大統領が捧げるであろう献花は、平和をつなぐバトンでもある。

広島を去る前にもう一度慰霊碑に手を合わせようと、夜の平和記念公園を訪れた。元安橋から公園に入ったところにパトカーが1台止まり、赤色灯を回していた。慰霊碑の前に警官が2人立ち、慰霊碑を訪れる人々に「こんばんは」と声をかけていた。

「あのパトカーはいつもいるんですか」
と私が訊ねると、俳優の高橋克実に似た年配の警官が
「オバマさん訪問が決まってからです」
と答えて、逆に私に「どちらからいらしたんですか」と訊ねてきた。

東京から来た取材の者ですと答え、オバマ訪問について感想を求めると、「それはひとりの広島市民として、いろいろ思うところはあります。ですが今は公務中なので控えます」
彼は笑みを浮かべ、また次の訪問者に「こんばんは」と声をかけた。

広島はいま、さまざまな感情を胸に納めて、ただ、祈りを捧げる人を迎えようとしている。

慰霊碑からまた元安橋にむかうとき、「平和の灯」が音を立てて燃えているのがわかった。昼間の喧噪では気づかない、初めて聞いた音だった。

夜の平和記念公園の「平和の灯」(撮影:千賀健史)

神田憲行(かんだ・のりゆき)
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。大学卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクション・ライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』、『「謎」の進学校 麻布の教え』など。

[写真]
撮影:千賀健史
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝


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