「ここで70人以上が処刑されるのを見ました。多くが首を切り落とされて殺されました」。シリア北部の都市・ラッカ。その時計台前広場で、住民の男性はこう言った。世界を震撼させた過激派組織「イスラム国(IS)」の「首都」と呼ばれたこの町が陥落して1年。今もいたるところに破壊された建物やがれきが残る。「国家」を名乗り、住民殺戮(さつりく)や異教徒殺害を繰り返したIS。その支配地域で何が起きていたのか。シリアとイラクに入り、傷痕をたどった。(玉本英子/アジアプレス/Yahoo!ニュース 特集編集部)
IS拠点都市だったラッカ
ラッカは、ユーフラテス川の恵みで栄えてきた美しい町だ。その町は、最も悲しい形で世界に知られることになった。
覆面姿の男たちが黒い旗を高々と掲げ、戦車を連ねてパレードする。その様子がメディアで伝えられたのは2014年のことだった。連日のように斬首映像をネットで公開し、国際テロまで呼び掛けた。
その後、クルド勢力主導のシリア民主軍(SDF)との激しい攻防戦でラッカは陥落。敗走したISはシリア南東部の最終拠点で今も抵抗を続けている。
ラッカからISが敗走して1年。2018年10月、市内に入った。今も暗殺や自爆事件が相次いでいるため、地区によっては地元の警護が同行してくれた。中心部に近づくにつれ、建物の破壊のすさまじさが増す。崩れ落ちた壁に残る銃弾の痕が戦闘の激しさを物語っていた。
ナイム広場は、ISが戦車や装甲車で軍事パレードをした場所だ。ここで公開処刑は繰り返された。シリア政府軍や自由シリア軍などの捕虜のほか、“スパイ”“犯罪者”も銃殺や斬首で処刑された。
当時、学生だったザハラディーン・アブドゥさん(19)は、処刑の様子を間近で見た。
「政府軍兵士2人が連れてこられた。大ナタで、1人の首はスパッと切れて転がり落ちた。もう1人はなかなか切れず、もがき苦しんでいた。あの光景が忘れられない」
家に帰ると、自分のズボンの裾にいくつもの小さなシミがついていた。そのときに飛び散った血だと分かり、しばらく食事が喉を通らなかったという。
「奴隷市場」で売られたヤズディ教徒の女性
ザハラディーンさんは、もう一つの恐ろしい光景について話した。
ある日、ナイム広場を通りかかると、数人の若い女性たちが「奴隷・700ドル」と書かれた大きなカードを胸に付けられ、立たされていた。イラクから連れてこられたヤズディ教徒の女性だった。黒いヒジャブ姿だったが、顔の部分は開いていた。数人の戦闘員がその顔をのぞき込みながら、薄ら笑いをしていたという。
「女性たちは恐怖に脅え、震えていました。かわいそうでならなかった」
ヤズディ教はゾロアスター教などの影響を受けた少数宗教で、孔雀天使を崇める。このため、過激なイスラム主義者からは「邪教」「悪魔崇拝」などとみなされ、繰り返し激しい攻撃にさらされてきた。
イラク北西部のシンジャルには、10万人を超えるヤズディ住民のコミュニティがあった。
2014年8月、ISはその町や村を襲撃。銃を突きつけてイスラム教への改宗を迫り、逃げようとした住民は殺害された。ヤズディ団体によると、一連の襲撃で死者は1000人以上に達した。さらに女性や子どもら3000人以上が拉致され、シリアやイラクのIS支配地域へ移送されたという。
拉致後、脱出してきた女性たちの証言によると、IS戦闘員は女性を「戦利品」などと呼び、強制結婚という形で分配した。そこには小学生の女児も含まれる。性的暴行を繰り返した揚げ句、戦闘員同士で転売した。男児は軍事訓練施設に入れられたという。
アハメッドさん(42)は、IS支配下のラッカでひそかに拉致女性の救出を手助けしていた。
「ヤズディ女性の拉致は、戦闘の混乱のなかで起きたのではありません。連行後に奴隷として戦闘員で分配するなど、組織的に計画されたものでした」
アハメッドさんはIS幹部宅の周辺で見知らぬ女性たちを見かけるようになり、タイミングを見て声を掛けた。すると女性は「拉致されたヤズディです。助けてください」。ひそかに携帯番号を記したメモを渡すと、何人かが戦闘員の隙をついて電話してきた。彼は車を手配し、IS支配地域から女性たちを脱出させたという。
ラッカには拉致女性の「奴隷市場」があったとアハメッドさんは言う。
それを探すため、アハメッドさんの情報を手がかりに、ラッカの南西部に向かった。ユーフラテス川にかかる橋は戦闘で破壊されているため、渡し船に乗る。そこから15分ほど車で走ると、丘の上に堅牢な建物がいくつもあった。内戦前にナイトクラブとして使われていた場所だ。その一つに入ると、ホールのようなフロアが広がっている。壁はピンク色。今は誰もいない建物、ここが「奴隷市場」だった。
近くの雑貨店店主は言う。
「この建物付近は地元民でも近づくことが禁止されていました。ある日、監禁されていたヤズディ女性が何人か逃げ出して、ISが捜索に来た。女性たちはユーフラテス川に飛び込んで逃げようとしたが、溺れて死んだと後で聞きました」
IS戦闘員が転売、性暴行の日々
この「奴隷市場」でIS戦闘員に売られ、脱出に成功したヤズディ女性がいる。アハラムさん(30)=仮名=。2014年夏、住んでいたイラク、シンジャル近郊の村をISに襲撃され、夫とともに連行された。夫は行方不明となり、彼女はラッカへ移送された。
アハラムさんは今、イラク北部のクルド自治区で避難生活を送っている。
彼女を訪ね、ラッカで撮影した「奴隷市場」の写真を見せると、「たくさんのヤズディ女性とともに自分もここにいた」と証言した。IS戦闘員が次々と「品定め」に来て、気に入った女性を連れ出していった。
ラッカへの移送後、アハラムさんはチュニジア人のIS戦闘員と強制結婚させられた。その後、別の男に転売され、2014年の拉致から3年半で10人の戦闘員に売られた。
「何度も殴られ、凌辱されました。男たちの顔と名前はすべて覚えている。悲しみと恐怖と絶望だけで、もう何かを考えることもしなくなりました」
シリア民主軍がラッカに大攻勢をかけ、戦況が悪化すると、ISはアハラムさんを軍事訓練キャンプに入れた。2カ月間、武器の扱いを教え込まれ、前線に送られた。ISは彼女に爆弾ベストを着せ、「逃げたらリモコンで爆発させる」と脅した。銃弾が飛んでくるなか、必死で敵陣に向けて撃ちまくったという。
ある日、戦闘員の隙をみてイラク・クルド自治区にいた弟に電話で連絡。地下救出グループが動いて脱出できた。
アハラムさんは帰還後の今も、すぐ激高するなど感情がコントロールできず、心の治療を受けている。この取材中も彼女の手はずっと小刻みに震えていた。
IS元戦闘員と拘置所で
2003年のアメリカ主導によるイラク戦争によって、イラクでは混乱が続いた。
当初、駐留米軍に対する抵抗として始まった反占領闘争は、スンニ派とシーア派の宗派抗争が先鋭化するなか変質していった。フセイン政権時代とは逆に、シーア派が政府内で影響力を拡大し、スンニ派を締め付けた。それに対する反発と不満が渦巻き、IS台頭へとつながっていく。
2015年、イラクのクルド自治区にある治安当局の拘置施設で、イラク人の元IS戦闘員にインタビューしたことがある。
手錠をはめられ、看守に連れてこられたのはモハメッド・イブラヒム元戦闘員(30=当時)。髪を短く整えてある。黒覆面のISの怖いイメージとは違い、どこにでもいそうな普通の男だった。
アメリカのイラク侵攻後、アルカイダ系組織で反米武装闘争をしていた2人の兄は米軍に殺されたという。「あのとき必ず米軍に復讐してやると誓った」。治安当局に拘束された後も、彼は「ISは真理」との思いを変えていなかった。
彼のように米軍に家族を殺された恨みからISに志願したイラク人は少なくない。
戦争で被害者だった者が、容易に加害者に転じる。ISがもたらした傷痕は、同時にイラク戦争の傷痕でもあった。一方、シリアでは内戦による混乱で生活基盤を失い、わずかながらも給料が出るとの理由でISに加わった者がいた。
そのISがヤズディ教徒の殺害や女性拉致を続けたのである。罪のない住民を殺し、女性を拉致し、凌辱するのは人間として許されるのか――。そう問うと、しばらく間をおいてから、モハメッド元戦闘員は答えた。
「アッラーを信じぬ者たちだ。殺されてもかまわない」
ISの主体だった外国人戦闘員
戦闘員には、シリアやイラク国外から加わった者も多くいたことが知られている。外国人戦闘員はISの中でも中心的な役割を担ってきた。
2018年10月、シリア北部クルド治安当局と交渉の末、ISの外国人戦闘員への拘置所でのインタビューが許可された。この拘置所には外国人戦闘員ら900人以上が拘束されている。その国籍は実に46カ国に及ぶ。
チュニジア生まれで、ドイツのハンブルクで育ったアブ・ムハンマド元戦闘員(34)は、ドイツ人の妻とともに2014年、ISに加わった。ネットの宣伝映像で、ジハード戦士や真のイスラム国家の姿にあこがれ、シリア入りしたという。
「宣伝映像が伝えるイスラムの“国家”に期待を寄せ、ISに入った。最初、外国人戦闘員の給料は高く、司令官になる者もいた。ところが、組織の異常さに気づいたときには逃げることもできなかった」
生活の不満を口にした者が密告され、IS内の治安機関に拷問されたこともあった。仲間の間では疑心暗鬼が広まっていたという。
「子どもにまで斬首させるのは、ひどいと思った者も多いはずだが、それを口にできるわけもなかった」
彼は「ヤズディ教徒の殺戮までやる必要があるのか」と仲間に漏らしたことがあった。それがIS内の査問機関に伝わり、2カ月間拘置された。
幻想が消えたいま、彼はともに拘束された妻と一緒にドイツへ戻ることを望んでいる。ドイツ政府は、テロへの懸念からIS参加者の帰国に積極的な姿勢を見せていない。
ノーベル平和賞「ナディア」の村
イラク北西部、シンジャルの外れにコジョという小さな村がある。ここは2018年、ISの性暴力を告発してノーベル平和賞に選ばれた女性ナディア・ムラドさんの故郷だ。
2014年8月、村を襲撃したISは、住民を中学校に集め、男女に分けた。男性や年配女性は、空き地で殺害した。地元記者によると、約1600人いた村民のうち、700人近くが犠牲になったという。若い女性や子供は拉致された。
コジョ村の女性ナスリーン・ハリルさん(22)は、母と幼い妹弟とともにバスでイラク北部に移送された。若いヤズディ女性35人が部屋に集められ、なかには12歳の女の子もいた。そしてIS戦闘員は女たちを1人ずつ別室に連れ出していく。
「ロープで手を縛られ、レイプされました。ずっと、自殺することばかり考えていました」
彼女はその後、4回も戦闘員の間で転売された。
監禁されながらも電話のチャンスを見つけ、連絡を受けた母親が密輸業者を探す。そして、IS戦闘員が家を空けた隙にナスリーンさんは脱出。業者の手引きで母親の元へ戻った。
彼女はナディアさんのノーベル平和賞に複雑な思いだ。
「受賞はうれしい。でも、私たちにとっては何も終わっていません。あの日の記憶は消えないし、ISも壊滅していない。なにより人々が今も苦しんでいます」
ISが撤退しても、治安の安定しないコジョ村に戻る住民はいないという。
ISは終わっていない
ISはシリア南東部に追い詰められ、最終拠点でシリア民主軍の追撃を受けている。
一方、ISのいなくなったラッカでは、潜伏するIS残存兵らによる暗殺事件が多発している。2018年10月には、新たに設置された行政機構の地区長だった男性が、自宅前で男たちに射殺される事件があった。事件後、ISは機関紙で「今後も背教徒を狙う」と宣言している。
拘置所で会った、ドイツ育ちのムハンマド元戦闘員はこんな言葉を残した。
「宣伝映像に感化され、IS思想を信じる者はいまも各国にいる。彼らがISを継ぎ、どこかで次のテロを引き起こすだろう」
過激主義を封じるにはどうすればいいのか。答えはまだ出ていない。
[動画]撮影・編集:玉本英子、坂本卓
玉本英子(たまもと・えいこ)
映像ジャーナリスト。東京都生まれ。デザイン事務所勤務をへて1994年からアジアプレス所属。クルド問題など中東地域を中心に取材。アフガニスタンではタリバン政権下で公開銃殺刑を受けた女性を追い、2004年、ドキュメンタリー映画「ザルミーナ・公開処刑されたアフガニスタン女性」を監督。イラク、シリアではIS支配地域やその周辺に生きる人びと、少数宗教ヤズディなどを取材、テレビのニュース特集、新聞、報告会などを通して伝えている。