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幸田大地

ソ連兵に撃たれた「ダムダム弾」の痛みは今も――宝田明85歳、戦争体験とゴジラに込めた平和への願い

2019/08/23(金) 06:28 配信

オリジナル

昭和20年8月15日、宝田明(85)は11歳だった。当時の満州で終戦を迎えた。過酷な引き揚げ体験、戦後の窮乏生活、そして映画俳優に。映画『ゴジラ』で初の主演を務めてから65年。「ゴジラは人間のエゴの犠牲者」と語る。戦争、ゴジラ、戦後の日本。宝田が今だからこそ、今のうちに伝えたい令和へのメッセージとは。(ライター:石原壮一郎/撮影:幸田大地/Yahoo!ニュース 特集編集部)

(文中敬称略)

戦争に負けて体の中に風穴が開いた

東宝ニューフェイスの第6期生として、1953(昭和28)年にデビュー。端正なルックスとスケールが大きい演技で人気を集め、数多くの映画や舞台、テレビドラマに出演。85歳の今も幅広い活躍を続ける

宝田の原点には、苦しい戦争体験がある。日本統治下の朝鮮で生まれ、2歳からは満州のハルビンで育った。1945(昭和20)年8月15日に敗戦を迎え、暮らしも価値観もすべてがひっくり返った。「筋金入りの軍国少年」だった11歳の宝田は、あの日の「玉音放送」をどう受け止めたのか。

ハルビンの自宅で、両親といっしょにラジオの「玉音放送」を聞きました。父親と母親が、畳の上にへなへなとへたり込んだ姿をよく覚えています。両親に「これ、嘘でしょう? 日本は負けてないでしょう?」って何度も聞きましたね。自分はこれからどうすればいいのか。内臓をスポンとえぐり取られたような虚脱感というか、むなしい風穴が体の中に開いたような感覚でした。国家に洗脳されていた軍国少年でしたからね。

戦時中のハルビンでの暮らしは、とても楽しいものでした。広大な大地に沈む夕日の美しさ、美しい街並み、さまざまな国の人たちとの交流、毎日が刺激に満ちていたんです。ところが日本が負けた途端、今まで威張っていたのに真っ先に逃げ出した軍や警察、そして役所のお偉いさん、いきなり態度が変わった中国人の知り合い、右往左往するだけの近所の人たち。大人たちの嫌な姿をたくさん見せられました。

戦時中、ハルビンの白梅国民学校に通っていた同級生たちと、35年ほど前から繰り返し現地を訪れている。「自然発生的に『白梅会』というのができて、一時は20~30人で毎年行っていました。これは2002年の写真ですね。ぼくと抱き合っているのは同級生で、後ろは昔の校舎です。懐かしさもあるけど、いいことも悪いこともたくさん思い出して、行くたびに胸が苦しくなります」(写真提供・宝田企画)

ほどなくしてソ連軍が満州に侵攻。大量のソ連兵が戦車で乗り込んできた。略奪や女性への暴行も目にした。宝田も危うく命を落としそうになる。

ある日、ハルビンの駅から2分ほど離れた場所に止まっていた列車に、ソ連に抑留されていく日本の兵隊さんたちがたくさん乗せられていました。私は兄2人が兵隊に取られていたから、その中に兄貴がいるかもしれないと思って近づいていったんです。そしたら、兵隊さんたちが「来るな! 帰れ!」と叫びながら手を振っている。そのとき、警備のソ連兵にいきなり発砲されました。もののたとえじゃなくて、本当に右の腹に風穴が開いたんです。

家に帰ってきたら、腹が血だらけで熱かった。2、3日すると、どんどん化膿してくる。近所に住んでいた元軍医さんが、裁ちバサミを火であぶって、十字にザクザクッと切って弾丸を取り出してくれた。もちろん麻酔なんてありません。干したイカみたいに両手両足をベッドに縛りつけられて、「日本男児だろう。頑張れ」って言われたけど、日本男児でも痛いものは痛い。失神するかと思いました。きっと大声も上げていたでしょうね。

出てきたのは、国際条約で禁止されていたダムダム弾という鉛の弾です。取り出さなかったら、化膿と鉛の毒でお陀仏だったでしょう。今でも、天気が下り坂になると傷口がシクシク痛みます。それで、明日は雨だぞと教えてくれる。ソ連兵は私の腹に気象台の分室をつくってくれたんです。おかげで映画にせよ何にせよ、ソ連が作ったどんな芸術作品を見ても、憎しみが先に立っていっさい感動することはできません。作品に罪はないんですが、困ったものです。日本の作品に対して、同じ思いを抱く人もいるでしょうね。

あと何年かしたら陸軍幼年学校に入って、将来は関東軍の一員となり、日本の北の防塁たらん。それが戦時中の宝田少年の夢であり、その道しかないと強く信じていた。「理屈じゃなかったですね。今思うと怖いことです」

終戦の翌年、一家はハルビンから命からがら引き揚げて、父親の故郷である現在の新潟県村上市にたどり着く。ぼたん雪が降る寒い日、軒下を借りて魚を売っていた宝田と母親に、ボロボロの軍服を着てヒゲだらけの男性が「役場はどこですか?」と道を尋ねた。ハルビンで行方不明になって、泣く泣く置いて帰って来た3番目の兄の昌夫だった。

戦争では、たくさんつらい目に遭いました。最もつらかったのは三兄のことです。いよいよ日本に帰るということになったけど、兄がどこにいるかわからない。でも待っているわけにはいかない。仕方なく、家や途中の駅に「マサオへ 私たちは新潟県岩船郡村上町のどこそこにいる」と貼り紙をして先に帰りました。あとで聞いたら、すぐ近くのソ連兵の宿舎で働かされていたらしい。

「あっ、兄ちゃん」「お前、明か」と再会して、兄がまず言ったのが「なんで俺を置いていったんだ」でした。「そうじゃない。あちこちに貼り紙をして」と説明しても、「そんなの見るもんか」と納得しない。もぬけの殻の家を見て、14、15歳の少年だった兄はどんなに絶望したことか。農家で牛やロバの代わりに粉をひいて、わずかばかりの食べ物やお金をもらいながら何カ月もかかって南に進んで、また何カ月もかかってお金をためて密航船に乗って九州のどこかに上陸し、ひたすら歩いて新潟にたどり着いた。言うに言えない苦労があったことでしょう。(涙をぬぐいながら)すいません。この話になるとつい涙もろくなっちゃって。年のせいかな。

黒い石がついた指輪は、10年以上前に買ってずっとつけている。「オニキスという安い石なんですけど、これを見ると満州でソ連兵に掘らされた上質の石炭の色を思い出すんですよ。石炭をこっそり弁当箱に入れて持って帰ろうとして、さんざん殴られたこともありますね」

兄はつらい体験をしすぎたせいか、すっかり人間不信になっていて、両親の愛情を素直に受け入れることができず、すぐに家を飛び出してしまいました。その後、私が中学生のときに兄以外の家族は親戚を頼って東京に引っ越したんですが、高校生のときにこんなことがありました。近所の子どもに託して、兄が紙に包んだ100円札をくれたんです。鉛筆で「明、頑張れ。マサオより」とだけ書いてある。追いかけて探したけど、もう姿は見えない。引っ越したことを誰かから聞いて、時間をかけて探し当てたんでしょう。俳優になってからも、同じことがありました。まだ『ゴジラ』に出る前です。そのときは100円札が2枚入っていて、「明、よかったな。頑張れ」と書いてありました。ずっと見守ってくれていたんですよね。

しばらくたってから「結婚した」という連絡があって、両親に内緒で会ったことがあります。よかったなあと思いながら会いに行ったんですけど、顔を見ると、ミミズばれだらけになっている。「どうしたの?」って聞いたら、「タコ部屋って知ってるか」って。北海道の炭鉱で、毎日叩かれながら働いていたそうです。あまりに苦しいから何度も逃げ出したけど、見張りに捕まって連れ戻されて、またひどい目に遭って。63歳で亡くなりましたが、兄の人生って何だったんだろうと思うと……。この人の人生を誰が償ってくれるのか。戦争は死んだ人だけじゃなくて、生き残った人も苦しめる。同じような悲劇は、敵味方関係なくどこの国でもたくさんあったでしょう。それが戦争の残酷さです。

「ゴジラ」の試写を見て大泣きした

今年はゴジラ誕生65周年。6月の「ゴジラ&宝田明 65周年記念イベント」で、宝田は初代ゴジラと固い握手を交わしている

宝田の初主演映画は、1954(昭和29)年11月公開の『ゴジラ』だった。過酷な戦争体験を背負った宝田にとって、ゴジラとはどういう存在だったのか。

1954年の初夏でした。東宝撮影所の所長室に呼ばれて、台本を渡されたんです。真っ赤な表紙いっぱいに黒い文字で「ゴジラ」と書いてある。ゴリラとクジラを足して2で割ったんだって言われました。どういう姿をしているのか、ぜんぜん想像がつかない。怪獣と言われても、まだ「怪獣」という概念自体がありませんから。

水爆実験で目を覚ました巨大な生き物がゴジラで、放射能を帯びた炎を口から吐くようになったらしい。プロデューサーの田中友幸さんに「じゃあ、ゴジラも被曝者で、かわいそうな存在ですね」って言ったら、「宝田クン、そのとおりなんだよ。そいつが人類に仕返しをしに来る。これは被爆国である日本が作るべき映画なんだ」って力を込めておっしゃってましたね。マグロ漁船の第五福竜丸が、ビキニ環礁で水爆実験の放射能を浴びて犠牲者が出たのは、その年の春でした。日本は広島と長崎の原爆に続いて、水爆の被害も受けたわけです。

水爆実験で安住の地を追われたゴジラは、東京に上陸して街を破壊する。宝田の役は、ゴジラに立ち向かう調査隊の一員であるサルベージ会社の技師だった。

撮影の初日にスタジオ入りして「宝田明です。主役をやらせていただきます。よろしくお願いします!」と挨拶したら、どこからか「バカヤロー! 主役はゴジラだ」という叱責が聞こえてきました。確かに、そうですよね。

撮影が進むにつれて、ぼくはゴジラが気の毒になってきた。撮影所でスタッフ、キャストら関係者が見る「初号試写」のとき、一人でわんわん泣きました。無性に同情を禁じえなくてね。なぜ人間はこんなひどいことをするのか。静かに眠っていた生き物が、人間が作った核兵器で起こされて暴れる。そして最後は、オキシジェン・デストロイヤーで白骨と化して海の底に沈められてしまう。ゴジラは人間のエゴの犠牲者ですよ。そう思うと、あの鳴き声も哀れに感じます。

『ゴジラ』は、観客動員961万人という空前の大ヒットに。宝田も人気俳優となり、昭和30年代の日本を代表する二枚目スターとして、黒澤明作品の三船敏郎、社長シリーズや駅前シリーズの森繁久彌とともに、東宝の屋台骨を支えた。

戦後の東宝を支えてきたスターや監督らが、東京・世田谷区の東宝スタジオ前に集結。横断幕の「会」の字の上を持っているのが宝田。向かって右は司葉子。左は恩地日出夫監督。順に杉葉子、夏木陽介、星由里子(写真提供・宝田企画)

高校時代の宝田(前列中央)。高校に出入りしていた写真店の店主の強い勧めで、東宝のニューフェイスに応募。最初の審査で東宝の撮影所に行ったときは、緊張で動けなくなって長いあいだベンチにうずくまった。守衛さんに「キミ、受験に来たんじゃないの?」と声をかけられ、背中を押されて中に入ったという(写真提供・宝田企画)

ゴジラは“平和の伝道師”

宝田が特別な思い入れを持つ『ゴジラ』は、その後も多くの作品が作られた。今や世界中のファンに支持され、アメリカ版の映画やアニメ作品も作られている。初代『ゴジラ』には原爆や水爆への抗議が込められている。原水爆を使用した国でのゴジラ人気について、同期生としてはどういう気持ちなのか。

核兵器を廃絶させたい気持ちに国境はありませんから、アメリカでも人気者になったことは嬉しいし光栄なことだと思っています。最初の『ゴジラ』は日本で封切った2年後に、アメリカでも現地の配給業者が手を入れた再編集版が公開されたんですけど、あれはひどかった。アメリカ人俳優の出演シーンを付け加えて、核兵器に対する抗議のニュアンスはきれいにカットされて、単に怪獣が暴れる映画になっていたんです。東宝はどうしてそんなことを許したのかな。

15年ぐらい前に、アメリカの20大都市でオリジナル版の『ゴジラ』を封切ったんです。それを見て多くのアメリカ人が共感してくれました。評論家も絶賛でした。あのときは、やっと真意が伝わって「よかった」という気持ちが半分、俺たちは50年前にこんなにすごい映画を作ったんだぞ「ざまあみろ」という気持ちが半分でしたね。ここ5年ほど毎年、アメリカのゴジラのファンイベントに招かれて各地を回っています。何万人も集まって、ぼくを見て喜んでくれる。「この人、まだ生きてたのか」と驚かれているのかもしれません。

戦争でひどい目に遭った自分が、ひょんなことから俳優になり、核兵器が大きなモチーフになっている『ゴジラ』という映画に出た。そして65年経った今も、機会があるたびにこうして『ゴジラ』について語っている。何か運命的なものを感じますね。ゴジラという存在は、核兵器や戦争について考えるきっかけを与えてくれます。暴れまわって破壊しているイメージがあるかもしれませんが、彼はいわば“平和の伝道師”ですよ。

「日本は明治以来100年ぐらい、戦争に次ぐ戦争に明け暮れた時代でした。なぜそんなことをしてしまったのか。是は是、非は非として、私たちは歴史からたくさん学ばなければいけません」

自分たちには平和の大切さを訴える義務と責任がある

宝田は10年ほど前から、これまで「封印」していた戦争体験を積極的に語るようになった。

ファンにも、いろんな考え方の人がいる。だから俳優は、とくに政治的なことについては、自分の考えをはっきり言うべきじゃない。ずっとそう考えてきました。しかし、「今のうちに言っておかなければ」という思いがだんだん強くなってきたし、黙っていてはいけない状況になっているようにも見えます。この年になったら、遠慮したって仕方ありません。

あの時代に生まれ、運よく生き残った人間として、平和の大切さを訴える義務と責任があると思っています。戦争というのはじつに悲惨なんだ、苦しむのは無辜(むこ)の民なんだ、絶対にやってはいけないということは、口を酸っぱくして伝えていかなければいけない。

戦争を知っている人がどんどん減って、政治家にもほとんどいません。若い人は気軽に「死」という言葉を口にしますが、命の大切さをどこまでわかっているのか。私は「日本国憲法9条」は酒樽のタガのようなものだと思っています。酒樽のタガを緩めてしまったら、せっかくみんなががんばって熟成させてきた「平和を守ろう」という気持ちが、どんどん漏れ出してしまう。やがてタガが外れてしまったら、もう取り返しがつかない。私はそう考えています。

俳優としても、公開中のミュージカルコメディー映画『ダンスウィズミー』に出演。主人公を窮地に追い込むあやしい老催眠術師として、軽妙かつ洒脱な存在感を発揮している。

私に残された時間があとどのぐらいあるか、神様も意地悪だから教えてくれない。元気でやれるうちに、自分の思いを込めた映画を作りたいですね。老人と若者が、価値観の違いを乗り越えてやがてわかり合い、じいさんの言葉をきっかけに、生きる道が開けたような気持ちになれる。そんな内容をイメージしています。

でも、ぼくは欲張りですから、仮にそれを作ったとしても、気が済むということはないでしょう。なんせゴジラとともに生きてきたんですから、そう簡単にはくたばりませんよ。「宝田明の逆襲」「シン・宝田明」とか何とか言って、令和もしぶとく暴れまくります。

「『ダンスウィズミー』は、ミュージカルって楽しいな!と思ってもらえる映画です。長年、舞台でミュージカルの魅力を伝えてきた自分としては、多少なりともお役に立てて嬉しい限りですね」

宝田明(たからだ・あきら)
1934(昭和9)年、日本統治下の朝鮮に生まれる。満州のハルビンで幼少期を過ごし、終戦を迎える。終戦後、父の故郷である新潟県に引き揚げ、中学生のときに一家で東京都北区に転居。高校時代に東宝ニューフェイス第6期生に応募し、3500分の1の倍率をくぐり抜けて合格、俳優に。「ゴジラ」シリーズに計6本、「香港の夜」などの恋愛映画、「青い山脈」などの青春映画、平成に入ってからは「あげまん」「ミンボーの女」といった伊丹十三作品など、200本近くの映画に出演。1964(昭和39)年の「アニーよ銃をとれ」を皮切りにミュージカル俳優としても活躍し、日本にミュージカル文化を根づかせた。著書に『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』『銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生』など。

石原壮一郎(いしはら・そういちろう)
1963年、三重県生まれ。コラムニスト。月刊誌の編集者を経て、1993年に『大人養成講座』でデビュー。以来、『大人力検定』『大人の言葉の選び方』『大人の人間関係』など、大人をテーマにした著書多数。相手をリラックスさせつつ果敢に踏み込み、本音や魅力を引き出すインタビュー術にも定評あり。趣味は、スマホに頼らず知らない街を徘徊すること。

撮影:幸田大地
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝