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笹島康仁

自衛隊が来て島は…… 日本最西端の島「与那国」を行く

2018/09/20(木) 06:55 配信

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「自衛隊配備」をめぐって、大論争になった島がある。東京から約2000キロ、日本最西端に位置する沖縄県・与那国島だ。島を二分した住民投票を経て、防衛省は2016年春、この島に国境を監視する部隊を配備した。それから2年半。小さな島には若い隊員やその家族が移り住み、念願だったごみ処理施設は防衛予算で新設が決まった。島で見かける迷彩服や丘にそびえるレーダー塔も見慣れた光景になりつつある。一方で、「疑問の声を上げにくくなった」と悩む人も少なくない。激しく争った賛否双方の島民たちは、いま、何を思っているのだろうか。まずは、住民投票の際、迷いながら賛成票を投じた若者の話から。(笹島康仁、大矢英代/Yahoo!ニュース 特集編集部)

島も祭りもにぎやかに

与那国島は東京から約2000キロも離れ、西側で台湾と向き合っている。陸上自衛隊沿岸監視隊の駐屯地で任務に就くため、約160人の隊員が移り住み、家族を含めると250人ほどが新たな住民となった。今年7月現在の人口は1680人だ。

7月下旬の夜。

島南部の比川地区の公民館に住民たちが続々と集まってきた。翌日は「豊年祭」。住民総出でさまざまな舞踊を奉納する、一年で最もにぎわう祭りだ。この夜はそのリハーサルだった。

豊年祭リハーサルのため、比川地区の公民館に集まる住民たち(撮影:笹島康仁)

公民館長の嵩西(たけにし)茂則さん(56)の下、当日の進行を確かめていく。嵩西さんは言う。

「隊員は祭りを手伝うし、(妻や子どもたちは)踊り手になってくれる。地区にとって、自衛隊の存在は大きいですよ」

リハーサルの輪の中に與那覇有羽(よなは・ゆうう)さん(32)がいた。三線(さんしん)を手に、島の民謡を歌う。三線や琉球笛の音色に合わせ、女性たちがゆったりと舞っている。

リハーサル中の與那覇有羽さん(撮影:笹島康仁)

島には高校がない。だから、與那覇さんは15歳の時、同級生たちと同じように島を出た。台湾まで約100キロ、尖閣諸島まで約150キロという位置にありながら防衛施設もなかった。與那覇さんが「自衛隊が来るなんて、想像もしなかった」と言うのも無理はない。

そんな島で自衛隊の誘致計画が浮かんだのは2007年。町民有志が「与那国防衛協会」を立ち上げ、誘致を求める署名514人分を集めた。外間守吉町長は09年に上京し、防衛省で直接、配備を要望。その後、浜田靖一防衛相(当時)が歴代の防衛庁長官、防衛相として初めて島を訪れ、与那国を含む先島諸島に部隊を配備していく考えを示した。

與那覇さんが島に戻ってきたのはちょうどこの頃だ。沖縄本島で高校・大学に通い、その後は那覇市内で働き、結婚し、子どもも生まれていた。民謡の歌い手として民芸品を作りながら、父の清掃業を手伝う日々が始まった。

自宅前でクバの葉の民芸品を作る與那覇さん(撮影:笹島康仁)

「島を二分」した住民投票のその後

与那国島の自衛隊問題が本土で広く知られたのは、2015年2月の住民投票だろう。賛成か反対かをめぐる住民らの運動は激しさを増し、住民投票で頂点に達した。投票率は85.7%を記録し、賛成632票、反対445票、無効17票。島を二分した議論は「誘致賛成」で決着した。

與那覇さんは迷いつつ、賛成票を投じたという。「経済効果を期待したわけではないし、そんなに必要とは思わない。けど、否定するだけのものを自分は持っていなかった」からだ。

「自衛隊を否定も肯定もしません。人が増え、にぎやかになったことは事実。これまでの人たちの努力があって今の島があるのも事実です。刀はあってもいい。けれど、持つからには、抜かないよう努力していかないと。大事なのはこれからですよね」

誘致の先頭に立っていた外間町長は「誘致のおかげで町財政の危機を乗り越えることができた」と話す。町議、町議会議長を経て、2005年の町長選で初当選。以来、町長の職にある。

「国防は国が考える。地元は経済最優先」を貫いてきた。地元紙・八重山毎日新聞の報道によれば、地域振興に関する国の予算の提示額が少なければ配備に協力しない姿勢を示したという。

取材に応じる外間守吉町長(撮影:大矢英代)

外間町長の説明によると、誘致の背景には深刻な人口減少と高齢化に加え、町財政の急速な悪化があった。小泉政権時代の行財政改革で地方交付税交付金が削減され、1990年代に30億〜40億円だった一般会計予算は2007年度に18億円を割り込んだ。ほぼ半減である。町長や職員らの給与を減らし、町議会議員も半分の6人にしたが(今年9月の改選で定数は10に増加)、追いつかない。外間町長は「自衛隊誘致しかなかった」と振り返る。

配備後、町財政は瞬く間に改善した。2016年1月時点で1490人だった人口は1700人台に。その人口増などによって交付金は増え、2016年度の地方交付税は15億2237万円。2年前より約1億8000万円増えた。住民税を軸にした税収増は約3000万円。これは自主財源の3分の1に当たる。

日本最西端の碑。よく晴れた日には約100キロ先の台湾が見えるという(撮影:笹島康仁)

外間町長は言う。

「増えた財源で子どもたちの給食費を無料にできた。それに、隊員はいい方ばかりですよ。迷惑な米軍とは違う。それでいて税金もガチッと入ってくる。自治体にとって、こんな魅力はないですよ。町民も自衛隊の存在に慣れてきました」

「僕らはもともと、危機感をほとんど持っていません。近隣諸国と交流を重ねてきた歴史があるからです。ただ、国策があって領海をきちっとしなきゃいけない。そこには自衛隊が必要だと理解するしかない。(姉妹都市を結ぶ)台湾の花蓮市長に事情を説明したら『自分たちも軍隊を持っている。皆さんが軍隊持つことに干渉はしませんよ』と。友好関係にひびは入りません」

丘にそびえる自衛隊のレーダー塔(撮影:笹島康仁)

人口2000人足らずの島にとっては「大規模」といえる事業も進み始めた。

念願だったごみ焼却施設の建設には国の予算がつき、総事業費約29億円の9割を「防衛施設周辺対策事業」で賄う。与那国町漁協は、防衛関連予算を使ったエビ養殖場の建設を進めようとしている。漁協の内部資料によれば、事業費は30億円に上る。

飲食店に勤める60代の女性は「反対する人がなんですぐ『戦争』と言うか分からない。自衛隊が来て、町がにぎわえばいい」と言う。ただ、島は狭い。客の本心も分からない。だから、普段の会話では自衛隊を話題にはしないという。

比川地区の隊員用宿舎。八重山毎日新聞の報道によれば、9世帯が入るこの宿舎の総工費は約18億円(撮影:笹島康仁)

「川田です」と名乗った漁師(75)には、港で話を聞いた。16歳で漁師になった頃は、台湾船によく出くわしたという。

「(敗戦後の沖縄は米軍の施政下にあり、1972年の)日本復帰前は、台湾とはみんな友だちじゃ。向こうに行ったり、台湾の人と(船を)くっつけてご飯を食べたり。いろいろお世話になった。けど、今は日本だからね。復帰前がよかったけど、やっぱり復帰したら島を守らんとならんからな」

「『反対』はダメだよ。世の中はね、自衛隊がいないと仕事ができないの。被災地を見てみなよ。何かあった時は、みんな自衛隊でしょ?」

港に戻ってきた「川田」さん。釣り上げたカジキマグロを水揚げしていた(撮影:笹島康仁)

水揚げされるカジキマグロ。尖閣諸島周辺での監視の仕事を、防衛省から請ける漁師も少なくない(撮影:笹島康仁)

「声、上げられなくなりました」

島を歩くと、「自衛隊の配備後、反対の声は減ってきた」という住民に何人も出会う。「反対」の横断幕やポスターもほとんど消えた。もちろん、「違和感がある」という住民もいる。しかし、そうした人々の多くは実名での取材を拒んだ。

自宅で話を聞いた50代の男性は「自衛隊に頼らずに、島の資源と島民の力を使って住民たちの力で町の財政難を乗り切るべき」という思いから、住民投票では反対票を投じた。今は「表立って反対できない空気が生まれた」と言う。

「島に住む隊員個人が嫌いなわけじゃない。目の前にいる人ですから。子どもが増えて、小学校の複式学級も解消されました」

ただ、違和感は残る。最近あった地区対抗の運動会では、自衛官が各競技の優勝をほぼ独占したという。「何のため、誰のための行事か分かりません。自衛隊が手伝ってくれるからと、行事の準備などに顔を出さなくなった住民も増えました」

配備以降、町のいたるところで自衛官の姿を見るようになった(撮影:笹島康仁)

反対運動に加わっていた自営業の50代女性は「国の言うことを聞けば、お金はどこからか出てきます。国に従う人は何も困らない。けれど、『おかしいな』と思う人はどんどん地域にいづらくなる」と話し始めた。

昨年4月に行われた駐屯地の創立1周年記念行事。彼女は「反対」の意思を表明するため、仲間と一緒に門前に立った。ところが、報道陣はほとんど来ない。後で聞くと、島外から来た多くの記者は自衛隊の輸送機で那覇から与那国空港に着き、防衛省側が用意したバスで裏口から駐屯地に入ったという。

「何これ、と思いました。こんな小さな反対運動を怖がる防衛省も、それに甘んじるメディアも」

島内にはあちこちに馬がいる。駐屯地は「南牧場」の一部を割いて建設された(撮影:笹島康仁)

「基地のある所が攻撃されるんです」

狩野史江さん(58)も表立っての反対をしなくなった。

13年前に生まれ育った島に戻り、母の民宿を継いだ。2007年に誘致の話が出た時、何としても止めたかったという。沖縄本島では宜野湾市に住んでおり、すぐ近くに米軍普天間飛行場があった。2001年の9・11テロ直後、周辺に広がった緊張感が忘れられない。

「基地周辺の警備が厳重になり、それで『基地のある所が狙われる』と実感しました。それが嫌で島に戻ってきたのに……」

狩野史江さん。母の死をきっかけに島に戻り、民宿を継いだ(撮影:笹島康仁)

自衛隊配備をめぐり地域は分断され、友人関係、家族関係にも亀裂を残した。「賛成多数」となった住民投票のあと、地域に居づらくなり、出ていった人たちも少なくないという。

「長い目で見れば島にとってマイナスです。(今も反対する人は)声に出してないだけ。小さな島だから、声に出しづらいですよ」

現在も反対し続けている牧野トヨ子さん(95)には戦争の記憶がある。当時、与那国島には旧日本軍の監視所があり、米軍機はその周辺や浜に停泊する輸送船を攻撃してきたという。山中に避難してマラリアにかかり、亡くなった人は366人に上る。

「(自衛隊は)島を守ると言うけれど、危険だと私は思っている。何もない所に弾は来ないよ。基地がある所に弾は飛んでくる。あんな施設がある所には、必ず来ると思っている」

「基地があると島が危ない」と話す牧野トヨ子さん(撮影:笹島康仁)

牧野さんは「自分の経験から」と言い、何度も繰り返した。強い口調だった。「何もない所に弾は飛んでこない。私はいつも言っている。備えがある所に弾は飛んでくる」と。

取材を終えて帰ろうとすると、牧野さんが身を乗り出して聞いてきた。

「これから日本はどうなるのかね? また戦争するのかね?」

米軍機に襲われた時を思い出す牧野さん。畑に飛び込み、難を逃れたという。「弾が地面にバチバチしてね。ずっとこうして隠れていたよ」(撮影:笹島康仁)

防衛省は近年、与那国島だけでなく、石垣島や宮古島といった南西諸島の島々にミサイル部隊などの配備を進めている。自ら誘致に向かう自治体も少なくない。こうした現状に警鐘を鳴らす元自衛官の井筒高雄さん(48)は「有事の際、自衛隊は住民を守らない」と言い切る。現在は自衛隊OBらでつくるベテランズ・フォー・ピース・ジャパンの共同代表を務めている。

「与那国にも弾薬庫があり、敵はこれを狙います。住民を守ろうとして基地が破壊されたら、反撃できない。だから、自衛隊は基地を守る、国を守る、権力者を守るんです。さらに現行法では、住民はそれに協力することになっています。呼ぶからには、自衛隊と心中する覚悟が要るんです」

与那国町役場。自衛隊誘致を掲げる自治体は全国各地にある(撮影:笹島康仁)

井筒さんは、住民に関する情報の収集・統制も自衛隊の重要任務だ、とも言う。

「自衛隊のいる所には必ず情報保全隊がいて、住民の情報を集め、賛成・反対を分けています。そして、それぞれ対応策を練っていく。有事の際、知られてはいけないことを住民が知ったらどうするか。それが子どもであっても、口外しないよう対処しないといけない。そういう訓練をする。自衛隊とはそういう組織。『災害対応』ではなく、これが本来の任務です」

祭りだけでも手をつないで

比川地区の「豊年祭」は7月27日、盛大に開かれた。会場には住民らが約100人。前夜のリハーサル通りに舞踊の奉納が進んでいく。炎天下、伝統衣装で正装した住民たちは、汗だくで踊り続けた。

副町長の金城信浩さん(74)は「最高ですね」とうれしそうだ。

「今年は自衛隊が9世帯入り、出し物も増え、かなり盛大になりました。(隊員たちは地域に)溶け込んで、 いろんな行事に参加してくれる。助かっています」

剣舞を披露する住民ら(撮影:笹島康仁)

祭りの最後、住民たちは手を取り合い、輪になって歌い、踊った。その輪の中に、冒頭で紹介した與那覇さんもいた。マイクを手に音頭を取る。沖縄本島とはまた違う、与那国の民謡だ。歌には「こうあってほしい」という未来を歌い込む。最後の歌もそんな詞だったという。

「器の中のお酒のような、平静の世を願う歌です。広い海だと波風が立つけど、茶碗に盛ったお神酒は、ぴたっと静かになる。そんな世を願う歌です。実際は、波も風も立つんですけどね。でも、この祭りの時だけは、いろいろなことを抜きにして一緒にできたらな、と。神様の前ではみんな等しいですから。これからもこの行事を毎年迎えて、滞りなく終われたらいい。そうあってほしい。そうあるように努めるべきだと思います」

三線を手に歌う與那覇さん(撮影:笹島康仁)

三線と笛に合わせて踊る女性たち。自衛官の妻らも加わった(撮影:笹島康仁)

取材を終え、車に乗り込もうとすると、「すみません」と声を掛けられた。日に焼けた、短髪の青年が立っていた。祭りの最中、陸自の隊長が参加者に向けて「沿岸監視隊の情報の部分を全部持っている」と紹介していた自衛官だ。

「興味本位ですが」と前置きをして、「どちらのメディアさんですか?」と尋ねてきた。名乗ると、「ぜひ大きく報じてください」と言う。まっすぐな背筋を折ってお辞儀をすると、くるりと向きを変え、片付けの輪に戻っていった。

祭りの最後、住民らは手を取り合って輪を作り、歌った(撮影:笹島康仁)

【文中と同じ動画】


笹島康仁(ささじま・やすひと)
高知新聞記者を経て、フリーランスジャーナリスト。

大矢英代(おおや・はなよ)
琉球朝日放送記者を経てフリーランスジャーナリスト、映画監督。ドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(共同監督)が劇場公開中。
https://hanayooya.themedia.jp/

[写真]撮影:笹島康仁、大矢英代
[動画制作]撮影・編集:大矢英代、音楽:藤山拓善