タイ料理を彩る、パクチーやパックブン(空心菜)といった「タイ野菜」。この栽培に特化した農園が茨城県にある。タイ人とラオス人の夫婦が、日本人とともに畑をつくっているのだ。3人は日本の土でタイのハーブや野菜を育て、夜になると都内のタイレストランへ自ら配送に向かう。昼夜を問わず働き続ける、彼らの営みを追った。(ジャーナリスト・室橋裕和/撮影・菊地健志/Yahoo!ニュース 特集編集部)
夜の東京を走る、移動スーパー
深夜12時過ぎ、静まり返った東京・新大久保の街。すでに明かりを落としたタイ料理店「ソムオー」の前に、つくばナンバーのワゴンが滑り込んでくる。
「サワディーカー」
タイ語で挨拶をしながら助手席から降りてきた女性は、ラオス出身のシーサアット・センインティサックさん(63)だ。
「今日はときわ台、大山、池袋と回って、それから新大久保。疲れたね」
そう言いながらも笑顔だ。ワゴンの後部ドアを開けると、さわやかな香りが道路にまで広がった。パクチーをはじめとして、パックブン(空心菜)、プリッキーヌー(唐辛子)、マクアヤーオ(長ナス)……タイのハーブと野菜が、みっしり詰め込まれている。どれもその日にに収穫したばかりで、みずみずしい。
「メー(お母さん)、今日はなにがおいしい?」
「ソムオー」の料理長、タイ人のカセムシット・ケムティーシンナシーさん(58)が、ワゴンをのぞき込む。パクチーやガパオ(ホーリーバジル)などを見定めては、ひとかかえもある大きなカゴふたつに次々と入れていき、どっさり買い込んだ。ワゴンは移動スーパーなのである。
「ここの品物はとにかく新鮮。それに香りがいいの。パクチーも唐辛子もね、普通のスーパーのものとはぜんぜん違うんだから」
カセムシットさんは、わがことのように自慢する。採れたてのタイ野菜をふんだんに使った料理を供する「ソムオー」には、日本人だけでなくタイ人やベトナム人も足を運ぶ。多国籍なレストランが並ぶ新大久保でも、とりわけ人気の店だ。
「もう10年くらいのつきあいかね」
シーサアットさんが言う。移動スーパーを始めた当初から、「ソムオー」は巡回先のひとつだ。いまでは近隣に住むタイ人にも知られるようになり、ワゴンが現れる月曜深夜には買い物用の大きなバッグを持ち「ソムオー」に集まってくる。ワゴンのまわりで新鮮な野菜を手に、ひとしきりタイ語の雑談に花が咲く。夜の新大久保の街角が、ひととき東南アジアの空気をまとう。
ワゴンの行く先々で、こんな光景が広がるのだ。北千住、浅草や上野、錦糸町……ワゴンはタイ人がたくさん住む街を走り、コミュニティーの場となっているレストランの店頭に止まって、故郷の味を販売する。それは深夜の、タイ人たちの社交場だ。
タイ人だけではない。うわさを聞きつけた日本人もやってくる。タイレストランを営む人にタイ料理ファン、調理が趣味の人もいる。近ごろでは、ネパール人やバングラデシュ人の食材店からも声がかかるという。彼らは、タイかぼちゃの葉や茎をたくさん買っていくそうだ。
「レストランよりたくさん買い込むタイ人もいるくらいですよ」
そう話すのはワゴンを運転する齋藤禎貴さん(45)。シーサアットさんを「ママ」と慕い、ともに働く。ふたりは新大久保を出たら、さらに赤羽などを回るという。「農園」のある茨城県坂東市に帰るのは、今日も朝方になりそうだ。
茨城の土に、タイの野菜とハーブが根づく
利根川の東岸、ねぎやキャベツの畑や、田んぼの広がる坂東市の一角に、広大なパクチー畑がある。そばにはタクライ(レモングラス)やホラパー(スイートバジル)、タイ唐辛子の畑も広がり、緑があざやかだ。それになんといっても、清涼なハーブの香りが心地よい。
「いまはタイのインゲンがよく採れるよ。そのまま食べられるから、ほら」
30センチ以上はありそうな、タイ独特のインゲンをもいで差し出してくれるのは、「パパ」サタポン・スカノンチャナパさん(64)。シーサアットさんと夫婦で、およそ10年、この農園を営んできた。いまは齋藤さんも加わり、自宅のまわりに点在する八つの畑の面倒を見ている。
「パクチーはね、むしろ暑すぎるとだめなんだ。タイでも北部の山の、涼しいところのほうがよくできる。坂東でもきれいに育つよ。根っこも太くて立派でね」
そうパパは笑う。日本のスーパーでもパクチーを見かけるようになったが、モノが違う。夫妻の営む「サタポン農園」のパクチーは葉が柔らかく、香りにパンチがある。それに根っこごと売っている。タイやラオスではパクチーの根っこはスープのだしや調味料としても使うからだ。根っこまで含めてパクチーなのである。
唐辛子も、タイ産と、日本で多く流通している中国産、ベトナム産とではだいぶ違うらしい。辛さも香りも、タイ料理にはタイの唐辛子がなにより合う。こちらも葉ごと売っている。葉は炒め物やゲーン(汁もの)に使う。齋藤さんは言う。
「唐辛子は一瞬でも霜が降りると枯れてしまうので、11月頃までですね。それでもひとシーズンで10トンほどは収穫できます」
タイ唐辛子の生産では、日本有数の規模なのだという。
パパとママ、それに齋藤さんはひとつ屋根の下で暮らし、農園で汗を流す。夜になると収穫物をワゴンに積み込んで、交代で都内へと配送に向かう。そんな毎日を送っている。
タイ人とラオス人に、弟子入り志願
農園を運営しているのはあくまでパパとママ。齋藤さんはその仕事を手伝い、野菜を卸してもらい、自らの会社を通して日本の大手小売や加工会社などに販売する。いわばビジネスパートナーだ。
「ずっと食の業界で働いてきたんですが、前職が調味料を中心としたエスニック食材の輸入販売業だったんです。顧客からハーブも扱えないかと相談があって、日本各地の農園に当たっていたのですが、その中でパパとママに出会いました」
坂東を訪れた齋藤さんは、パパに「うちの野菜を使っている店があるんだ」と近くのタイレストランに連れていかれ、おいしさに驚いた。一面の畑を見て、その香りに心が沸き立った。
最初は取引相手だったが、次第に夫婦の優しさやおおらかさに惹かれ、タイの野菜に惚れ込むうちに「どうしても両足どっぷり浸かって畑をやってみたくなって」思い切って独立する。
齋藤さんはふたりに頼み込んで、弟子入りのような形で自宅に転がり込んだ。家族のいる神奈川県藤沢市に帰るのは週末だけ。ひたすらサタポン農園で土と格闘し、夜は配送に回る。野菜の販売先は、夫婦がタイレストランと一般のタイ人、齋藤さんが日本の企業を担当する。なんともふしぎに調和した共生関係なのだ。
インドシナ難民だったママ
ママが日本に来たのは1985年のことだ。難民だった。75年の革命政府樹立以降、共産化が進んだラオスからは大勢の人々が海外へ逃れたが、ママもそのひとり。タイ経由で日本にやってきた。
「ラオスでも日本のドラマを見ててね。やさしそうな国だなって思ってたの。それに同じアジアで、顔も変わらないし、安心感があるでしょう」
ベトナム戦争が終結した1975年前後、インドシナ3国(ベトナム、ラオス、カンボジア)の体制に馴染めず、国外に脱出した人々がいた。彼らをインドシナ難民と呼ぶ。ママもそのひとりだ。
日本は難民受け入れに厳しい国だった。だが内外からの要望の高まりを背景に、1978年にまずベトナム難民を、続いてラオス難民、カンボジア難民と受け入れていく。2005年に難民受け入れ事業が終了するまでに、1万1319人のインドシナ難民がやってきた。日本政府に認められた難民たちは、日本に安定的に在留でき、社会保障制度なども日本国民と同一の待遇が得られる。
来日したママは、神奈川県大和市の「難民定住促進センター」に入所する。ここで日本語や日本の生活習慣を学んだ。さらに定住や就労の支援もしてくれたのだが、職員からこう言われた。
「茨城はいいとこだよ、田舎で、カエルの声が聞こえてきてね。お米もたくさんつくっているし、静かで。ラオスと似ているかも」
実際に来てみて、確かにそうかもしれないと思った。こうしてママは、茨城県つくば市の老人ホームで働きはじめた。
バケツ一個から始まったサタポン農園
一方、パパは出稼ぎ労働者として、92年にタイから日本にやってきた。都内に住み、工事現場で働く日々を過ごしていたが、あるとき千葉県野田市にあるスナックに出かけた。よくタイ人が集まる店だった。そこで働いていた女性が、ママの姪っ子だったのだ。ママを追うようにラオスから日本にやってきたのだという。
姪っ子を通じて、ふたりは知り合い、異国で国際結婚した。
それからふたりで暮らすことになったわけだが、パパには結婚前からちょっとした楽しみがあった。タイ野菜の栽培だ。日本人に畑を借りるなど、「玄人はだし」で取り組む同僚のタイ人を手伝っていた。
採れたものは友人に分ける程度だったが、次第に在日タイ人コミュニティーの中で評判になっていく。日本でもタイの野菜は手に入りはしたが、冷凍の輸入ものが中心で、どうしても鮮度が落ちる。だから採れたてなら、お金を払ってでもたくさん買いたいという人が少しずつ増えていったのだ。
そんな声に応えるように、パパは仕事が終わった夜、ときどきワゴンに野菜を積んで配送に向かうようになる。すると口コミでさらに注文が増える。はじめは個人だけだったが、レストランからも引き合いが出てきた。折からのエスニックブームもあり、タイレストランはどんどん増えている。もしかしたら、これはいけるかもしれない……。
思い切って仕事をやめ、パパは農園を開くことに決めた。2010年だった。
まずは場所だろうと、ママの職場があるつくばや、野田などタイ人コミュニティーの多い千葉に近いところで探したところ、手ごろな空き家と畑が見つかった。それが坂東だったのだ。
「はじめはバケツ一個しかなかったよ」
とパパは笑うが、少しずつ農機具をそろえ、軽トラやトラクターを買い、本格的に日本での農業に取り組むようになる。
3カ国が同居するサタポン家のランチ
「私ははじめ、イヤだったんだよ」
「ママ、畑は好きじゃないし、配送で人前に出るの恥ずかしいとか言っててね」
夫妻のやりとりは、タイ語と日本語がちゃんぽんだ。ときどき日本語だけで言いあっていたりもする。日本での暮らしの長さが偲ばれる。
「でもその頃、畑はもう忙しくなってて、パパはタイ人をひとり雇ってたの。だったら私が働けば、よけいなお金はかからないでしょ。そう思って」
こうしてママも仕事をやめた。ふたりで畑を耕し、夜は配送に回る日々が始まった。
「だけど、土も水も違うでしょう。なかなかタイの種が育たなくてね。芽が出ない、うまく成長しない、虫にやられる……」
それでも、実家が稲作農家だったパパは、子供のころから米作りを手伝っていた経験を生かし、試行錯誤を重ねた。農薬の注意書きのような専門的な日本語がわからないこともあったが、業者にも相談し、だんだんと収穫が安定していった。
そんな奮闘ぶりを、近所の日本人もよく見ていたのだ。ビニールハウスや畑を格安で貸してくれるようになる。高齢化で後継者がおらず、畑を遊ばせておくよりは、という判断もあったようだが、加えて地域の人々と気さくに言葉を交わし、溶け込んでいったふたりの人柄あってのことだろう。
いまでは近所の農家のおばあちゃんがレモングラスの前で足を止め、
「これはなに? 珍しいね。どんな野菜?」
なんて親しげに声をかける。ママが「近くでお葬式だって。行かなくちゃね」と呟いていたりする。
毎年、東京・代々木公園で行われるタイ・フェスティバルやラオス・フェスティバルにも出店するようになった(2020年はコロナ禍のため延期)。タイ料理はすっかり外食の一分野に定着し、パクチーブームも続く。大手スーパーがパクチーサラダを売り出したり、コンビニでもパクチー入りの総菜を販売し始めたりしたことに加え、今年は長梅雨で全国的に不作だ。市場にパクチーが足りず、サタポン農園にも問い合わせがどんどん入ってくる。パパとママの忙しさは増すばかりだ。
作物の収穫やパッキングは、近くに住むタイ人も手伝う。多くが日本人と結婚した女性で、ふたりのことを「ポー、メー(お父さん、お母さん)」と呼び、ともに土にまみれる。そんな輪に、昨年からは齋藤さんも加わった。
サタポン農園のランチはいつも賑やかだ。調理好きのパパかママどちらかが腕を振るい、収穫物をふんだんに使って、タイ料理をいくつもつくりあげる。ひととき作業の手を止めて、みんなでひとつのテーブルを囲む。
今日のメニューはパパ力作のクイッティアオ・ムートゥン(豚肉の煮込みと米麺)、それに農園のガパオと牛肉の炒め物、採れたての生野菜も並ぶ。
「ごはんまだでしょ、食べていきなさい」
ママは農園に仕入れに来た日本人の業者にも声をかけ、ともに舌鼓を打つ。さきほどまで黙々と長インゲンやナスを収穫していた日本人の男性とタイ人の女性も作業着姿でランチに加わる。ふたりは夫婦で農園を手伝っているのだという。手がけたナスを生のままナムプリック(唐辛子とニンニクベースのタイ風ディップ)につけて食べている。タイ語と日本語の笑い声が混じりあう。
ここではタイ人とラオス人と日本人が、同じ土に依って生きている。
国を超えた師弟であり、親子
「あと4、5年かなって思うんだよね」
ママがちょっと寂しそうに言う。昼も夜もがむしゃらに働いてきたが、もう60歳を過ぎて、疲れもたまるようになった。ひざが少し痛い。とくに深夜の配送はきつい。日中の畑仕事を終えてから、さらに都内へと向かうのだ。ほとんど寝る間もない。それでも、深夜の街でワゴンを待っているタイ人たちを見ると、やっぱり嬉しい。
「支えてくれる人たちがいるから、がんばってこられたよね」
まだ働けるけれど、と言うふたりだが、この先は齋藤さんに任せることも考えている。齋藤さんもその覚悟だ。しかしこの話になると、優しげだったパパが、一転して厳しい師の口調になる。
「まだまだ齋藤さんはなにもできない。とくに畑のほうはね。教えなくちゃならないことがたくさんある」
ママも続く。
「畑だけじゃないの。配送、注文、経理、なんでもやらなくちゃならないでしょう。ひとりじゃ絶対にムリ。家族の助けがないとね」
甘い仕事ではない。それでも、もし齋藤さんが本気なら「後継ぎ」になってほしい。そうすれば、都内のあちこちでサタポン農園の野菜を待つ人たちも安心だろう。そんなことを頭の片隅に置きながらも、3人は今日も畑仕事をして、深夜の配送に回り、本当の親子のように生きている。
日本で半生を過ごし、苦労してきたタイ人とラオス人は、日本人にバトンを渡そうとしている。
室橋裕和(むろはし・ひろかず)
1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。帰国後はアジア専門の記者・編集者として活動。取材テーマは「アジアに生きる日本人、日本に生きるアジア人」。現在は日本最大の多国籍タウン、新大久保に暮らす。おもな著書は『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)、『バンコクドリーム 「Gダイアリー」編集部青春記』(イースト・プレス)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書、共編著)など。