「米軍基地は沖縄の特産品」。沖縄の米軍基地をそう言って笑い飛ばすのが、沖縄在住の芸人・小波津正光だ。お笑いイベント「お笑い米軍基地」を主催する。なぜ米軍基地を笑うのか、笑い飛ばせるのか。小波津に取材した。(ライター:中村計/撮影:西野嘉憲/Yahoo!ニュース 特集編集部、文中敬称略)
沖縄の特産品「米軍基地」
「今回、みなさまに提供する商品は、沖縄の、アメリカ軍、普天間基地でーす!」
テレビショッピングの販売員に扮した芸人がそう叫ぶと、女性アシスタントを演じる芸人がこう応じる。
「基地再編で、話題の商品じゃないですか!」
客席がどっと沸く。
「これまでは日本にある米軍基地のほとんどを沖縄が独り占めしていたので、今回特別に本土のみなさまに分けてあげようと思いましてね!」
「さすが社長ーっ!」
沖縄の特産品を本土に届けるという設定の通販番組のコントの出だしである。
演じるのは沖縄を拠点とする芸能事務所、演芸集団FECの劇団員たちだ。2005年から「基地を笑え! お笑い米軍基地」というライブを毎年、県内数カ所で開催している。
地元では「まーちゃん」の愛称で親しまれ、企画・脚本・演出を手掛ける小波津正光(こはつ・まさみつ、46歳)が言う。
「基地を本当になくしたいのなら、基地ってこんなにいいもんなんですよ、って言うのが正解。危ないからよそへ持っていけでは、そんなもんいらない、ってなる」
コントは「社長、高いんでしょ」の言葉で佳境に入る。社長役は、今回は特別に「たまに墜落して炎上する『CH 53D』大型輸送ヘリ」と「海兵隊6000人」もつけちゃいますよと煽り、「お値段、たったの8000億円!」と声を張る。最後は「送料は別途、国民が負担します」とオチがつく。
強烈な皮肉である。だが、それでいて、心を鳥の羽根でくすぐられるような気分にもなる。
小波津が言う。
「沖縄の基地問題で映し出されるのはいつも怒りの部分。握りこぶしだったり、座り込みだったり。でも、それだけでは理解されないと思う。『なんで沖縄の人、いつも怒ってるの?』って。逆のやり方があってもいい」
本土での「沖縄ブーム」にいらだち
第二次ベビーブームの真っ只中、1974年に沖縄県那覇市で生まれた小波津は、沖縄芸人の笑いをたっぷりと浴びて育った。物心ついた頃からお笑い芸人に憧れを抱くようになり、1993年、高校卒業後にFECに入団した。そして、お笑いコンビ「ぽってかすー」を結成する。沖縄ではそこそこのポジションを確立しつつあったが、2000年3月、「このままでは井の中の蛙だ」と上京を決意。その頃、本土では空前の沖縄ブームが巻き起ころうとしていた。同年7月に沖縄サミットが開催され、翌年4月に沖縄を舞台にしたNHKの朝ドラ『ちゅらさん』がスタート。また、沖縄出身の漫才コンビ「ガレッジセール」が大ブレーク中だった。2人は沖縄の特産品と引っ掛けた「ファイナルシーサー?」という決めぜりふや「ゴーヤーマン」というキャラクターで人気を博した。
小波津はそんな状況にいらだちを覚えていたという。
「『ちゅらさん』の登場人物は『なんとかさー』みたいな沖縄風のしゃべり方をしていましたが、あんなしゃべり方をする人は沖縄にいない。ガレッジさんは沖縄のいいところをアピールしたかったんだと思いますが、沖縄の特産品はシーサーやゴーヤーだけじゃない。僕は戦争の爪痕や基地も、ある意味で、沖縄の特産品だと思っていましたから」
小波津は沖縄の「負の特産品」を笑いに変換した。
〈沖縄では雪は降らないけど、パラシュートが降ってきます〉
〈沖縄の道路は飛び出し注意じゃなくて、流れ弾注意って書かれてます〉
しかし、東京には沖縄に基地があることすら知らない客も多く、ネタが空回りすることも珍しくなかった。
米軍ヘリ墜落事故が変えた
そんなある日、小波津の芸人人生を決定づける事件が起きた。2004年8月13日、訓練中の米軍大型輸送ヘリ「CH53D」機が沖縄国際大に墜落したのだ。死傷者こそ出なかったものの乗員が負傷し、あわや大惨事となるところだった。その日は小波津の30歳の誕生日でもあった。
小波津はその事件を沖縄の知人からの電話で知った。続報を得ようとニュース番組をはしごしたが、ヘリ墜落を報じる番組はほとんどなかった。翌日の朝刊もヘリ墜落事故は「その他のニュース」扱いだった。
「東京の新聞の1面は前日に開幕したアテネ五輪と、読売巨人軍のオーナーを電撃辞任した渡辺恒雄のニュースばっかり。ヘリ墜落よりもプロ野球のオーナーが辞めた話のほうが重要なのかと愕然としたし、感じたことのない怒りを覚えましたね」
翌日、定期購読していた『琉球新報』が1日遅れでアパートに届いた。同紙の1面には〈米軍ヘリ 沖国大に墜落〉の見出しとともにヘリが炎上し黒煙が上がる様子の写真がでかでかと掲載されていた。
芸人の直感で、これはネタになると思った。小波津は2日後に控えていた漫才ライブのネタを直前に変更した。
「相棒に、俺が沖縄の新聞を持って、バーッとしゃべるから、それに適当に突っ込んでくれ、って頼みました。当日、相棒が必死になって止めるのを振り切って、客席に下りて、新聞を読めって突きつけたんです。『アテネで聖火が燃え上がってた頃、沖縄ではヘリコプターが燃え上がってたばーよ!』って。ドッカンドッカン受けましたね。めちゃくちゃだけど、本土の人には受けるだろうなという計算がありました。ヘリが燃えているローカル紙の1面を見せられても、あまりにもかけ離れているのでファンタジーじゃないですか。そのギャップで笑ってくれるだろうなと思ったんです。その計算と、『わじわじ』って、沖縄の言葉で怒りという意味なんですけど、二つの思いがぐちゃぐちゃに混ざっていました。あの日の舞台で何か一つ吹っ切れました。方言であっても感情をさらけ出せばそれは客席に伝わる。それから沖縄の新聞ネタを持ち出して、東京の人を説教するというスタイルができあがっていったんです」
軸足が定まったことで新たな着想を得た。
「沖縄で米軍基地だけをテーマにしたお笑いの舞台ができないだろうか」
「お笑い米軍基地」始まる
沖縄出身で、東京での生活を経験した自分にしかできないお笑い。それが、その答えだった。小波津はこのお笑いイベントを実現するなら、古巣のFECしかないと思っていた。小波津は東京から社長の山城智二に「基地を笑え! お笑い米軍基地」の企画内容を熱く語った。しかし山城は「イメージが湧かない」と決断を保留。そこで、電話をした約2カ月後、11月に沖縄で予定されていたライブで小波津は米軍基地をテーマにしたコントを披露することにした。
そのとき考えたネタの中に「人の鎖」というコントがある。人の鎖とは、基地反対運動のうちの一つで、大勢で手をつなぎ基地を取り囲むパフォーマンスのことだ。
コント中では、人数が足りず、鎖が繋がりそうで繋がらない。それを何とかしようと喜劇が展開される。すると、最後、参加者の一人が用事があるのでもう帰ると言い出す。理由を聞くとこう答える。
「このあとね、嘉手納カーニバルに遊びにいく」
ここでどっと笑いが起きる。嘉手納カーニバル(アメリカフェスト)とは毎回、およそ5万人もの来場者を集める基地一般開放イベントのことだ。今年は日米同盟60周年を記念して、6年ぶりに開催される予定だったが、コロナの影響で中止になった。
「沖縄の人は『基地はんたーい!』って言いながら、基地内で働くことに憧れていたり、カーニバルを楽しみにしている。そういう状況が生活の中に染み込み過ぎてしまって、その矛盾を矛盾と思っていない。本土の人には理解しがたいかもしれないけど、それが僕ら。そこが面白さであり、悲しさでもある。沖縄を外から見たとき、これ、コメディーだなと思った。沖縄の人たちは、僕たちの舞台を見て初めて気づくんです。『そうそう、反対しながらお祭りは行くんだよな』って。自分たちを笑うことで、客観的になれるんです」
リアルな問題をちゃかしていいのか
このライブの反応を見た山城は「基地を笑え! お笑い米軍基地」の開催を快諾した。
初演はヘリ墜落事故の翌年、2005年の6月18日に開催された。会場は爆笑に包まれ、大成功に終わった。しかし当初は開催を心配する声も上がったという。
「お前たち、こんなリアルな問題をちゃかしていいのか、って。今よりも戦争を体験したオジー、オバーがたくさんいましたし、ヘリ墜落の衝撃もまだまだ強く残っているときでしたから。本当に笑えるのか、と。ただ、その頃、僕はまだ東京と沖縄を行ったり来たりしていたので、そうした声は僕までは届かなかった。なので僕は、やってしまえ、と。怒りでも、笑いでも、とにかく興味を持ってもらえれば成功だと思っていましたから」
しかしテーマがテーマなだけに摩擦が生じることもある。
「抗議運動をちゃかしたりするので、左の翼の人にも、右の翼の人にも怒られます。事務所に乗り込まれたこともあります。たまたま僕はいなかったんですけど。一時期、私服警官が客席に座っていたこともありました。今もそういうことはありますよ。去年、基地の辺野古移設の県民投票があったとき、投票を盛り上げようと、糸満の公民館で45分ぐらいの短い公演をやったことがあるんです。そうしたら近くに右の翼の事務所があって、僕らの公演時間に街宣車が来て『出ていけー!』って。そんな雰囲気の中でやったので盛り上がりましたね。最後のコントは『外のお客さん(街宣車のこと)にも聞かせてあげましょう!』って扉を全開にした。あの日のお客さんの熱気はすごかった。小さいライブでしたけど、僕の中では伝説のライブになりましたね」
大入り満員でも2000円にこだわる
沖縄ではわざわざ前売りチケットを購入してライブ等に出かける習慣がない。そのため集客が難しい。しかし、「お笑い米軍基地」のライブは毎年、1000人規模のホールでさえ大入り満員になる。人気があり、出演者数も優に10人を超えるが、前売り券は破格の2000円だ。そこには小波津なりの執着がある。
「最初は1500円で、2000円に上げるときも揉めたんです。事務所的には収入になるから、もっと上げたいらしいんですけど、お客さんに支持され続けるにはこれくらいがいい。本土の有名な芸人さんが来たら、4500円、5000円と取るライブもありますが、毎年行くかとなったら、絶対に行かないですもん。まあ、儲けるのが下手なのは、うちの事務所の伝統ですから。自慢でもなんでもないんですけど」
旗揚げ5年目くらいまでは県外でツアーを組むこともあった。しかし現在は、地元開催にこだわっている。
「沖縄に深く根を張りたいと思うようになったのは、一つは僕が沖縄が好きで、地元に支持されたいという思いが強いから。もう一つは、沖縄の人がどこで笑うかも含めて『お笑い米軍基地』だと思っているので。県外でやると、県外仕様にしないといけないし、これ笑っていいのかな、みたいな空気になってしまうことがある。テクニックとしてマスを相手にできるよう内容を変えることも大事だけど、それよりも閉鎖空間でしか表現できないことを磨いて、そこでお客さんと熱を共有したい。ネタ的に南の小さな島でやっているから許されている部分もあると思いますし。沖縄の人に、よくぞこれをネタにしてくれたと思って欲しいんです。いつでもどこでも見られるという時代性とは逆行していますけど、小さい場所でも根を深く、広く張れば、それは本土や世界にもつながっていくはず」
沖縄お笑いの伝統を継ぐ
沖縄には戦後、「沖縄のチャップリン」と呼ばれた小那覇舞天(おなは・ぶーてん)や、照屋林助(てるや・りんすけ)といった伝説的な喜劇人を生んだ歴史がある。彼らは、戦争によって打ちひしがれた人々の家々を訪問し、「生き残った者たちが命のお祝いをしないでどうする」と言って、踊り、歌い、笑いを誘った。
沖縄の人たちは、生きるために笑ってきた。そういう意味では、小波津もその系譜に連なっている。
「沖縄のお笑いは昔から環境とか状況によってつくられてきたと思うんです。沖縄戦や基地に対する怒りや、もやもや。それらをずっと抱えてきている。なので、笑わなきゃ前に進めなかったんだと思います」
沖縄の米軍基地に対するスタンスは「反対」か「賛成」だけではない。「笑う」という選択肢もある。
中村計(なかむら・けい)
1973年、千葉県船橋市生まれ。同志社大学法学部政治学科卒。ノンフィクションライター。某スポーツ紙をわずか7カ月で退職し、独立。『甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実』(新潮社)で第18回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(集英社)で第39回講談社ノンフィクション賞を受賞。他に『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(集英社新書、ナイツ塙宣之著)の取材・構成も担当した。近著に『金足農業、燃ゆ』(文藝春秋)、『クワバカ クワガタを愛し過ぎちゃった男たち』(光文社新書)がある。好きな芸人は春風亭一之輔と笑い飯、趣味はキャンプとホットヨガ。