高校野球はその理念に「教育の一環」を掲げる。一方で、夏の甲子園は毎年、80万人前後の観客を集め、全試合、全イニングがNHKによって生中継される。アマチュアスポーツにおいてこれほど注目を集める競技はない。それゆえ学校の宣伝効果やプロ野球のドラフト指名など、勝つことで学校や選手が得られる「報酬」の大きさを背景に、高校野球のあり方についてたびたび議論を呼ぶ。中でも過剰な勝ちへのこだわりは、「勝利至上主義」と揶揄されることも多い。はたして高校野球は「教育の一環」たりうる場なのだろうか。(ライター・中村計/Yahoo!ニュース 特集編集部)
勝つための5打席連続敬遠
四国の常勝チーム・明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督は、取材のテーマを伝えるなり、公認野球規則を引っ張り出してきて、「試合の目的」の中の条文を読み上げた。
「ここに、こうある。『各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする』と」
そう、野球を含むスポーツにおいて、勝利を目指すことは、最低限の前提条件であり、ルールでもある。
ただ、馬淵監督には苦い記憶がある。1992年夏の甲子園2回戦で、星稜(石川)のスラッガー・松井秀喜を5打席連続で敬遠し、3-2で勝利。しかし、この試合で「勝利至上主義に毒されている」と世間から猛バッシングを浴びた。
馬淵監督にしてみれば、5度の敬遠は、勝つための作戦だった。
「あれは運命なんよ。星稜に松井がおって、山口(哲治)という好投手がおって。うちは投手力が弱い。しかも1点差ゲームやろう。ホームランを打たれたら同点やから。2点差ついてたら、全部は歩かせてない。どれか一つの要素が欠けとったら、ああいう展開にはなってないと思う」
明徳義塾は「逃げた」という批判を受けたが、敬遠策はあくまで「選択」である。松井と勝負することよりも、1人走者を許してもいいから松井の次の打者と勝負することを選んだ。
スポーツ文化に詳しい明治大学の高峰修教授は、こう擁護する。
「野球のルール上は、何ら問題はない。敬遠の数が制限されているわけではないので。もちろん、ルールブックは起こりうることすべてを想定してつくられているわけではなくて、原理原則の部分しか書かれていない。そこと照らし合わせ、5回は多いだろうと言うことはできるかもしれませんが、そこは人それぞれの価値観ですからね」
馬淵監督はこう主張する。
「相手の弱点をつくことを否定したら、スポーツは成り立たない。テニスでバックハンドが弱い選手がいたら、そっちへ打つ。バレーでサーブを打つとき、レシーブの苦手な選手がいたらそこを狙う。当然のことですよね。それが戦略ですから。それもダメと言ったら、何もできなくなってしまう」
ほとんどの人が負けるのがスポーツ
高峰教授は「勝利至上主義と勝利主義は明確に区別されるべき」と話す。
勝利主義とはルールブックにもある通り、シンプルに「勝つことを目的とすること」だ。それに対し、勝利至上主義とは何なのか。高峰教授が説明する。
「勝利至上主義とは、勝つこと以外にスポーツの価値を認めない考え方です。この考えに支配されると、日本大学アメリカンフットボール部のタックル問題のように、勝つためなら相手を傷つけても構わないという行為につながってしまう。勝利至上主義がなぜいけないか。相手に危害を加えてしまう可能性があるだけではない。高校野球で最終的に負けないチームは1チームしかありませんよね? スポーツは、ほとんどの人が負けるんです。だからこそ、負けても何かが得られるものであることが重要なんです。スポーツが人生を豊かにしてくれる文化になりうるかどうかは、そこにかかっている」
高校野球に教育的要素が求められるのも、それゆえのことである。
そもそも「教育の一環」という言葉が盛んに使われるようになったのは、1910年代頃からだ。野球に熱中し過ぎる学生に対し、世間は「野球は害毒だ」と批判した。そんなネガティブなイメージに対する、一反論だった。だが、当時はまだ「教育的でもある」という言い方に過ぎなかったが、時代を経て「教育的でなければならない」と絶対的なものになってしまった印象もある。
ただ、高峰教授は「高校野球が学校の枠組みの中にある以上、勝ち負けを競うだけでは許されないのは仕方がない」と話す。
「世界中を見渡してみても、中学・高校にこれだけスポーツが入り込んでいる国は珍しい。それだけに教育的な配慮を求められる。海外でもカレッジスポーツなんかは、ビジネスモデルに乗っかりながらも、教育的なことも施しつつと、ぎりぎりのところでやっていますからね」
野球をやりながら授業もしている
高校野球の現場で、「教育の一環」はどう受け止められているのか。
現在の高校球界で最強と位置づけられているのが、大阪桐蔭だ。今春の選抜高校野球大会を含め、ここ10年で6度、全国優勝に輝いている。
同校野球部の西谷浩一監督に、ストレートに「教育的なことを求められることは野球の指導の邪魔にならないか」と尋ねた。すると「そんなことはないですね」と言下に否定した。
「野球というスポーツをやりながら授業もしているので、教師としての立場のほうが強いと思います。教師をやっている中に監督がある。どっちが職業かと聞かれれば、教師でしょうね。選手たちからも監督と呼ばれたことはない。私がそう呼べと言ったわけではありませんが、ずっと先生です。自然と、そうなっていました。わざわざ教育の一環だとは言わないですけど、選手たちにも私の考えは伝わっていると思います」
選手だけでなく、西谷監督自身も学ぶことがあると話す。10年ほど前の春の大阪大会で、公立高校と対戦したときのことだ。
試合序盤、大阪桐蔭のある打者がフライを打ち上げたとき、一塁への全力疾走を怠った。西谷監督はチーム全体の士気にかかわると考え、試合中にその選手を厳しく叱責した。攻撃中はサインも出さずに叱り続けているうちに、試合は大阪桐蔭の5回コールド勝ちで決着していた。
すると後日、その公立高校の選手の保護者から、大阪府高野連に西谷監督の振る舞いを非難する手紙が届いた。その手紙はファクスで西谷監督の元に回送されてきた。
「途中から試合を無視して、自分の選手を怒ってばかりいたことについて、『相手に失礼だ。試合が終わってから怒るべき』だと書かれていました。主力選手の怠慢プレーだったので、僕は今怒らないといけないと思った。それは今も、間違っていなかったと思っています」
ただ、その手紙には、組み合わせ抽選後、公立高校の選手たちが大阪桐蔭と対戦できるかもしれないと、人が変わったように練習に励むようになったということも書かれていた。だからこそ、監督に目の前の試合に集中してほしかったのだ、と。
「最初に読んだときは正直なところ、『何言っとんねん』と思いました。しかし気になって、何度も読み返すうちに、相手校の気持ちに思いが至るようになりました。自分の考えを曲げる必要はないと思いましたけど、中には、大阪桐蔭が相手だということで、そういう気持ちで大会に臨んでいる学校もあるんだということを頭のどこかに置くようになりました。本当にいいチームだったんでね」
何ごともがんばりましょうという“文武両道”
教育の一環だと言うからには、部活動によって学業がおろそかになってはならない。ただし、大阪桐蔭に入ってくる選手は、最初は全員がプロ志望だ。大学に進学する選手でも、ほとんどが推薦制度を利用する。西谷監督いわく「一般受験をする選手は4、5年に1人」だという。つまり、一般学生ほどには大学受験のための勉強は必要ない。西谷監督はそれでも「文武両道」も否定しなかった。
「文武両道と言っても、プロを目指しながら東大も目指すということではない。何ごともがんばりましょうという意味の文武両道ですけどね。試験前日に寮でみんなで勉強したり、若い先生に教えてもらったりしています。そこは、親心ですね。全員が一生、野球で飯を食っていけるわけではないので、長い目で見たらそのほうが彼らのためになる」
それにしても、強豪校の選手は大変である。文武(学業と競技)の二つに加え、「スポーツ選手らしさ」という名のもと節度ある振る舞いを求められる。そんな風潮に対し、スポーツ心理学を研究する法政大学・荒井弘和教授はこう指摘する。
「大学生の本分は学業です。それを承知の上で、あらためて文武両道を考えてみますと、体育会に属していない一般学生に『武』は求められません。一方で、体育会の学生は『文武』の両方を求められます。その上、一般学生以上に忍耐強いことが求められ、生活や態度もきちんとするべきだと言われる。我々はアスリートに求め過ぎではないでしょうか。文武を追求するのはよいことですが、そのプレッシャーに押し潰されて、心身を壊してしまう体育会の学生もいます」
効率を考えたら、ずば抜けた才能の選手は勉強に割く時間をスポーツに費やしたほうがいいのではないか。むしろ、スポーツで成功するためには一般学生と同等の課題は妨げになるかもしれない。しかし、荒井教授はそうした極端な思想に対してこう釘を刺す。
「突き抜けた天才的なアスリートの存在は否定しません。しかし、ごく一部の天才的なアスリートを育成しようとすることは、教育的現場で指導をするコーチの主な仕事ではないと考えています。例えば、あるクラブの学生たちが、ちゃんと授業に出席するようになって、一生懸命レポートを書くようになったなと思っていると、そのクラブが急に強くなりました。体育会の現場にいる私には、文と武が関連しているという確信があります」
自分なりの“価値観”を見いだす
荒井教授は、倫理や道徳を考える上で、スポーツは格好の教材になると話す。
「スポーツは、倫理的に正しいと考えられる答えが一つじゃないんです。相手の弱点をあえて狙わずに敗れ『グッドルーザー』と賞賛されることもあれば、全力を尽くさないのは失礼だからと相手の弱点を攻めて勝利につなげることがスポーツの本質だという考え方もあります。どちらも正しい答えといえるでしょう。新しい時代の教育手法としてアクティブ・ラーニングというやり方があります。大事なのは、教員が子供たちに価値を押し付けることではなく、子供たちに価値について考える機会を提供して、子供たちが自分なりの価値を見いだせるよう、支援することなのです」
明徳義塾が松井を5敬遠したときも、是か非か、世間では盛んに議論されたが、答えは一つではなかった。馬淵監督はため息交じりに言う。
「答えは出んよ、一生」
高校野球とは何か、ひいてはスポーツとは何かという問いかけは、馬淵監督だけでなく、他の当事者たちにも向かってきたはずだ。
試合直後、星稜の当時の監督だった山下智茂さんは、明徳義塾の作戦に対し露骨に不快感を示した。しかし、その10年後、2002年夏に明徳義塾が初優勝を遂げると、翌朝、馬淵監督に祝福の電話をかけた。
それは10年かけて山下監督がたどり着いた答えでもあった。
高校野球が「教育の一環」であるか否かは、時と場合にもよる。ただ、明徳義塾対星稜の試合は、さまざまな人に考える機会を与えた。高校野球は「勝つことを目的とする」だけでも十分、教育になりうる。
中村計(なかむら・けい)
1973年、千葉県船橋市生まれ。同志社大学法学部卒。スポーツ新聞記者を経て独立。スポーツをはじめとするノンフィクションをメインに活躍する。『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(集英社)で講談社ノンフィクション賞、『甲子園が割れた日』(新潮社)でミズノスポーツライター賞最優秀賞をそれぞれ受賞。近著に児童書の『王先輩から清宮幸太郎まで 早実野球部物語』(講談社)がある。趣味は演芸鑑賞、京都旅行、ボートレース。
[写真]
撮影:宗石佳子
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝