「震災直後は、元気にならなきゃと過ごしてきたけど、5年たつと、寂しさが増してきた」
最愛の娘を失った上野ヒデさん(73)はそう言葉を絞り出した。東日本大震災の津波で甚大な被害が出た岩手県大槌町。40人もの犠牲者を出した旧役場庁舎は当時のままの姿で現地に立つ。「つらいから取り壊して」という町民がいれば、「忘れないために保存を」と望む町民もいる。解体か、保存か、もっと議論を尽くすべきか。被災者たちの心は揺れている。今も決して切れない大切な人との繋がりの中で、静かに揺れる。その声に耳を傾けた。(Yahoo!ニュース編集部)
「大槌町の旧庁舎近くに『ふれあいセンター』があってね。震災の時、私はその3階で婦人会の体力作り。町職員だった一人娘は、下の階で税金の仕事をしてた。そして、あの地震が来たの――」
痛々しい姿の旧庁舎前で、上野ヒデさんはそう語り始めた。
至る所が剥がれ落ちたコンクリートの外壁。ガラスの無い窓。玄関正面の上部に掛かった時計は長針が折れたままで、2階建て庁舎の屋上近くまで津波が来たことをはっきり物語る。
震災の教訓「話しただけでは伝わらない」
上野さんは2011年3月11日午後の出来事を今も鮮明に覚えている。忘れられるはずがない。
「普通の地震じゃなかったから、ふれあいセンターを出るとき、娘に『必ず大きい津波が来るから早く逃げてね』って。『早く逃げてね』じゃなくて、私が連れて一緒に逃げればよかった。『早く逃げてね』が最後の言葉、あの子に掛けた。今、後悔しているけどね」
災害などの緊急時、自治体職員には持ち場が定められている。上野さんの娘は庁舎に戻り、津波に襲われた。
うちの娘はね、と上野さんは言葉をつなぐ。
「遺体、本当にきれいだったのよ。ほんとうにきれいだった。それを見た人たちも『一番綺麗でしたよ』(と言ってくれた)。だからこの子は、一気に苦しまないで逝ったなと思ったの。そこは救われたような気がしたの」
他の沿岸部と同様、大槌町を襲った津波もすさまじかった。防潮堤を一気に破壊した波は町で渦巻き、大火災を引き起こした。街の大半は喪失。死者・行方不明者は町人口のおよそ1割、1285人に上った。
旧庁舎は2階の天井まで津波に襲われ、町長を含め、震災の初期対応に追われていた町職員40人が犠牲になった。その中に上野さんの娘さんもいた。だから、上野さんもここに足を運び、当時の爪痕を残す建物の献花台で手を合わせる。
「娘を語るにはここしかない」という上野さんは、震災の教訓として旧庁舎の保存を望んでいる。
「後世のために残してほしい。私たちが体験したから、残すのが義務だと思っている。話しただけでは伝わらない。こういうものを置いておいて、自然の力ってすごいなというのを皆に知らしめたい」
「痛みがない人は忘れていく」
旧庁舎を残すか、残さないか。
大槌町内で議論が本格化したのは、大震災があった2011年の暮れからだ。まず、「保存」を求める町民らが請願書を町議会に提出。採択はされなかったものの、その後は「保存」「解体」の双方が意見をぶつけ合ってきた。技術的な見地やコスト面などからの見解も求めようと、専門家による委員会も設置された。
2015年8月に当選した平野公三町長はその年の10月、「年度内に解体」の方針を打ち出す。「旧庁舎は特別な場所ではない」「保存には維持管理コストがかかる」「建物を見たくないと感じる町民らへの対応」というのが、主な理由だった。
ところが、「震災を忘れないために」といった保存派の声は根強く、町議会は「二者択一の前にすべきことがある」などの理由で町長の方針に賛同せず、議論は続くことになった。
漁業の平野榮紀さん(61)は「保存か解体か」に今すぐ結論を出すことに疑問を感じている。今も旧庁舎前を1日に3、4回は通りかかるという。
「建物がここ1年2年で崩れるわけじゃない。だったら、時間をかけて、落ち着いて考えていけばいいんじゃないですか。それぞれの思いがある問題ですから」
建物があれば、強い記憶となって残る。それを嫌がる町民もいる。
「津波で流されなかった人と流された人。その気持ちが、若干ずれているような気がする。5年もたてば、痛みがあった人は覚えているけど、痛みがない人って忘れていくわけですよ。考えのずれっていうか、感じますよね」
平野さん自身は自宅が流され、今も仮設住まいが続いている。
「目の前に置いてほしくない」という住民も
大槌町の自然は実に豊かだ。海も山もある。高台の城山公園に行くと、海と一緒に町全体を見渡せる。今年2月下旬。金﨑悟郎さん(65)と一緒にその公園を訪れた。金﨑さんは町議会議員。旧庁舎の解体に「賛成」の立場だ。町議として採決に臨むなら、賛成か反対か、二つに一つ。どちらでもない、という「中間」は議員として許されないとの思いもある。
「(旧役場庁舎の近くの)末広町にアパートができたけど、まだまだできていく。そこに住む人たちは目の前にこういうもの置いてほしくない、と。これからの町づくりをやっていく上で、大槌町の人口がどんどん減っていく。そのとき、いつまで金をかけてやっていくか。役所の人だけが死んだんじゃないからね」
金﨑さんには財政負担を含め、町全体の「将来」が何よりも気になる。早く本格的な復興に向かいたいとの思いも強い。
一方で昨年、解体予算案の提出を思い止まるよう、町長に働きかけ、結論の持ち越しにひと役買った。解体方針が町議会で否決され、町政が混乱することを恐れたからだ。
「(議員も賛否が割れて熱くなっているから)ワンクッション置いて、決めましょうと。決める前にやることをやれと。あそこに行って手を合わせなきゃという人もいるから、納骨堂を作って、それから(旧庁舎を)どうするか決めましょうと(町議会の)特別委員会で話したら、それなら分かる、と」
観光バスの見学者に「辛さ」がわかるか
大槌町だけでなく、東北の沿岸部には「震災遺構」が各地にある。「防災教育の拠点に」「後世への遺産として」といった観点から「残す」「残さない」の議論が沸き起こっている。
保存が決まったのは、同じ岩手県の宮古市にある「たろう観光ホテル」。国費保存の第1号となった。宮城県女川町の旧女川交番なども保存が決まっている。児童ら84人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校旧校舎などは、保存の是非をめぐる議論の最中だ。
震災遺構は建造物だけではない。鉄道車両や津波で内陸部にまで運ばれた船舶などもある。「つらい経験を思い出したくない」「危険だ」などの理由で、既に撤去された震災遺構も少なくない。
大槌町の旧庁舎はどうなるのか。町を歩くと、さまざまな意見にぶつかる。最後にその1人、「解体」を望む白銀照男さん(66)の声を聞こう。母、妻、娘の3人の行方が分からないまま、この5年間、仮設住宅などで避難生活を続けてきた。
「今は旧庁舎に観光バスで来るんですよ。拝んでもらったりすればいいんですけど、若い連中ってのは観光気分で、笑ってピースしたりさ。自分らはまだ(家族が)行方不明。あんたらはこんな辛さ分かるか。だから絶対残すな、と」
5年前のあの日、白銀さんは仕事で外にいた。寝たきりの母を守り、妻と娘は家にとどまっていた。
「(おふくろは)逃げろ、って言ったと思うんですよ。だけど、(妻と娘の)2人は、おふくろを見捨てないで一緒にいてくれた。2人だけ助かっても、一生悔いを残して、辛い気持ちで生きなきゃならなかったと思うんですよ」
「(家に)戻ったらガレキの山だった。あれから(自分も)歩けなくなったり。ショックが大きかったからね。だから、この5年っつうのは『まだ5年か』ってのと、『あっという間の5年』と。複雑なんですよ。遺体見つかってないから。葬儀はしたんだけど、コツ(骨壺)に入れるのは何もなかった」
「大事な家族だった。生まれ変わったら、やり直しできるなら、またこの家族で、娘も嫁さんも同じ家族でやり直したい。また生きたい。1日も早く、骨でもいいから見つかって、早く家の中に入れたい。それでなければ、本当の前向きになれない」
旧庁舎の問題より、もっと大事なことが「解体賛成」の白銀さんにはある。おそらく、他の多くの被災者にも。
※冒頭と同じ動画
[制作協力]オルタスジャパン
[写真]
撮影:苅部太郎
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝