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殿村誠士

もはやソウルフード、山間に焼肉文化が立ちこめる長野県飯田市の「正体」

2020/12/04(金) 17:39 配信

オリジナル

1位・長野県飯田市、2位・北海道北見市、3位・沖縄県石垣市、4位・北海道砂川市、5位・高知県宿毛市――。これは人口1万人あたりの焼肉店の数(2019年1月末時点)の多さを誇る都市のランキング。日本一に輝いた南信州の飯田市については、「コンビニより焼肉店のほうが多い」「焼肉の出前があるらしい」「各家庭に秘伝のタレがある」といった都市伝説めいた噂がささやかれている。現地で「YAKINIKU CITY」の真相に迫った。(ライター:竹田聡一郎/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース 特集編集部)

1人前1200円ポッキリの「出前焼肉」

「正直、儲けがあるかどうかといえば分からない部分もありますが、とにかく薄利多売でやらせてもらっています」

丸三精肉店・原大介さん。昼は精肉店、夜は隣接する焼肉店を営む

そう苦笑いで教えてくれたのは、飯田市白山町で丸三精肉店を営む原大介さん(48)だ。1948年創業の同店は、「出前焼肉」のパイオニアとして知られる。
 出前焼肉とは、鉄板とガスボンベなど器具のセット、1人前300グラムを超える肉、タレ、キャベツとたまねぎのカット野菜に皿や箸までがパックになった、どこでも手ぶらで焼肉が楽しめるサービス。飯田では当たり前で、「文化」と呼んでも決して大仰ではないだろう。

店舗脇の倉庫には出前焼肉用の鉄板などがズラリと並ぶ

料金は1人前で1200円(税込/以下同)からで、900円という小学生料金も設定されている。盆暮れ正月はもちろん、お花見や運動会、学校行事や公民館活動まで、季節や年齢層に関係なくほとんどすべてのイベントに焼肉がついてまわる飯田ならではの低料金設定だ。
 例えば都内で同様のサービス「出張BBQ」を検索すれば、安い業者でも1人前2000円前後から。3000円を超えるコースもあり、それと比べれば破格と言っていい。市内には現在、4〜5店舗の「出前焼肉」を受け付ける精肉店があるが、ほぼ同じ価格帯で営業している。

南信州エリアの焼肉店、精肉店が網羅されたリスト。その数、100に迫る

原さんの父・親男(ちかお)さんが始めた出前焼肉。ただ原さんは、実際に自身が店で働き始めるまで飯田独自のサービスだとは知らなかったという。
「テレビなどで『飯田では焼肉を出前してくれる』と紹介されて少しずつ有名になってから、『え、全国の肉屋はやってないの!?』と驚きましたからね。それまでは『こんな大変なのに、よくみんな肉屋なんてやるよな。自分の代になったら絶対やめよう』とも思っていました」

約40人前のセット。出前専用のトラックで運ぶ

多い日は都合300人前を超える焼肉セットを用意。指定された場所にそれぞれ運び、宴が終わればゴミと道具を回収して店に戻り数十枚の鉄板を洗う。夏場はそれが繰り返される「焼肉地獄」だと原さんは語る。「苦労する割に採算が取れない。やめよう」と疑問を持ち、父親に直訴したこともある。
「でも少しずつこうしてメディアに取り上げてもらったり、出前で会ったお客さんが店に買い物に来てくれたりすることで、マーケティングとしてもそこまで悪いものではないなと感じるようにもなりました。何よりも、焼肉って、料理じゃなくて行為だと思うようになった。同じ釜の飯じゃないけれど、同じ鉄板の上で同じ肉を食べる。それはひょっとして誇れるくらいに、質の高いコミュニケーションなんじゃないかな」

山間で育まれた独自の焼肉文化

南信州畜産物ブランド推進協議会資料から作成。※焼肉店舗数:2019 年1月末時点、iタウンページから/人口:2018年の住民基本台帳人口から(図版:桂山未知)

そもそも飯田でなぜ焼肉が発展していったかといえば、いくつかの理由が複合的に結びついたと考えられる。
 飯田を中心とした南信州は、中央アルプス(木曽山脈)と南アルプス(赤石山脈)に挟まれるような日本の屋根の真下であり、大部分が山間部だ。海から離れているため、肉食が一般的になってくる明治時代以前から農耕や輸送用に飼育していた馬の肉を、羊毛の生産が盛んだったことから羊肉を、それぞれたんぱく源として摂食する習慣が生まれた。馬の腸を煮込んだ郷土料理「おたぐり」が当時の名残として今も伝わっている。

地元紙「南信州新聞」は飯田焼肉の歴史を連載で伝えた

 ただ、当時はまだ調理としては「煮る」「茹でる」がメインだった。その肉食習慣に「焼く」を加えたのが、中国や朝鮮の食文化だ。
 1930年代に始まったダムや発電所の建設工事の宿舎で、朝鮮出身の労働者が炭火をおこし網に載せて肉を焼いた。肉をタレに漬け込む調理もこの時期が発祥とされ、建設現場からほど近い遠山郷エリアの「肉のスズキヤ」(飯田市南信濃和田)では当時、朝鮮出身者から学んだタレをベースにした「遠山ジンギス」がのちに開発され、飯田のソウルフードとして現在も親しまれている。

飯田市民なら必ず冷蔵庫に常備している「とりじん」「ぶたじん」

飯田焼肉の源流とされる遠山郷では一斗缶などを使った焼肉も珍しくなかった/「肉のスズキヤ」協力

さらに戦時中に満蒙開拓で海を渡った人々が大陸仕込みのジンギスカン文化を持ち帰ってきたという背景も重なり、一気に「焼肉」は定着した。1950年代に入ると、現在も飯田焼肉の聖地として人気の「やきにく徳山」を皮切りに、次々と焼肉店がオープン。1970年代初めのジンギスカンブームも相まって、地元紙「信濃毎日新聞」には連日、焼肉店の広告が入るなど飯田焼肉は盛況の一途をたどる。

もっとも多い時には飯田駅周辺に30を超える焼肉店があったという

昭和後期から平成まではグルメとしてだけでなく、コミュニケーションツールとしても焼肉は作用、いよいよ市民に浸透した。
「昔から飲み会だけではなく、スポーツイベントやお祭りをはじめ、人が集まると必ず焼肉です。『どの店にしようか』という選択肢はあっても『何を食べようか』という議論にはほとんどならない」
 いたって真顔で飯田市民の焼肉との接し方を説明してくれたのは、飯田市役所の産業経済部農業課に勤務する平沢真一さん(40)だ。
「1軒目で焼肉屋で飲んで食べて、スナックやカラオケなどの2次会を経てシメに焼肉。そんなこともあります。『1軒目はサガリ(ハラミ)がおいしい店にしたから、じゃあシメはホルモン系の店に行こう』みたいな感じで」

飯田市民が3人集まれば、やれどこの店の肉が好みだ、どこの店のタレは少し甘めだ、といった具合に焼肉談議が始まるのが常だ。
 また、外食としての焼肉だけではなく、前述の出前焼肉以外にも「おうち焼肉」で飯田特有のものがあると平沢さんは語る。つけダレだ。
 焼肉店はもちろん、市内に20以上ある精肉店だけにとどまらず、飲食店やスーパー、果樹園などでもオリジナルのタレを調理販売している。
 飯田市立中央図書館に勤務する樋本有希さん(38)もこのご当地タレを愛用している。
「飯田周辺で売っているほとんどのものにりんごや地産の野菜が入っていて、その甘みがタレをいっそうまろやかにしてくれます。辛いものが好きな方は唐辛子やコチュジャンを足すとも聞きますが、そういった『マイだれ』の存在も飯田市民あるあるかもしれません」

丸三精肉店特製のタレは「ラムに合うように少し辛めです」と店主の原さん

日常と特別のちょうど中間

飯田市の家庭には欠かせないホットプレート。「行きつけの精肉店」も「飯田あるある」だ

「マイだれ、ありますよ。といってもうちの場合は地元のタレも大手食品会社のものもなんでも使いますが」
 そう話すのは、飯田出身で現在は隣接する高森町で「鈴木りんごカンパニー」の代表を務める鈴木健悟さん(38)。鈴木家のおうち焼肉では、タレを作るのは3人の子供たちの役割だ。
 まず、長男の与一(よいち)くん(13)と次男の結次(ゆうじ)くん(10)が協力し、たまねぎと自社農園産「紅玉」を皮ごと、それぞれすり下ろす。
 そこに市販のタレ、チューブニンニク、チューブ生姜、キムチの素、白ごま、醤油、行きつけの精肉店「肉のウチムラ」(高森町上市田)特製の粉を加えて混ぜるが、その過程であまり辛くなりすぎないように味のチェックと調整をするのは長女の麻心(まみ)ちゃん(8)の仕事だ。

南信州の名産であるりんごは、ほとんどの家庭でタレにも投入される

3兄妹、与一くんは「豚ならどこでも好き」、結次くんは「少なめのタレでラムを食べると味がよく分かる」、麻心ちゃんは「マトンがいちばんこのタレに合うと思う」という。それぞれ子供とは思えない舌の肥えたコメントからも、高い焼肉文化の片鱗をのぞかせる。
 また、どの家庭もりんごやニンニクを入れることはほぼ共通しているが、そこに豆板醤やコーラなどを加えることで個性が出るらしい。レシピはおそらく家庭の数だけある、健悟さんはそう言う。
「僕らも小さい頃からタレを作る手伝いをしてましたし、若い頃はよく出前焼肉も使いました。あくまで僕の感覚ですけれど、焼肉って日常と特別のちょうど間くらいの食べ物なんですよね」
 妻が飯田市内の病院で働く共働きの鈴木家では「楽だから」という理由で焼肉が夕食になることも多いという。確かにホットプレートを出して肉と野菜を並べるだけで食事となるシンプルな側面も焼肉の大きな魅力だ。

祖父母から孫まで集まる機会を生むのも焼肉の魅力

その一方で、ちょっとしたお祝いや慰労、節目や区切りなどの際の食事としても焼肉は選ばれる。
 例えばこの日は、夏から秋にかけて農園を手伝ってくれた義理の父の慰労会という位置づけだった。
「子供の1学期が終わったから。りんごの収穫が始まるから英気を養うために。それくらい日常に添ったものです。もうちょっと大きなお祝い、なにか大きな賞を受賞したとかであれば、すしを食べに行ったりもしますので、ニュアンスが難しいんですけれど」

飯田市民の一番人気はマトンとラム。東京の焼肉店ではあまり見かけないという

簡素な日常食でもあり、みんなにとっておいしいご馳走でもある。ある意味では矛盾を含んだ、二面性こそが飯田焼肉の神髄かもしれない。

1129(イイダヤキニク)の日、制定

しかし2020年、新型コロナウイルスの蔓延により、この焼肉シティも苦境に立たされている。
 焼肉店の業績は軒並みダウンし、精肉店こそステイホームや自粛の影響で売り上げを維持しているが、前述の出前焼肉を扱う店は予約がほとんど入らない状態が続く。
 それでも、市内銀座の「和牛一頭買い ふえ門」は国土交通省が発令した道路占用許可基準の緩和措置を活用して、店舗前のアーケードの一部で「星空営業」を始めた。11月で終了したが、利用者からは「ビアホールみたいで気持ちよかった。できれば来年は夏からやってほしい」と好評を博した。

同じく市内鼎下山の「秋葉」では敷地内に焼肉小屋を特設し、密を避けるための営業を試みた。こちらも利用者からは「どこでも焼肉はできるという、焼肉都市としての矜持のような空間だ」と、肯定的な声が上がっている。
 飯田市役所観光課の小島滉平さん(23)は、「飯田焼肉としての可能性を広げることも大切」と語る。
「市として飲食店などの支援をしながら、観光課では『飯田焼肉ミートクーポン』を発行するなど各種の方策を実施しているところです。感染防止を考えながらさらに飯田焼肉を発展させるためのアイデアを焼肉店さんや精肉店さん、民間の方々と共に出していきたい」
 また、飯田は2027年に開通予定(品川―名古屋間)のリニア中央新幹線の長野県駅(仮称)の建設予定地だ。リニア開業を旗印に、焼肉都市としての「野望」を市役所IIDAブランド推進課の池田剛史さんが解説してくれた。
「同じ焼肉都市の北見市とも連携して『焼肉食文化のまち連合』を組み、キャンペーンなどを考えています。お互い切磋琢磨しながら地域色豊かな焼肉が広がりを持てるようなものにしたいです」
 その一つが、「飯田焼肉の日」の申請だ。

飯田下伊那食肉組合と「飯田の辛みそ」で知られるマルマン社がこの秋、日本記念日協会に11月29日を「飯(11)田焼肉(29)の日」として共同申請し、認定された。独自の焼肉文化を地域内外に発信することが狙いで、新サービスや新商品などを展開する予定だ。
 マルマンの中田泰雄取締役(43)は、焼肉を軸にした都市づくりを掲げる。

「畜産や野菜の生産者さん、小売店や飲食店はもちろん、酒屋さんや酒造さん、鉄板を作る鉄工所などもそうですし、全国から飯田焼肉を食べに来てもらうための観光誘致も必要になってきます。それに雇用や経済が伴ってくれる。焼肉というものに引っ張られて、いろんな産業が発展していくのが理想です」 
 記念日に認定され初めて迎えた11月29日、まだまだ新型コロナウイルスの収束の気配はないが、店舗や家庭、飯田市内のいたるところで香ばしい煙がたちのぼっていたことだろう。ブームでなくて日常、贅沢ではなく文化。暮らしに即して愛されている飯田焼肉の進撃はまだまだ続いてゆく。