「代わりがいない」から追い詰められる
ひとたび会社の一員となれば、ボロ雑巾になるまで働かされて、心身の健康を損ない働けなくなると、代わりの「雑巾」となる新入社員を大量に採用する。前回の連載では、大企業でそうして、人生すべてが仕事に奪われる「全人格労働」に追い込まれていく事例を紹介した。一方、中小企業やベンチャーなど規模が小さい職場で働く人や、自営業者は「代わりがいない」という責任感と重圧から、過重労働に追い込まれていく例もある。
(Yahoo!ニュース編集部/AERA編集部)
会社で仮眠し、始発で家に一時帰宅
突然、パソコンの画面がにじんだ。
「あれ?」
悲しいわけでもうれしいわけでもないのに、涙が止まらない。
これが、システム開発のベンチャー企業に勤務する女性(30)の変調の始まりだった。
大手外資系企業から転職して4年目。毎日朝8時半から夜10~11時頃まで働き、休日出勤も当たり前。それでも不満は感じていなかった。大企業にいたときと比べて、自分の働きが会社の業績につながっている実感があり、会社から期待されているとも感じていたからだ。なにより仕事が、会社が好きだった。
変調が表れる少し前、それまで経験者ばかり募集していた会社が、初めて新卒を採用した。女性も新人教育を担当。だが人員に余裕はないため、もともと抱えていた開発業務の負担はそのまま。一方、社長からは「一日も早く現場で使える新人に育てろ」と言われ、女性は日中には新人の指導やフォロー、定時後に自分の業務を行うことにした。
終電で帰宅できればいいほうで、深夜2時まで働き会社のソファで仮眠を取って、始発電車が動く頃に帰宅、シャワーを浴びて会社にとんぼ返りすることも。そんな生活が約3週間続き、不眠がちになった。社内には「管理職」である上司もいるが、部下たちの仕事量を調整してくれることはない。そして起きたのが冒頭の場面だ。
「まだ会社に余力がないのに、社長が『普通の企業』になりたがった。そのしわ寄せがすべて中堅の私たちにきました」(女性)
「ベンチャーは弱った社員を守らない」
新人が手を離れ、通常業務に戻った後も不眠が続いた。食欲もない。心療内科を受診するとうつ病と言われ、休職を勧められた。だが、女性は急成長する会社でひとり取り残されるような気がして、休まなかった。その5カ月後、朝布団から起き上がれなくなった。そこから休職し、まもなく1年。会社からは退職を勧められている。
「最初の体の悲鳴をちゃんと聞いていたら、休職がここまで長びくことはなかったのかなと思います。もっと自分で気をつければよかった」
この女性はあれほど会社のために頑張り、会社の成長の犠牲になったというのに、捨てられようとしている。規模も大きくないベンチャーには、弱った社員を守ってくれる余裕はない。
仕事の相場観わからず管理できない
約25社の産業医を務める大室正志さんは、大企業とベンチャー企業で社員が負担に感じるポイントの違いをこう整理する。
「大企業では社員は歯車の一つとなり、代わりなんていくらでもいるというニヒリズム(虚無主義)的考えの中で、ポジションを守るために必死に働く。一方、ベンチャーでは熱狂の渦の中で、過重労働に自分を追い込んでいく。さらに、ベンチャーは、管理職や人事機能が組織体として追いついておらず、仕事自体が新しいため上司も相場観がなく、部下がキャパオーバーかどうか判断できない。心身に異変を感じる前に、社員自身が客観的に自分の仕事の状況を見て、無理なら上司に伝えることが大切になってきます」
さらに、大室さんはベンチャーや中小企業などでは「仕事に穴を開けられないという責任感から、目の前の球を打ち返していくうち、近視眼的になり、判断力が失われることがある」と指摘する。
自殺衝動に駆られて車道に飛び出す
四国の飲食店で働く男性(35)は、和食料理店の店長として働いていた3年前、酒に酔い、ふと車道に飛び出したことがあったという。一緒にいた友人が腕をつかんで引き戻してくれたが、深酒した際の酔い方がいつもとは違い、自分が自分ではなくなってきていることに気づいた。心療内科を受診すると医師に「不安障害といううつ病の一歩手前。それで自殺衝動が出たのだろう」と言われた。過労に加え、代わりがいないというプレッシャーから常に「今日は店を回せるのだろうか」という崖っぷち感に苦しんでいたことが原因だった。
和食料理店は、オーナーが数店舗経営するうちの一店。板前として腕を磨いてきた男性にとって、店長になれることが魅力で転職してきた。平日は空いているが、金、土の夜は宴会場にも客が入り、120席のほとんどが埋まる。転職時のオーナーとの面談では「(調理場に)ヘルプを入れる」という約束だったが、入ってみると「今の売り上げではもう一人雇う余裕がない」と言われ、当分調理場を一人で回すことになった。店長とはいえ、裁量も少ない「名ばかり店長」だ。
どれだけ努力すれば評価されるのか
代わりがいないから絶対に休めない。体調を崩しても出勤前に点滴を打って、昼11時から夜11時すぎまで勤務した。出すタイミングを考えながらさまざまなメニューを調理し、さらに店長としての仕事もこなすため、深夜まで内容の濃いマルチタスク業務を続けて脳が興奮し、帰宅後も体は疲れているのに2時間ほど寝付けず、睡眠不足になった。
客120人のうち約4分の3はコース料理で、残り30人ほどはフリーオーダー。開店前の仕込みの時間に刺し身の盛り合わせやサラダを作っておくのは当然で、それだけでは追いつかないので平日の空いているときに煮込み料理を作り、揚げ物もパン粉をつけて冷凍し、そのまま揚げ油に放り込めるようなレシピを開発。こうした男性の努力の結果、一人でなんとか調理場を回せるようになった。
料理の質を上げ、宣伝方法を工夫したことで居酒屋レベルだった客単価3000円を4000円に引き上げ、売り上げも伸ばした。男性はもう一人雇ってもらえると期待したが、オーナーは「一人で回せるなら人を増やす必要はないだろう」と冷たく言い放った。結局、男性はギリギリの状態で働き続けるしかなかった。効率化を実現すればするほど、自分の負担が増す矛盾。
「どれだけやったら評価してもらえるのか、とてもあいまいで苦しかった」という男性。
バイトを募集しても集まらず、接客担当のホール係も1人でも休めば店が営業できなくなる状況。大学生のアルバイトから「試験前なので休ませてください」と言われたが、「休んだら店が回らなくなるだろう」と認めなかった。いわゆる「ブラックバイト」。冷静になった今は、後悔している。
「バイトにまでもプレッシャーを与えてしまって申し訳なかった。あの頃は、少しおかしくなっていた」
心身共に疲弊し追い詰められ、学生アルバイトにまで重い責任を課してしまう。全人格労働が全人格労働を呼ぶのだ。
百貨店が「従業員の負担軽減」で正月連休
今年の正月、百貨店最大手の三越伊勢丹ホールディングスが首都圏の伊勢丹、三越の計8店舗で、従業員らの負担軽減を狙い、元日と2日を休業日にした。その5年前、「とらやのようかん」で有名な虎屋の黒川光博社長ら百貨店のデパ地下に出店している業者が「休業日を増やして」と申し出ていた。
中部地方の大型のショッピングモールで中古品売買の店を経営する男性(59)は、ニュースで知り、「この素晴らしい取り組みが広まってほしい」と思ったという。男性の店の営業時間は大手スーパーの規定に従わざるを得ず、朝9時から夜9時。しかも年中無休だ。夫婦と息子、パート2人で店を回すが、親戚の結婚式や葬式にも家族全員で参加することができない。盆も正月もなく親戚づきあいもできず、旅行なども難しい。「リフレッシュもできず、人間としての休息の時間はない」という。だが、スーパー内は一軒家よりもセキュリティー面で安心だし、客も買い物ついでに店舗に立ち寄れるというメリットもあり、スーパーを出ていけないという。
「年中無休」に苦しむスーパーの出店業者
男性は大学を卒業し、スーパーにも出店するアパレルメーカーに就職。その後、妻の実家が現在の場所で経営していた店を継いだので、大型スーパー内で働いて37年になる。就職した頃はスーパーの休館日が年間36日もあった。だから専門店街の他の業者と一緒に日帰り旅行に行ったこともある。それが24日、12日と減り、大規模小売店舗法が2000年に廃止されて閉店時間や休館日の規制がなくなり、現在は0日。今は業者同士の交流もほとんどない。
数カ月前まで、営業時間は午前9時から午後10時までだった。閉店作業を終えて帰宅し、夕食、風呂を終えてソファに沈み込む。テレビ画面には、日付が変わる頃にNHKで放送している番組「時論公論」が映り、どっと疲れが増した。長時間労働による日々の疲労に加えて売り上げ不振が続くと胃が痛み、食が進まなくなることも。客が来ない時間帯も店を開けていなければならないし、人件費カットのために営業時間を短くしたくてもできない。自営業者なのに大企業の論理にからめとられている。
「スーパーは大手の競争が激しく、現場の人たちに無理を押しつけている。百貨店、スーパー、コンビニにはそれぞれの役割があり、スーパーが年中無休で朝から深夜まで店を開ける必要もないと思うんです。環境問題の観点からも、考え直したほうがいい」
消費者も労働者を全人格労働に追い込む
プライベートな時間や自身の健康といった人生すべてを仕事に奪われてしまう「全人格労働」。その全人格労働に追い込むのは、何も会社だけではない。何の疑問も抱かずに24時間営業のコンビニや深夜まで営業するスーパーを利用する私たちも、全人格労働の加担者なのかもしれない。そう自覚することが、自分の労働環境をよりよくする第一歩になる。
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