化粧とは、美しく装うためだけにあるのではない。病やけがの痕を覆い隠し、人の心を癒やす化粧。それが「カバーメイク」だ。「利益が出なくていい。売り続けることが大切」という信念のもとで、化粧品メーカーの資生堂は、半世紀以上にわたって「心も癒やす」化粧への取り組みを続けてきた。(ライター・山本ぽてと/Yahoo!ニュース 特集編集部)
明るい化粧室のなかで
小部屋の内装は白で統一され、天井は高い。化粧台の大きな鏡の左右にはライトが縦につけられていて、前に座る人の肌を明るく照らす。
鏡の前の椅子にマスク姿の女性が座った。マスクを外した顔の真ん中は赤く腫れ、手術痕が残っている。園田由美さん(52)は、この痕を自然に隠す「カバーメイク」のレッスンを受けるため、鹿児島から上京してきた。
園田さんの背後から「夏らしいお洋服ですね」と資生堂のメーキャップケアリスト・青木和香恵さんが声をかける。園田さんが最近かけたという柔らかいパーマ。それにピンの跡がつかないよう、青木さんはコットンで前髪を一房ずつくるんで留めていく。
ここは、銀座・並木通りの資生堂本社内にある「資生堂 ライフクオリティー ビューティーセンター」(SLQC)のメイクルーム。SLQCは、あざや傷痕、シミ、凹凸など、肌の深刻な悩みをカバーするための化粧法「カバーメイク」を、専門家から無料で学ぶことができる専門施設だ。
「痛くないですか?」と青木さんはひとこと断ってから、化粧水と乳液で園田さんの肌を整え、下地を塗りはじめた。
園田さんは12年前、指定難病のひとつである巨大動静脈奇形を発症した。動脈と静脈のつながりに異常が起こり、腫れやひどい赤み、ときには患部の壊死や大量出血につながることもある病気だ。園田さんの場合は、病巣が顔の中央に現れた。
「命に関わるくらいの出血があって、(患部を)手術で取り除くことになったんです。何度も顔を手術して、上唇は大腿部から移植しました」
一命は取りとめたが、顔には手術痕と赤みが残った。
ゆっくりと思い出しながら話す園田さんの横で、テンポよくメイクを進める青木さん。米粒大に取ったファンデーションを、中指を使いトントンと優しく園田さんの顔に重ねていく。すると、肌の赤みと手術痕がみるみるうちに目立たなくなっていった。
戦禍の被災者のために生まれた
資生堂とカバーメイクの歴史は、戦後すぐにまでさかのぼる。GHQ(連合国軍総司令部)が厚生省(当時)に「米国にはやけどを負った人たちの傷を隠すファンデーションがある」と示唆。厚生省から資生堂に商品開発の打診があったという。当時日本には、広島や長崎への原爆投下などによるケロイドに悩む人々がいた。資生堂は1956年、「資生堂スポッツカバーファウンデイション」を発売する。
そのときの広告にはこうある。
同胞の気の毒な人のため、いくらかでもお役に立てばという考えで、販売量などを問題にせずに、人道的な見地で研究してつくった
(『花椿』1956年10月号)
以来、60年余り。資生堂はさまざまな肌の悩みに応えるカバーメイク商品の販売をし続けてきた。1995年には「スポッツカバー」よりも広範囲に使用でき、肌の色味の悩みに対応した「パーフェクトカバー」ブランドを発売した。
まず、太田母斑の青あざ用の「パーフェクトカバーファンデーションOT」、血管腫などの赤あざと濃いシミ用の「同PS」を発売。2006年には、白斑に対応したファンデーション「同VV」、2008年には深い凹凸をカバーする「同BM」を登場させている。
1987年から1997年まで社長を務めた福原義春氏(現・名誉会長)は、「この商品は利益を出さなくていい。売り続けることが大切だ」と言ったという。
販売数は非公表だが、「ビジネスの観点からいえば、その個数ではブランドを維持できないくらい少ない」とSLQCマネージャー・横山加津子さんは話す。大きな宣伝も行っていない。それでも、スポッツカバーは1000円代から、パーフェクトカバーブランドは2500~3500円程度と、ユーザーの手に取りやすい価格を維持してきた。
口紅の技術を応用したリニューアル
2017年、パーフェクトカバーブランドは、22年ぶりに大幅なリニューアルをした。
「カバー力はそのままで、肌の凹凸も、あらゆる色の悩みも、全部ひとつでカバーできて、衣服につかなくて、落ちにくく、伸びがよくて、それなのに自然なファンデーション」
リニューアルに際し、青木さんたちSLQCスタッフはこんな要望を出している。
素肌を隠し、肌の悩みを目立たなくする「カバー力」と、使いやすさを左右する「伸びのよさ」という相反する特性を同時に盛り込む、そんな「無謀なオーダー」にこたえたのは、資生堂グローバルイノベーションセンター研究員の池田智子さんだ。
「やはり、気合入れてますよ。ロングセラーで、一度リニューアルしたら、長く愛用される商品ですから。今できる最大の技術を盛り込みたいと思いました」
「ここ(SLQC)にいらっしゃるのは、ありとあらゆるものを試してきた方が多い。なにを使ってもダメなんだ、もう無理なんだって。それ自体が心に深い傷をもたらしているんです。みんな勇気を振り絞ってここまで来てくれる。だから絶対に妥協したくなかった」(青木さん)
100を超える試作品の先に、光明が見えた。池田さんが、7年前に開発した口紅の技術を応用する方法にたどりついたのだ。水を豊富に含んだ乳化剤を使用することで、塗るときはクリーミーで伸びがよく、水分が飛んだ後は厚みをもってフィットするという。
こうして2017年10月、「パーフェクトカバーファンデーション MV」が完成する。子どもや男性でも利用しやすいよう、シンプルなパッケージデザインにこだわった。
「美しい、はみんなに与えられているんです」と青木さんは力強く話す。
生きるために必要なメイク
カバーメイクを施す「メーキャップケアリスト」は全部で6名(2018年12月現在)。SLQC来訪者に一対一でカバーメイクを伝授する。全国の医療施設を巡回して指導にあたったり、講演会でメイク法の説明をしたりすることもある。
青木さんは、最初からカバーメイクに携わっていたわけではない。資生堂には1990年代前半に入社し、ショーで活躍する「メーキャップアーティスト」として活動。モデルたちに最先端のメイクを施す、流行とモードが大好きな若手社員だった。
そんな青木さんの憧れは、70年代にパリ・コレクションに日本人として初めてメイク担当で参加した先輩社員で、メーキャップアーティストの大城喜美子さんだった。入社して6年目のある日、青木さんは、憧れの先輩の新たな一面を知る。やけど患者に大城さんがカバーメイクをしている映像を目にしたのだ。
「ああ、すごいって、魂が震えました。一般的にメイクは美しくなるためのものですよね。でも生きるために必要なメイクがあると、そこで初めて知ったんです」
ショーで行うメイクは、モデルが次から次へとせわしなく落とす、その場限りのものだ。
「でも患者さんは『お化粧を落としたくない』と言うんです。心から『落としたくない』って思うお化粧ってなんだろう、って」
青木さんも、大城さんの活動に参加するようになった。医療機関からの依頼を受け、2人で社内の会議室を使って患者にメイクの個別アドバイスをしたり、日本各地でカバーメイク教室を開くこともあった。こうした活動が原型となり、2006年にSLQCが発足する。
これまでSLQCを訪れてきた人は5200人以上にのぼる。青木さんは訪れる人々の様子をこう話す。
「外見的な悩みは、心の中の深い傷にもなっています。みなさん、『人に不快な思いをさせたくない』っておっしゃるんですよ。自分の外見が周りの人に不快な思いをさせていないか、余計な配慮をさせていないか、とても気になるんだと。それに、病気に対する周囲の偏見や情報不足もあります。白斑の場合はとくに、うつる病気だと思われてしまうそうです」
「最初は、鏡を直視できない方もいます。自分のつらかった経験を思い出して、泣いてしまう人もいる。でもメイクをしていくうちに顔が上がってくるんです」
医療の限界を補うアプローチ
カバーメイクの重要性は、医療の現場でも認識されている。
総合東京病院形成外科の保阪善昭医師は90年代前半から資生堂と共同でメイク教室を開催しており、1995年発売のパーフェクトカバーファンデーションの開発にもかかわった。保阪医師は言う。
「どれだけうまく手術をしても、神様じゃないと傷はなくせない。どうしても傷痕が白くなったり、色素沈着したりします。だから隠そうと思ったら、最終的には化粧に頼らざるをえません」
自己流で試行錯誤している患者に、保坂医師は「プロの技術は違うんだから、だまされたと思って行ってみて」と言い、メイク教室を勧めてきた。
「実際に行ってみると本当に喜ぶんです。泣いて喜ぶ人もいます」
カバーメイクはがん患者の外見ケアにも役立つ。乳がん診療を専門とする聖路加国際病院腫瘍内科の北野敦子医師はこう話す。
「抗がん剤治療では、脱毛だけでなく、肌にシミ、くすみが出ます。治療のつらさに加え、外見の変化も加わって見た目が『病人らしく』なっていくと、本人も家族も治療のモチベーションが下がってしまいます。外見を整えることで、社会とのつながりを積極的に持てるようになります」
カバーメイクを通じて元気だったころの自分に戻ることは、自分らしさを取り戻すことでもある。
「お母さん、女を捨てたの?」のひとことに動く
青木さんが園田さんの顔の右半分のベースメイクを終えた。残りの左半分は園田さん自身が仕上げていく。自宅でも一人でできるよう、コツをつかむためだ。
「鼻のここにファンデーションがうまくつきにくいです」
と園田さんが尋ねると、青木さんが丁寧に答える。
「指で入りにくければ、平たいブラシでファンデーションを少し取って、左右から埋めるような形で使っていただいて。周りだけ指で軽くなじませてみてください」
園田さんはカバーメイクに出会うまで、しばらくメイクそのものから遠ざかっていた。医師からメイクの許可が下りても、気は進まなかったという。
「病気になって、自分の顔はこれで仕方ないと思っていたので」
そんな園田さんを動かしたのは、「お母さん、女を捨てたの?」という娘のひとこと。4年前のことだ。血管腫・血管奇形の患者会が主催していた資生堂のカバーメイクアップ講座に参加した。
プロの手にかかると、自分の顔がどんどん変わっていく。なにより、化粧後の姿を見た娘がうれしそうに、「お母さん、女優みたい」と言ってくれた。
自分でもできるようになりたいと、園田さんはすぐに東京のSLQCに予約を入れた。今では、関東に用事のあるたびSLQCに足を運ぶ常連だ。
「しっかり化粧をするようになってから、人の目というか、(街で)見返す人が少なくなった。伏し目がちだったけど、今では前を向けるんです」
もうマスクは要らない
園田さんの傷痕がしっかり隠れた。仕上げにパウダーをパフで多めにのせ、余分な粉をブラシで払う。ベースメイクの完成だ。
「今日はポイントメイクもしてみましょうか。つけてみたいお色はありますか? 色によってイメージが変わるのもメイクの楽しみですよね」
青木さんは、色とりどりのアイシャドーを並べる。
「いつもはこの辺(ブラウン)が多いけど、明るい色も使ってみたいです」
と、園田さんが言うと、「お似合いになりそうですね」と青木さんは明るいピンクと紫のアイシャドーを選ぶ。園田さんは照れながら、でもうれしそうに笑い、それにつられて青木さんも笑顔になった。
明るいピンクと紫のアイシャドーでグラデーションをし、ブラウンのアイラインで目の周りを縁取る。まつげにマスカラを薄く塗ると、目の印象がはっきりする。
手術で皮膚を移植した園田さんの上唇を、自然な色の口紅で塗ったあと、その上から鮮やかな口紅を重ねる。カバーしたベースメイクを崩さないよう、ピンクのチークを優しく楕円形に入れる。顔の傷跡以外に目がいくように、メイクは総合的に行うという。
「はい、お疲れさまでした」
園田さんの顔に、優しい色を使ったメイクが映える。
「今日はこのまま帰ります」
園田さんはマスクをカバンにしまい、銀座の街を歩きだした。
山本ぽてと(やまもと・ぽてと)
1991年、沖縄県生まれ。早稲田大学卒業後、株式会社シノドスに入社。退社後、フリーライターとして活動中。企画・構成に飯田泰之『経済学講義』(ちくま新書)。
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝