「よく胸を触られるんです。(職場の上司には)適当に流しておいて、と言われて……」。25歳の女性ケアワーカーはそう打ち明けた。高齢者から性的な嫌がらせを受けたり、暴力的な行為をされたり。そんな「介護ハラスメント」の被害は、特殊なものではなさそうだ。UAゼンセン日本介護クラフトユニオンの調査によると、介護従事者の実に74.2%が何らかのハラスメントを受けていたことが明らかになっている。介護従事者の労働環境は厳しい。人手も足りない。そこに加わるハラスメント。その「実態となぜ」を追った。(文:板垣聡旨/Yahoo!ニュース 特集編集部)
胸を触ってくるおじいちゃん
栃木県のターミナル駅。その近くのイタリアン・カフェで、古田菜摘さん(25)=仮名=に会った。自宅から車で15分の事業所で働いている。手取りは月額16万円ほどだという。
栃木県内の大学を卒業し、進路に「介護」を選んだ。取材の日は国家試験「介護福祉士」の筆記試験の当日。実務経験が条件を満たし、ようやく受験資格を手に入れた。
「最初は警察官になりたかったけど、試験がダメでした。でも、自分の根本には『人の役に立ちたい』という思いがある。それに、おじいちゃん、おばあちゃんと話すのがもともと好きだったし」
古田さんが勤める事業所は高齢者にデイサービスを提供しており、1日に約30人の利用者がやってくる。
「この業界へ進んだことに後悔はありません。けど、最初のほうは『まじかよ』と思ったよね。今もたまにされるけど、慣れました。いやだけど」
古田さんは2017年春に入社。1カ月の事前研修を終え、現場へ出た。1カ月もしないうちに、70代の男性利用者に胸を触られたという。
「えっ、なんでとしか、感じなかった。ショックというより、びっくりして。こういうことが介護現場でもあることは、聞いたことがあったけど、自分が受けるなんて考えてなかったから……。まじかよ、やっぱりセクハラあるんだ、って」
この男性利用者は、週2回の頻度で事業所を利用しており、トイレに行くたびに体を触られたという。
40代の女性上司に相談すると、「あの人はこんな感じだから、気を付けておいて。適当に流して」と言われた。30代前半の男性センター長にも相談したが、同じような返答があっただけで、何の対応もしてくれない。そればかりか、そのセンター長は古田さんを「フルチン! フルチン!」と下ネタを連想させるあだ名で呼ぶこともあった。
古田さんは言う。
「センター長は悪気がなかったとは思う。職場の人間関係などの相談には親身に乗ってくれるんだけど、セクハラのことには、親身ではない感じでした。私のあだ名自体がセクハラみたいなもん。いやだったなあ」
その後、センター長は交代し、あだ名は使われなくなった。古田さんの経験も積み重なり、利用者のセクハラ行為もあしらうことができるようになった。それでも、あの利用者からのセクハラは、今も続いているという。
「今はね、とにかく胸を触ってくる手を避けるよ。そうするしかない。スッとかわすんだ」
抱きついてくるおばあちゃん 被害は男性職員にも
古田さんのような声は、実は、いくらでも聞くことができる。被害を受けているのは、女性だけではなかった。
東京・渋谷の特別養護老人ホームでアルバイトとして働く篠田海斗さん(26)=仮名=に会った。表参道にも近いカフェ。コートも要らない暖かな夜だった。
「80代の女性の利用者さんと個室で2人きりになった時に、よく抱きつかれました。月に数回かな。朝の着替え介助が終わって個室から出るときに、抱きついてきたり……」
別の80代半ばの女性利用者からは、腕を噛まれたり、爪を立てて腕をつかまれたりしていたという。篠田さんによると、その女性は些細なことで怒った。認知症とあって本人にも止められない行為なのかもしれない。篠田さんは、頭でそう理解していても、体と心が傷ついた。女性利用者は何か気にさわることがあれば、立ち上がり、爪を立てて腕につかみかかってきた。転ばないようにその体を支えようとすると、噛みついてきたという。
篠田さんがこうしたつらい状況に置かれていたのは、1年ほど前、今のアルバイト先とは別のグループホームでのことだ。
当時は夜8時に夜勤シフトに入り、翌朝10時まで勤務。1回の夜勤で2万5千円になった。ただ、利用者のハラスメントにどう対応すべきかについては、上司や管理職に尋ねても明確な答えは返ってこない。
「この業界、時給はいいんだけどね。かなりつらいよ、介護の仕事は。今の介護職場では抱きつきや噛みつきはないけど、利用者さんからの罵倒はしょっちゅう。大きくメンタルをやられることはこれまでなかったけど、精神的なものはお金では買えないですしね」
「やらせろ」「介護が下手くそ」と言われた日々
もう一人、ベテランの介護士も紹介しよう。介護歴30年目の藤原るかさん(64)。介護福祉士の資格を持ち、東京都内にある訪問介護の事業所で働いている。
利用者のセクハラと言葉の暴力。長い経験のなかで何度も悩んだという。
「『やらせろよ』とか、『昨日はやったのか?』とか。そんなふうに聞かれたことは、数え切れません。30代から40代の頃は、しばしば性的な目で見られていました。入浴介助で男性の陰部を洗っていると、ヘンなことをされそうになったり……。訪問介護で自宅に行くと、アダルトビデオがつけっ放しになっていたこともあります。70歳になっても80歳になっても、人間は人間。本能で動こうとするんでしょう」
「暴言も何度もありました。けれども、触られそうになるのと違って、言葉は防ぎきれない。『バカ』『おまえはクソ』などは当たり前です」
藤原さんによると、介護の現場に慣れていない新人をターゲットにして、ハラスメントを行う人もいる。「おまえは下手くそだ」との言葉を投げ付けたり、訪問介護で何もさせずに帰したり。新人に対するいじめである。
「この業界、人材不足が深刻です。高齢化はますます進むし、労働環境をきちんと整えないと大変なことになります」
74.2%が経験者 パワハラもセクハラも
東京・芝に本部を置く「UAゼンセン日本介護クラフトユニオン」を訪ねた。介護業界の労働組合であり、2018年6月には介護現場のハラスメント被害についての調査結果を公表している。それによると、74.2%の介護従事者が何らかのハラスメントを受けていた。そのうち、セクハラを受けた人は40.1%。パワハラは94.2%にもなった。
事務局長の染川朗さんは言う。
「ハラスメントの調査は4年に1回実施していますが、こんな高い数値はかつてありませんでした。『ハラスメント』というと、ふつうは職場の上司からのそれを想像するじゃないですか? この業界は違うんです。まずは、ご利用者やご家族からの嫌がらせ、暴言、暴力です。そもそも(職場の管理者はそれを問題視していないことが多く、われわれも)ハラスメントとして分類していいのかどうか、困惑していました」
調査報告書には介護ハラスメントに苦しむ現場の声がいくつも並ぶ。
「いきなり首から抱き寄せられ、顔に5、6回キスされた。腕をつかまれ、ベッドでもっとやろうと言われた」「クソババア、うるさいわ! ここのスタッフはクズばっかりや!とののしられた」……。
調査を担当した副事務局長の村上久美子さんは、こう言った。
「介護業界では、こうしたハラスメントを受けても『高齢者だから仕方ない。我慢したり、うまくあしらったりするのが当たり前』という雰囲気が、強く根付いています。自分たちも若手のときにハラスメントを受けて、あしらってきたという経験がある、つまり、『当たり前のことだから、ハラスメントといった大きな問題として、声をあげるまでもない』と多くの人が認識していると考えられる。そこが一番の課題ではないでしょうか」
調査結果からは、ある種の“諦め”も見える。セクハラやパワハラを受けたと回答した介護職員のうち上司などに相談した人の5割ほどが、「相談しても何も変わらなかった」と回答しているのだ。「相談しなかった」の回答も多い。その理由は「相談しても解決しないと思ったから」が最多である。
村上さんが言う。
「こうした状態が放置されると、介護の現場では、サービスの提供者にうっぷんがたまる。提供者が、利用者様に手をあげてしまうなど、高齢者虐待につながっていく恐れもあります」
「介護職員へのハラスメントは絶対認められない」厚労省
UAゼンセン日本介護クラフトユニオンの調査などを受け、厚労省も実態把握に乗り出した。
2019年3月に公表された調査結果(三菱総研に委託)によると、利用者の自宅を訪れる訪問介護では、5割の職員が何らかのハラスメントを受けていた。介護老人福祉施設では7割もの職員がハラスメントに悩まされていた。
そうした結果、厚労省はようやく「介護現場におけるハラスメント対策マニュアル」を作ったり、各都道府県に介護職員向けの相談窓口を設置する方針を示したりしている。マニュアルでは、遅まきながら「ハラスメントはいかなる場合でも認められるものではありません」と記した。
厚労省のマニュアルを受けて対応を迫られる都道府県だが、実効的な対応はほとんど進んでいない。東京都ですら、この1月に事業者向け研修会を初めて実施したばかり。そこでは厚労省マニュアルの解説などがなされたにすぎない。
都福祉保健局高齢社会対策部の石塚宣さんは言う。
「人材不足を少しでも解消するためにも、働きやすい環境の整備が必要。ハラスメントは職員個人で解決するものではありません。事業者として対応しなくてはいけない。そこが重要なんだと、事業者には理解してほしいと思います」
専門家「放置すると介護システムは崩壊します」
マニュアル作成や事業者に対する研修。こうしたメニューによって「介護ハラスメント」を防ぐことはできるのだろうか。
「事業者や管理職に向けて、ハラスメントの対処義務がありますよ、と話すだけではダメでしょう。問題は行政が思う以上に深刻です」
そう言い切る専門家もいる。淑徳大学総合福祉学部の結城康博教授。結城教授は、ケアマネジャーや介護福祉士の資格も持っている。
「介護ハラスメントでは、利用者が加害者。その対策もせずに放置している上司や事業者も加害者。双方が加害者なんです。『胸を触られるのは当たり前』と思っている施設長だっている。つまり、管理職と従業者の間で、ハラスメントに対する定義の違いが生まれている。そこを認識しなければなりません。何がハラスメントに当たるのか。彼らに向けて、そこを綿密に研修すべきです」
結城教授によると、他の業界と比べて、介護業界は“業界としての発達”が遅れている。急増する介護需要に対し、行政の制度や管理職の養成、運営組織が確立されていない。その隙間を縫うようにして、「介護ハラスメント」ははびこってきたという。
「2035年には全ての団塊世代が85歳を超え、その半分が介護を必要とする状態になります。そうしたなかでハラスメント問題に対処できないとなれば、業界から人はさらに離れていくでしょう」
2018年度の高齢白書によれば、75歳以上の後期高齢者のうち、要介護認定率は23.5%に達している。日本の高齢化はさらに進む。そのとき、人々の介護をいったい誰が担うのか。ハラスメントを行う利用者は今のように介護してもらえるのか。
「このままでいくと、介護保険料を払っていたのに介護を受けられないという事態も起こり得ます。介護の仕組みは崩壊するでしょう。管理職の意識を早急に変え、現場でのハラスメントの根絶に向かうべきです。まずはそこからです」
板垣聡旨(いたがき・そうし)
フリージャーナリスト。三重県生まれ。ミレニアル世代の社会問題に関心がある。