日本において、セクハラはいつ頃から認識され、社会のなかでどう捉えられてきたのだろうか。女性の生き方についての著作が多いエッセイストの酒井順子さんが、100年分の雑誌をもとに読み解く。(取材・文:篠藤ゆり/撮影:木村直軌/Yahoo!ニュース 特集編集部)
1979年、アメリカ女性からの報告
日本で初めてのセクハラ訴訟が起こされたのは、1989年である。福岡市内の出版社に勤務していた31歳の女性社員が退職後、上司だった37歳の男性編集長と元勤務先の会社を相手に起こした民事裁判だ。裁判は注目を集め、「セクシャル・ハラスメント」が同年の新語・流行語大賞で新語部門・金賞に選ばれる。1992年、原告女性が勝訴し、編集長と会社は165万円の支払いを命じられた。
「流行語になったことで、『それ、セクハラですよ』と言える空気が生まれたのだと思います。とはいえまだ、『昔はみんなやっていた』『大したことじゃない』という感覚の人が多く、真剣には捉えられていなかった。その後、ポリティカル・コレクトネス(偏見や差別を含まない中立的な言葉)の意識が次第に広がり、企業内にもセクハラ相談室ができるなど、『セクハラはしてはいけないこと』という認識がじわじわと浸透してきました。いま、#MeTooが話題になって、職業人としてのキャリアに関わることだと意識されるようになってきたと思います」
そう語るのは、エッセイストの酒井順子さんだ。2003年、「30代以上、未婚、子ナシ」の女性をあえて「負け犬」と定義しつつ、著書『負け犬の遠吠え』で自立する女性にエールを送った。ベストセラーになった同書のほか、これまで数々の著作で日本女性の生き方を多角的に見つめてきた。
酒井さんはこの6月、『百年の女――「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』を上梓した。2016年に創刊100年を迎えた女性誌『婦人公論』の歴史をひもとき、日本女性がいかに生きてきたかを振り返っている。
「雑誌には、登場した人たちの本音が無防備に表れています。雑多な情報が詰め込まれていますし、次の号が出たら消えてゆくからこその、生々しい姿が切り取られているのです」
100年の誌面において「セクハラ」はどのように取り上げられてきたのだろうか。
「初出は1979年12月号です。『アメリカ女性からの報告』として、『職場での性的いやがらせ』という記事が掲載されました。当時アメリカでは、リン・ファーレイという女性による『セクシャル・ハラスメント』を告発する本が話題を呼んでいました。記事はその抄訳で、『性的いやがらせ』と訳したんですね。本について、『職場の男性から受ける迷惑行為の実態に初めて女がメスを入れた』と説明されています。記事内に、からだをジロジロ見る、さわる、しつこく言い寄る、強姦未遂などの事例が挙がっていました」
同じ号に、「丸の内の某副社長の秘書密着癖」「アルバイト女子学生を襲った塾長」「児童文学者の正体見たり忘年会」など、日本女性から寄せられた手記も掲載されている。「『いい体、してるねえ。いつもそう思って見てるんだよ』(略)上司の手はヒップをさかんに愛撫している」といった記述があった。
「それから10年ほど経った90年1月号、セクハラという言葉が広まった頃、セクハラをテーマに座談会が掲載されました。この時代の空気をよく表している記事だと思います」
参加者は、女優と男性脚本家、女性漫画家、女子短期大学の副学長だった男性。「上司に追いかけられて、壁におしつけられてスカートを脱がされた」という実例に関して、女優は「昔からあったこと、ただの女好きでしょう」、男性脚本家も「なんでもかんでも事を荒立てちゃう」と話している。
女性漫画家は「ハラスメントだって騒ぐ人は、案外仕事も出来ないかも」「変な逆恨みを男の人に向けちゃまずい」と発言。女子短期大学の副学長は「ハラスメントをとやかく言う前に、相手の気持を黙っていても汲みとれるようになるほうが、よほど大切だと思います」「男性の弱味につけ込んで、女性の地位を向上させていくようなやり方ではなく、男が心から頭が下がってしまうような、尊敬されるやり方」をしてほしいと語っている。
「この座談会は、全員『女が悪い』で終始しています。セクハラが話題になったとはいえ、女性が何かキーキー騒いでいるという捉え方が一般的だったのでしょうね」
「晩婚は文明の汚辱」――「晩婚税」を課す
「女が悪い」という言説は、大正時代から見られると酒井さんは言う。当時、大正デモクラシーの機運のなか、職業を持つ女性が徐々に増えてきていた。
「1924年7月号で、『現代職業婦人の印象と批判』という特集が組まれています。そこでは、男性の文化人、知識人が『世の職業婦人諸姉に反省を促しておきたい』『職業婦人というものをみると、かなり激しい誘惑を感じる』、誘惑するほうが悪いと堂々と語っているのです」
そもそも大日本帝国憲法の下では、女性には選挙権、被選挙権が与えられず、財産を持つことも許されていない。離婚に際して財産分与を請求する権利もなかった。法律で女性への差別が定められていた時代である。
1937年に日中戦争が開戦し、翌年、国家総動員法が制定される。1939年、厚生省が「結婚十訓」を発表。「産めよ殖やせよ」の方針が示され、女性のもっとも重要な任務は「出産」に。同年9月号では、医学博士が「人的資源獲得のためもう少し初婚年齢を早くする必要がある」と発言。同号で厚生省の役人も「晩婚は文明の汚辱」であり、「独身税」や「多産者の免税」のみならず「晩婚税」も課せばよいと書いている。1941年には、結婚十訓に適う優生結婚をした者を表彰し、産児奨励金を出すという制度ができた。
「戦争が終わると、今度はもう植民地が得られないので多産はダメ、産児制限しろと言われる。そして昨今でも、少子化が進むなか、厚生労働大臣から女性は『産む機械』という発言があったり、参院議員が『4人産んだら表彰しては』と言ったりしています。産む・産まないは、常に政治の道具にされてきたんですね」
「BG」に対する冷たい風当たり
敗戦後、日本国憲法によって、突如として男女同権が認められた。
「制度的に男女の立場が近づいても、一気に生活が変わるわけではありません。急に夫が家事を手伝い始めるわけでも、妻を殴らないようになるわけでもない。戦後も著名人による、『(女性は男性と)知能の程度が同等でない』『(女性には、男性から)なぐって欲しいという気持があるんですね』といった、いま聞くと“トンデモ”な発言が掲載されています」
1957年11月号には、大手新聞社の部長が、女性を採用したことのある企業の男性たちに話を聞き、「泣いて職場の花を切る」という記事を執筆。記事のなかである男性は「女なんて女房とコビを売る商売以外に、適業なし」と言い切っている。
この頃、働く女性たちは「BG(ビジネス・ガール)」と呼ばれていた。
「1963年3月号では、いまで言うセクハラについて言及されています。文芸評論家が、BGがお尻を触られたりすることに対して、『何かあなたの方につけこますすきがあるからです。お嬢さんらしい清潔な気品があるBGに対しては、男性は決してそういうことをしないものです』と発言。『BG25歳定年説』なんていう話もあって、年齢ハラスメントは当たり前でした」
1964年の東京オリンピックを前に、BGという呼称はOL(オフィス・レディー)に取って代わられる。
「『BGという言葉は売春婦のことを示す』という説がささやかれるようになり、オリンピックを前にそれはまずい、という動きが起こったようです」
まもなくオリンピックという段になって、日本人が思い出したのは、敗戦後のパンパン(進駐軍兵士を相手にした街娼)のこと。「オリンピックでやってきた外国の男性と日本の女性が過ちを犯すのでは」という心配が募り、東京都民生局が「女性転落防止啓発キャンペーン」を展開。「みんなで守ろう、助けよう――婦人保護の手引き」というパンフレットを作成し、配布した。
暴力に「NO」を言えるように
70年代には、世界的規模でウーマン・リブが盛んに。とはいえ、実生活はまだまだ平等とはほど遠かった。1973年6月号の「男より定年が早いなんて」といった記事には、入社時に結婚退職の念書を取られるOLの例が記されている。
1975年の国際婦人年をきっかけに、男女平等社会へ向けての行動が活発に行われるようになった。「わたし作る人、ぼく食べる人」というインスタントラーメンのCMが、性役割分担を固定するものとして、放映中止になる。
1986年4月には、ついに男女雇用機会均等法が施行された。同年11月号には、医師による「キャリアウーマンの身体的メカニズム」と題した記事が掲載されている。「女性である以上、女らしさを失わず、魅力的な色気を持続させ、その上で、男性と対等、いや対等以上に持てる才能を発揮してほしい」「キャリアウーマンの性欲は男性並みに旺盛」「どう考えても名器とは言えない」などと記され、当時のキャリアウーマンに対する見方がうかがえる。
「1991年4月号の『女子学生就職戦線レポート』には、役員面接でホテルのロビーに呼び出され、『ちょっとぼくの部屋にこないか』『きみみたいなのタイプなんだなあ』とか、『キャリアウーマンなんてめざさないで、可愛くしていればいいんだよ』と言われたとか。均等法以降も、働く女性には、かわいい女の子らしさが当然のように求められていたんですね」
セクハラ同様、アメリカから入ってきた言葉にDV(ドメスティックバイオレンス)がある。
「1999年3月22日号に、タレントの女性によるDV被害の告白記事があります。戦後しばらくまで、『女は男に殴られたがっている』といった発言が散見されたことを思えば大きな進歩ですが、女性は暴力を嫌がっていて、『NO』と言ってよいのだという空気になるまで、ずいぶん長い時間がかかったものです」
「うまくかわす」ことがよいのか
「『婦人公論』は、そもそも女権の拡張、婦人の解放を目指して創刊された雑誌です。『男に反旗を翻す』記事が多いのかと思いきや、ありとあらゆる意見を載せてきている。女性を取り巻く環境の変化を読み取れる貴重な資料になっています」
酒井さんは100年の間に、「女性が丁寧に扱われるようになった」と実感すると言う。
「生き方の選択肢が増え、セクハラも訴え出ることが可能になった。とくにここ数年の変化は、大きいと思います。20年後には、いまを振り返って『セクハラを告発することが行き過ぎだって言われてたんだってね』と話しているかもしれません。例えばたばこも、『昔はみんな職場で煙をモクモクとさせて吸っていたけど、いまではあり得ない』となっている。変わりそうにないと思われていたことも、変わっていくのです」
いまも、セクハラを訴え出ることができない女性は多い。
「しばしば『うまくかわさなきゃいけない』と言われがちですが、そうすると嫌だということが相手にまったく伝わりません。後世のためにも、ちゃんと分かってもらったほうがいい。告発できなくても、友だちに言うとか上司に相談するとか、それぞれの声のあげ方があるかなと思います」
教育も必要ではないかと酒井さんは言う。
「『こういうことは相手が不快に思う』という社会のマナーを、学生の頃から教えるのも一つの手法かも。もちろん男子に対してだけではありません。女性も『男のくせに情けない』とか言うことがありますよね」
油断すると、社会は逆戻りする
今年1月、女優カトリーヌ・ドヌーブをはじめとするフランス女性100人がルモンド紙に寄稿し、#MeToo運動は行き過ぎであると批判した。高まる運動に対する反応は、温度差がある。
「『#MeTooとかやり過ぎだよね』と言う人もいるし、過敏に反応する人もいる。その両方の人がいて当然だと思いますし、両方いることを、みんなが知っているのが重要だと思います。そういう部分でも多様性はあるべきでしょう」
ただ、「油断すると、社会は逆戻りする」と酒井さんは指摘する。
「大正時代につかの間、女性が謳歌(おうか)した自由は戦争中、簡単に取り上げられました。1950年代には、戦後急速に民主化が進むなか、『逆コース』と呼ばれる保守回帰の現象があった。常にそういったせめぎ合いがあることを思えば、やはり過去を知ることが重要だと思います。いまは当然のように女性が持つ選挙権も、さまざまな人生の選択肢も、昔はなかったもの。長い時間をかけてやっと得られた自由なんだということを、100年を振り返って、しみじみ感じますね」
酒井順子(さかい・じゅんこ)
1966年東京都生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。大学卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業に。2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を受賞。『男尊女子』『子の無い人生』『枕草子REMIX』『an・anの嘘』『オリーブの罠』など著書多数。