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八尋伸

「戦争には勝者も敗者もない」――川に人骨……戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験

2019/08/14(水) 07:30 配信

オリジナル

「川で泳ぐと、たくさんの人の骨が沈んでいるんです。悲惨ですよ」。広島県で終戦を迎えた元衆議院議員の亀井静香氏(82)は少年時代の記憶を語る。終戦から74年。不戦の誓いを立てた日本では、戦争を知る人たちが次々と鬼籍に入り、戦争の記憶は風化しつつある。現職の国会議員もほとんどが戦後世代。保守系政治家としてこの国の戦後政治を見てきた亀井氏に、自身の戦争体験について聞いた。(山口一臣/Yahoo!ニュース 特集編集部)

ピカッと光った後に地響き

亀井静香氏は1936(昭和11)年に広島県山内北村(やまのうちきたそん、現・庄原市)で生まれた。県庁のある広島市から北東に80キロほど離れた山間の村。父は村の助役、4人きょうだいの末っ子で、姉2人、兄1人がいた。広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日午前8時15分。当時8歳だった亀井氏は今も鮮明に覚えている。

――その瞬間は、どこで何をしていたのですか?

国民学校3年のときだったかな。当時、小学校は校庭を全部イモ畑にして、児童はみんな朝からイモ畑の手入れに駆り出されていた。夏休みなのに。食料がなかったからね。それで朝8時過ぎ、私の通っていた川北小学校は少し高台にあるんですが、山並みの向こうから、ピカッと空に鮮烈な光が見えたんです。アレッと思ったらデーンと地響きがしてきた。

(撮影:八尋伸)

腹の底に響くような、とてつもない地響きだったよ。光った後にね。やがて、みなさんも知っているキノコ雲がサァーッと立ち上ってね。それは恐ろしいというよりも、いったい何が起きたんだろうという気持ちでした。あんな光景は初めて見た。

――当時、「原爆」という言葉は?

知りませんでしたよ。いったい何が起きたんだろう? どうしたんだろう? って。私が生まれた山内北村はまだ村なんだけど、西側に現在の三次市(みよしし)があった。そこが空襲でやられたのかなぁとか、みんなでうわさし合っていた。やがて広島に落とされたのは新型爆弾らしいというのが口づてに伝わってきました。それから数日後ですよ。あの光に遭った人たちが、わが村にも逃げて来たのは。服も着ずに肌があらわな人、全身焼けただれた人、髪の毛が荒れ果てたままの人、それはもう凄まじい光景でした。

米軍機が撮影したきのこ雲(撮影:米軍、提供:広島平和記念資料館)

亀井静香氏は保守派として知られた政治家だ。1960年に東京大学経済学部を卒業後、2年ほどのサラリーマン生活を経て、警察庁に入庁。1971年、極左事件に関する初代統括責任者となる。1977年に退官、2年後の衆議院議員選挙に出馬、初当選した。自民党では、運輸大臣、建設大臣など閣僚も経験したが、2005年、郵政民営化に反対して自民党を離党。2017年の衆院選に出馬せず政界を引退した。

亀井氏は、幼い頃の郷里での体験が忘れられないという。いちばん上の姉は、原爆投下後の広島市内に入ったことで被爆した。入市被爆である。俳人で俳誌「茜」を主宰していた出井知恵子(いずいちえこ)さんだ。1929年生まれで、1986年に白血病で亡くなっている。

救援活動で被爆した姉

――ご家族も被爆されたとのことですが。

後で分かったんだが、姉も被爆していたんです。いちばん上の姉が。当時、三次の高等女学校の寄宿舎に住んでいたのですが、すぐに広島市内に救援活動に向かったといいます。多くの女学生と一緒にね。三次から爆心地へ通い続けた。それで二次被爆に遭ってしまったのです。

原爆投下後の広島(写真:Getty Images)

――つまり、三次にとどまっていれば……。

広島から70キロは離れているからね。行かなければ被爆はなかったんです。でも、そんなこと分からんから、当時は。それで、白血球の状態がだんだん悪くなって、苦しんで、最後は亡くなった。三次におれば、助かったかもしれません。

――お姉さんは、俳句を詠む人だったそうですね。

ええ、小さな雑誌を主宰しておりました。亡くなったときに当時の広島市長が、姉が生まれた私の実家の庭に句碑を立ててくれてね。そこにはこんな句が刻まれています。

〈白血球 測る晩夏の渇きかな〉

白血球が増えたり減ったりしていたから、そういう恐怖感というようなものを姉は俳句にしたんだと思う。「渇きかな」というのはのどの渇きなんだろうね。姉のクラスメートの多くは同じ目に遭ってますよ。原爆訴訟(原爆被災者が、米国の原爆投下を国際法違反とし、戦争を起こした国を相手取り損害賠償請求を起こした訴訟)を起こした友人もいる。亡くなった人も少なくないですから……。

(撮影:八尋伸)

お国のために死ぬのが当たり前

亀井氏が生まれた1936年は、国内では二・二六事件が起き、世界ではナチス・ドイツが存在感を増していた時期だ。物心ついたときは、すでに戦争一色。亀井氏の家にも、通っていた学校にも天皇(昭和天皇)の写真が「御真影」として掲げられていたという。また、アメリカ兵がやって来たときに備えて、家には竹やりがあった。鬼ごっこや、かくれんぼと同じくらい、“戦争ごっこ”も日常だった。必然、幼かった亀井氏も愛国少年になったという。

――やはり、亀井さんも「天皇陛下、バンザイ」とか「鬼畜米英」とか?

そりゃそうよ。だって、それが時代の空気だから。朝、学校に行くと、いちばんに天皇陛下の御真影に挨拶をする。毎日だよ。それは、忠君愛国ですから。そうでないと「非国民」にされる。当時の天皇陛下は生き神様です。

昭和天皇(写真:近現代PL/アフロ)

――小学生でも、ですか?

もちろん。いまの人からすればおかしいと思うかもしれないけれど、疑問に思う人間はいなかったと思うね。ごく一部にね、「戦争反対」とか「このままじゃ負ける」と思っとった人がいたかもしれないけれど、ほとんどの人はみ~んな非常に素直に、とにかく鬼畜米英でしたよ。

――それは、親とか学校の先生とかに教わるものなんでしょうか。

教育もそうなんだけど、空気みたいなものだから。自然にね。時代の空気を吸っていると自然とそうなった。天皇陛下のため、お国のために死ぬのが当たり前だと。だから私のような子どもでも、戦争に負けたことがわかったときには肥後守という折り畳みの小刀を持って、兄貴を「一緒に死のう」って追っかけ回したくらいです。でも、兄貴には逃げられちゃいましたけどね。

川に沈む人骨

愛国少年だった亀井氏は地元小学校を卒業すると、県内トップレベルの私立修道中学校に進学。広島市内に寄宿した。そこでまた、戦争の悲惨さを目の当たりにする。

――当時の広島市内はどんな様子でしたか。

もう原爆から4年経っていたからね、焼け野原にバラック(粗末な小屋)がいっぱい立っていました。人間の生命力はすごいと思った。でもね、いまでも覚えているんだけど、川で泳ぐと、たくさんの人の骨が沈んでいるんですよ。

焼け野原に並ぶバラック。1946年5月に撮影された(写真:毎日新聞社/アフロ)

――人骨ですか?

多くの人が熱くて川に逃げて死んだから。それはもう、おびただしい数だったよ。それから、街にはビルがあるでしょ。そのビルの壁には人の影が映ったまま残っている。写真機と一緒で、原爆の光で焼き付けられた人影の跡が。そういうのがあちこちにあった。悲惨ですよ。

だんだん悲しくなって、やがて憤りになってきた。なんで、こんな目に遭わなけりゃいけんのだって。それなのに、日本人は「過ちは繰り返しません」と反省ばかり。やったのはアメリカだよ。勝てば何でも許されるのか。そうじゃないでしょう。

広島平和記念公園内に設置されている原爆死没者慰霊碑。碑には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とある(撮影:編集部)

とにかく戦争はやっちゃいかん

「戦争には勝者も敗者もない」というのが亀井氏の持論である。そして、一国のリーダーたる者、何があっても絶対に戦争への舵を切ってはいけないと力説する。

――そういう経験から、戦争は反対だと……。

経験のあるなしは関係ない。とにかく戦争はやっちゃいかんのだよ。戦争には勝者も敗者もない。それは、勝ったほうも負けたほうも悲惨だから。アメリカだって、ものすごい数の犠牲者を出しているでしょう。そりゃあ、大統領は戦死しないかもしれないけれど。日本の兵隊だろうが、アメリカの兵隊だろうが、死ぬことの悲惨さという面においては同じ。だから、戦争はしちゃいかんのです。

――しかし、当時の日本は戦争への道を突き進みました。

極端な話、飢え死にしたって戦争はしないほうがましです。当時の日本も、ABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダによる貿易制限措置。1940年頃から進められ、対日石油禁輸などで、日本は追い込まれていった)などで苦しんでいたとはいえ、それでも別の道を選択すべきだった。一国のリーダーは、耐えて、耐えて、国民に「我慢しろ」と言わないとあかん。戦争するわけにはいかないんだ、とね。だけど、それは大変なことですよ。

――なぜ、当時の指導者はそれができなかったのでしょうか。

言うは易し。当時は、国民もマスコミも「やれ」「やれ」「やれ」でしたからね。そういう中で、リーダーがそうじゃない道を模索して、それを実行するというのは、並大抵のことじゃない。それは分かる。しかしもう二度と、そういう道を選んではならんのです。

大東亜結集国民大会の様子。1943年11月17日、東京の日比谷公園で開かれた(写真:近現代PL/アフロ)

――いまは戦争を知らない世代が国会議員の大勢となり、戦争への理解が乏しくなった発言も見受けられます。

難しいけど、「戦争を知らない世代」とレッテル貼るわけにもいかんだろう。書物や口伝えで、戦争について理解しているやつもいる。それを「おまえたちは戦後生まれだから知っちゃおらん」って、決めつけちゃいかんよ。そんなこと言ったら歴史なんか成り立たないですよ。

丸山穂高議員がたたかれてたでしょ、この間。(たたくのは)「知らねえくせに、おまえ、戦争、戦争と言うな」という感覚があるんだよ、みんな。やっぱりそれは健全な感覚ってあるからね。一方で、国会議員が一般の人よりレベルが高いなんて考えも錯覚だよ。

――国会議員の質が下がったということでしょうか。

俺は、そんなことを言うほどの立場じゃないよ。神様じゃねえから。いや、俺なんか、神様から見れば、程度の悪い政治家だったなと思われてるよ。

ただ、戦争は駄目だよ。人を殺し合う。戦争っていうのは、その最たるものだ。俺は、平和主義者だぞ。だから、戦争は嫌に決まってる。人を殺すのが好きなわけねえじゃねえか。

(撮影:八尋伸)


山口一臣(やまぐち・かずおみ)
ジャーナリスト。公益社団法人日本ジャーナリスト協会運営委員。株式会社POWER NEWS、株式会社テックベンチャー総研の代表取締役。元週刊朝日編集長。1961年東京生まれ、早稲田大学第一文学部卒業。

[撮影]八尋伸