オルタスジャパン

海底に潜み、敵の船を下から突く  無謀な特攻の記憶

8/10(金) 9:40 配信

水深7〜8メートルの海底に立ち、長さ約5メートルの竹やりを持って敵の上陸用舟艇を突く。竹やりの先には爆弾。海の底に立つ若者たちは、ゴム製スーツに潜水用のヘルメット姿だった――。実に非人間的な“人間機雷”の訓練が第2次世界大戦末期、神奈川県の三浦半島周辺で行われていた。上陸しようとする米軍を、命と引き換えに一撃する作戦だった。この訓練に参加していた鈴木道郎さん(88)は「死なんように、死なんように、実戦に行くまで死なんように」と考えていたという。海底に伏した龍を思わせることから「伏龍」と呼ばれた特攻作戦。関係者の証言をたどった。(Yahoo!ニュース 特集編集部)

15歳で海底の特攻隊員に

鈴木さんはいま、岐阜県多治見市に住んでいる。自宅を訪ねると、応接間に古いモノクロの集合写真があった。中央の人物に赤い線が引かれ、「私」と記されている。特攻隊「伏龍」のメンバーに選ばれる直前、1945年春の撮影らしい。

鈴木道郎さんは第一岡崎海軍航空隊に所属していた。分隊240人のうち7人ほどが特攻隊員に選ばれた(写真:鈴木さん提供)

当時14歳だった鈴木さんは旧日本海軍の飛行予科練習生で、愛知県岡崎市の航空隊に所属していた。日本は敗戦直前。鈴木さんが配属された部隊には飛行機が1機もなく、少年たちは連日、塹壕(ざんごう)掘りなどを続けていたという。

鈴木さんの記憶によると、5月のある日、少年たちは練兵場に集められ、分隊長が「特攻を志願する兵を募集する。希望者だけ、あくまでも希望者だけ一歩前に出ろ」と告げた。

「そしたら全員が一歩前に出た。1人も残っとる者はおらへん。みんなの頭には、特攻はすごいぞ、とあった。私なんか特にそう。(岡崎には飛行機がなかったが)すごいな、飛行機に乗れなくても、別の特攻があるんや、と思いましたね」

全員が特攻隊に選ばれたわけではない。視力、聴力、握力、直感判断力、腰の力、循環器の能力、知能……。そうした検査を経て、240人から7人くらいが選ばれた。鈴木さんもその1人で、岡崎にいるとき、「伏龍」のことを知らされたという。

自宅で語る鈴木道郎さん。左側の写真は若き日の鈴木さん(撮影:オルタスジャパン)

海の底から長さ5メートルの竹やりで突く

防衛省防衛研究所の所蔵資料によると、鈴木さんが特攻隊員に選ばれる2カ月ほど前の1945年3月、水中特攻の計画は始まっている。5月には、それがさらに具体化し、「伏龍」として姿を現した。

「伏龍」の特徴は、海中で自由に動き回ることができる潜水具にある。

当時は海上から空気を送る送気式の潜水具しかなく、海に潜る者は船とチューブでつながれていた。これに対し、横須賀海軍工作学校の研究員はこれまでの潜水用スーツを改良し、戦闘機の酸素ボンベや二酸化炭素吸収用の清浄缶を組み合わせた。

どういう構造だったのか。

当時の資料などによると、潜水者は腰付近の弁を自分で調整し、一定量の酸素を背中のボンベからスーツ内全体に供給する。吐き出された息はチューブで背中の清浄缶へ。その缶内でカセイソーダが二酸化炭素を取り除き、清浄な空気として再びスーツに戻される。こうした仕組みによって、長時間の潜水が可能になるという触れ込みだった。

簡易潜水器。総重量約80キロ。最大深度15メートル、潜水可能時間は最長約10時間(写真提供:防衛省防衛研究所)

後ろ姿。酸素タンクとカセイソーダが入った清浄缶を背負う(写真提供:防衛省防衛研究所)

「伏龍」計画の拠点は神奈川県横須賀市にあった。現在は、防衛装備庁の艦艇装備研究所などが置かれている。

鈴木さんら各地から選抜された特攻隊員はここで訓練を受けた。重いスーツを身に着け、砂浜を歩いて海の底を目指したり、船で沖合から海底に潜ったり。海の底での歩行訓練もあった。当時の資料によると、最終的には約6500人が集められ、訓練後、敵の上陸に備えて各地へ散らばる予定だったという。

「伏龍」の開発者は、海軍上層部へ提出した「簡易潜水器ノ実験研究」(1945年6月)で、浮上・潜水は容易であり、水中の行動も簡単だ、と誇っている。

「伏龍」の訓練が行われた三浦半島の野比海岸。重い装備を身に着け、少年たちはここから歩いて海に入った(撮影:オルタスジャパン)

実際は違ったようだ。

元「伏龍」特攻隊員で、戦後は出版社に勤務した故・門奈鷹一郎氏の著書『海軍伏龍特攻隊』によると、カセイソーダの誤飲や海底に体を打ち付けるなどして、毎日1〜2人が死亡していたという。書籍の中で、元隊員は「100人から130人が命を落とした」と推測している。

その訓練はどのようなものだったか。爆弾付きの竹やりで敵舟艇の底を突く作戦とは何だったのか。鈴木さんの証言を交え、「伏龍」特攻隊の姿を動画で振り返った。

ほとんど事故死 「相方は顔中血だらけで」

三浦半島にあった海軍対潜学校に鈴木さんが入ったのは、1945年6月だった。「伏龍」の訓練では、80キロの重装備を身に着け、海に潜る。最も重視されたのは呼吸法だ。

「鼻から吸って口から吐く。これを100パーセント守る。(間違えて)鼻から息を吐いたら(スーツ内の)炭酸ガスが増えるから、中毒になって動けなくなる。(弁を開けば)新しい空気がシューッと出るのに、それができなくなってしまう。(1回の潜水で)5回間違えたらあの世です」

最初のころ、空気量の調整を間違った。あわてて呼吸法を忘れ、意識を失ったことがある。命綱を握っていた相方がそれに気付き、助かったという。

厳しかった訓練について語る鈴木さん(撮影:オルタスジャパン)

その相方は、別の事故で死亡した。

「(相方の少年は訓練中)命綱が無反応なので急いで引き上げて、マスクを取って……。そしたら顔中が血だらけで、目玉が(飛び出して)あごの方についている。それでもまだ息がある。手を上げてね、わしの名前を何度も呼んでました。けど、手を握ろうとしたらパッと落ちて(息が絶えた)。そしたら、班長が『鈴木、貴様の責任じゃない。これは事故や』って」

鈴木さんによると、ほかの少年たちは、背負った清浄缶に関わる事故によく遭遇した。

清浄缶はブリキ製で、指で押すとベコベコするほどの強度しかない。缶の内部には、劇薬のカセイソーダが詰まっているのに、呼吸法を間違えたり、海底の障害物で缶に穴が開いたりすると、この劇薬は逆流して口に入る。

「(そうなるとカセイソーダは)のどを通っていきますから、もだえ苦しむ。海上に引っ張り上げたときはもう遅い。みんな真っ青になってね、死んだの」

岡崎航空隊から来た7人ほどの仲間は、鈴木さん以外、全員が訓練で命を落とした。

船からの潜水訓練。鈴木さんはこのとき、気を失う事故を起こしたという(写真:鳥取県の航空自衛隊美保基地提供)

訓練地の地元、横須賀市立野比中学校にある「伏龍」の模型。門奈鷹一郎氏が寄贈した(撮影:オルタスジャパン)

防衛大の元教官「現場を知らぬ上層部の考え」

神奈川県鎌倉市には、「伏龍」の実戦配備計画があった。その稲村ガ崎地区には、出撃基地の跡が残っている。海上から見ると、崖下に横穴の入り口と出口が見える。

特攻隊員はここに潜んで、海に潜る機会をうかがう手はずだったらしい。米軍が上陸前に行う艦砲射撃をこの空間で耐え、やむと同時に海中に入る。視界の利かない海中を、爆弾の付いた約5メートルの竹やりを携えて進む。腕に付けたコンパスと歩数が、配置場所の頼りだったという。

「伏龍」計画は一度も実行されないまま、日本は敗戦を迎えた。では、仮に実行していたら、どうだったか。「伏龍」の研究を続けている元防衛大学校准教授の色川喜美夫さん(67)と鎌倉市の跡地などを歩きながら、見解を尋ねた。

元防衛大学校准教授の色川喜美夫さん(撮影:オルタスジャパン)

「今から考えると、その現実性、実効性はほとんど期待できなかったと思うんです。棒機雷(竹やりの先の爆弾)にどの程度威力があるのか、どの程度の被害が敵に出るのか。(作戦では、海底に50メートル間隔で特攻隊員が待ち伏せする計画だったが)隊員にどんな被害があるのか。そういうことを、ほとんど検証することなく始まってしまった。待ち伏せポイントに敵の船が来なければ、海底で酸素がなくなるまで待機せざるを得ない。成果が期待できない特攻作戦だったと思います」

「ただ、ただ、机上の作戦構想の中で、配置して、そこに敵が来て、それを下から攻撃すると。それで敵が損傷を受ける、あるいは沈没すると。そういう短絡的な成果を期待していた気がします。現場を認識していない、上層部の考え方です。海軍は最後、若い人たちに依存して、実効性をある程度無視した行動として、軍令部が考えたのではないか」

色川さんによると、「伏龍」の訓練が始まって間もない1945年6月、海軍出身の鈴木貫太郎首相が視察に訪れた。当時は「聖戦完遂」を主張する軍部と終戦を模索する鈴木首相との間で、ギリギリのやりとりが行われていた時期。首相一行は訓練が一望できる丘に陣取った。

神奈川県鎌倉市。稲村ガ崎の断崖には「伏龍」特攻隊基地の跡が残る。海側からは横穴の出入り口が見える(撮影:オルタスジャパン)

この訪問は公式記録に残っていないが、鈴木さんも「偉い人が来た」ことを覚えている。

「(砂浜を歩いて)海に入るとき、みんなうまく入ってね。俺もうまく入ろうと思ったら、5分経たんうちに、(丘の上の)真ん中に座っている背広の人が立ったり座ったり、モゾモゾしだして。すっと、その男の人は立って、向こうへタッタッタッと。(随行の)佐官連中も後を追うように行くの。みんなが死に物狂いで潜って訓練しているときに(不思議だなと思った)」

短時間で去ったのは、作戦として使えないと思ったからではないか。こんな作戦しかないなら、いよいよ日本は敗北を受け入れるしかない、と首相は思ったのではないか――。

鈴木さんはいま、そう感じている。

「伏龍」を模した約5メートルの竹竿。実物は、先端に重さ25キロの爆弾を取り付けていた。色川さんは「潮流のある海中で船底にこれを命中させるのは難しかっただろう」と言う(撮影:オルタスジャパン)

「死なんように、死なんように……」

敗戦間際の日本は、稚拙で無謀としか思えない特攻作戦を次々と打ち立てた。

沖縄周辺海域で実行された航空機による特攻作戦だけではない。艦艇史研究家の田村俊夫さん(78)=長崎県佐世保市=によると、改造した魚雷内部に人が入って操縦する人間魚雷「回天」、艇首に爆薬を詰めた潜水特攻艇「海龍」、木造の水上特攻艇「震洋」などがあった。海岸線などで敵を攻撃するための人間地雷や人間爆弾も計画されていた。

鈴木さんは、敗戦直前の訓練の日々をこう振り返った。

「とにかく、あしたの訓練、きょうの訓練を生き抜いていかんことには、国のために死ぬこともできない、と。その日、その日の命を守ることで精いっぱい。死なんように、死なんように、実戦に行くまで絶対死なんように。そう考えておりました」

「伏龍」の訓練が行われた野比海岸。海の底で方角を見失い、岸へ戻れなかった隊員は、行方不明のまま、今もここに眠っているという(撮影:オルタスジャパン)

人間魚雷「回天」=撮影年月不明(写真:アフロ)

水上特攻艇「震洋」=撮影年月不明(写真:アフロ)

【文中と同じ動画】

[制作協力]オルタスジャパン
[写真]
撮影:オルタスジャパン
提供:鈴木道郎さん、防衛省防衛研究所、航空自衛隊美保基地(鳥取県)、アフロ


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