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「共同親権」を巡る論点:当事者が安心できるアレンジが必要

筒井淳也立命館大学産業社会学部教授
(写真:イメージマート)

現在、共同親権の導入を含む民法改正案が国会で審議されています。長年続いた「離婚後は単独親権のみ」という体制からの離脱で、比較的大きな改定になります。この記事では、共同親権を考える上で必要になる背景の知識をいくつか説明します。

記事は長くなりますが、「そもそもお手軽に短く理解したい」という欲求は、考えるとっかかりとしては仕方がないと思いますが、具体的な態度決定・意見表明をする際にはあまり役に立たない気もします。

とはいえ長いですので、要点を下記にまとめています。

  • 親権は親子関係の一部であり、単独親権の現在でも、離婚後の別居親とは法的に親子関係であるし、養育や面会交流、その取り決めがなされることがある。ただ、基本的には当事者間の協議にまかされており、そもそも取り決めがなされていないケースが非常に多いという問題がある。
  • 共同親権の導入は、協議および調停の内容に追加の要素をもたらすため、親権あるいは監護の分担の取り決め・調整はかなり煩雑かつ困難な課題になる。にもかかわらず、改正案の現状ではやはり当事者間の協議が先で、不調の場合に家庭裁判所による調停がある、という位置づけになっている。
  • 概して離婚後の養育については、「共同で行うのかどうか」は論点ではない(すでに日本でもある程度の養育の共同性は協議・調停次第で可能である)。肝心なのは、どう交渉し、どう実施し、(うまくいかない場合)どう見直すのか、ということである。当事者の心理的・身体的安全が前提であり、さらに調整に当たっては子どもの利益が中心、という方針が建前としてはとられているが、これをどう実質化するのかが議論のポイントになる。
  • 心理的・身体的な安全が確保され、共同監護についての合意とその体制作りが無理なく実施できるのなら、反対する人はそれほどいないだろうが、この課題こそが非常に難しい。家庭裁判所の運営方針にバイアスがかからないという保証も難しいし、そもそも調停にあたる人員が足りていない。
  • 国会では共同監護の詳細について最低限の議論がなされているが、全く成熟していない。法律とはそもそも細かなポイントについての指示を与えるものではないが、運用については議論を重ねておかないと無用な混乱を招く。

以下、いくつかのポイントについてもう少し詳しく書いていきます。

▼「親権は子どもの権利だ」という考え方になっているが…

いきなりややこしい話になりますが、親権という概念について、国際的に共有した意味内容はありません。日本語の親権にあたるズバリの英語も存在しません。ただ、親権あるいはそれに類する言葉が、法的に規定される親子関係とは別に、その一部をなすのだと考えられていることは共通していると思います。ですので、以下でも海外について触れるときは「親権に類する概念」を想定しています。

法的な親子関係は、(女性であれば)分娩、出産した女性の配偶者であること(婚姻あるいはそれに基づいた嫡出推定)、認知、養子縁組を通じて確立します。親子関係が確立すれば、相互の扶養義務と相続関係が発生します。この法的親子関係は、親の離婚によっては解消されません。親権を持たない没交渉の別居親を介護する法的義務さえ、子は持たされています*。法的親子関係を自分の選択として断ち切ることはほぼ不可能です。死別か、(他の親との)特別養子縁組が必要です。ましてや親の離婚では親子関係はなくなりません。他方で親権が停止するのは、子の成人や、虐待等による裁判所の措置(正確には喪失・停止・制限の3種類)などです。当然、親権が停止しても親子関係はなくなりません。

*具体的には、相互の相続権と扶養義務、そして未成年の婚姻ならびに養子縁組の同意権が残されます。

親子関係には様々な側面があります。法的なつながり以外にも、遺伝的なつながり、経済的支援、同居と養育、(親子らしい人格的な)情緒的つながりなどが主な親子関係の要素です*。これらは多くのケースでひとつの親子関係の中に混在していますが、別になることもあります。生殖補助医療や(孫養子などを除けば)養子縁組では親子間に遺伝的つながりがないことも多いですし、配偶者の連れ子との関係は(養子縁組しない限り)法的な親子関係ではありません。

*もう少し言えば、子どもの養育という要素において、親が果たす役割は中心的ではありますがすべてではありません。児童手当や保育、(施設や里親などの)代替養育などの公的制度も、養育の非人格的な要素です。

親権あるいはそれに類する外国の概念は、親子関係のなかの子の養育、特に監護(日常の世話と代理決定)に関わる部分を法的に捉えた概念です。この概念自体が国によって多様であることも重要なのですが(したがって単独/共同親権という概念が意味を持ちにくい国もある)、さしあたりは「親権を取った方が親であることを続け、取らなかった方が親であることをやめる」というわけではないことに留意しましょう。親権がなくても離婚後にも(相続関係など)法的な親子関係は残りますし、子の経済的支援をする義務が生じ、また相互の扶養義務も残ったままです。ですので、離婚後の共同親権の有無とは関係なく、継続する法的な親子関係に基づいて、扶養(養育費負担)や別居親との交流のアレンジをする、という課題がすでにあります(面会交流が民法で規定されたのは2011年です)。その上で今回の民法改正案は、これらの親子関係要素の分担に、親権の分担を加えよう、という趣旨です。

ただ、何が付け加わるのか(これまでとどう違うのか)は、まだよくわかっていないのが現状です。養育費の負担はこれまでも調整が(不調な場合が多いとはいえ)ありました。おそらく顕著な違いは、共同親権になった場合、「別居親との(単なる)面会交流や一時的な自宅滞在」ではなく、二人の親の間での「同居・監護の配分」の調整になる可能性がある、ということでしょう。例えば、夏休みの間だけ別居親のもとで過ごして監護を受ける、といった取り決めです(英語だとcustody exchange、transitioning、swapといった言い方になります)。監護権は(特殊なケースで分離されることを除いて)親権の重要な部分を占めます。これまでの面会交流の実務では監護親・非監護親・子という当事者が想定されていたのが、二人の監護親と子、という当事者構成になる可能性があるわけです。

この点が、監護の分担の難しいところです。生活を共にしていない二者が子についての個々の、場合によっては急迫した決定(居住地、進学、治療等)についてその都度連絡を取りあって合意するということは非現実的で、場合によっては子のためにならないからからです。たとえば日本の場合、親権の身上監護権には子の居住指定権があり、監護を分担する場合、別居親が同居親の居住地選択に介入するのか、という議論が生じます。この点についてもまだ国会での審議が熟していません*。

*共同親権下における単独決定が許される「急迫の事情」とは何か、という議論です。

また、離婚した親による分担監護は子どもの生活や心的状態にとって大きな意味を持つため、法制審議会の「家族法制の見直しに関する要綱案」(令和6年1月30日)では、「親権は子どもの養育に関する規定で、基本的には子どものための制度であるべき」という方針が改めて確認されています。単独親権下での面会交流でもこれは大きな課題ですので、民法(第766条)にも(面会交流の協議では)「子の利益を最も優先して考慮しなければならない」と明記されています。比較的長期の宿泊を伴う監護の分担では、この課題はさらに重要になります。

『要綱』の冒頭には、はっきりと「子ども優先」の方針が明記されています。民法の親権の定義(第818条「親権者」および第833条「子に代わる親権の行使」)についても、この方針に沿った改定を要求しています。たとえば下記の文章です。

親権の性質の明確化:民法第818条第1項の規律を次のように改めるものとする。
親権は、成年に達しない子について、その子の利益のために行使しなければならない。

これまでも親権の有無にかかわらず親子関係は子どもの権利や福祉に資するものであるべきという基本方針がありましたが、さらに親権もその方針に服するものであるべき、と念を押しているわけです。同居・監護の分担が可能になる共同親権下において、子どもの生活については特に慎重に配慮すべきですから、ことさらに「親権は子どものための制度だ」ということを強調する意味があるのです。

親権を親の権利ではなく子の権利と理解するのは、先進国にある程度共通した潮流です。ドイツでは、1979年の法律で「親権(elterliche Gewalt)」ではなく「親の配慮(あるいは親の看護、elterliche Sorge)」という言葉を用いるようになりました。国際的な議論でも、かつての親のauthority(権威)という概念は用いられることが減り、監護(custody)や養育(parenting)、親の責任(parental responsibility)といった概念の使用が増えてきました*。いずれにしろ共同養育・親権は、親が共同で子どもを養育・代理する権利というよりは、子が両親から養育・代理を受ける権利だ、という理解が出発点になっているのです。

*参考までに、「共同」に対応する英語はsharedあるいはjointで、joint custody、shared parental responsibilityといった言葉が用いられます。(面会交流は、access、visitation、parenting timeといった表現です。)ただ、jointとsharedは、使用の際のニュアンスが異なるので注意が必要です。

もちろん、「どちらが親権をとるか」という言い方に典型的にあらわれるように、親権は「子と同居し育てる権利」という、親の権利としての側面があることは確かで、一般にはこちらの理解の方が浸透しています*。そして実際にも、共同親権(監護)の場合、双方が同居・監護と進路等についての決定権を分け合う場面が増えるのは間違いないでしょう**。

*「ハーグ条約」にしても、条約前文に「子どもの利益が最優先」と書かれてはいるものの、実際には「子どもを(事前の調停通りの場所に)戻す」ことが目的で、特定の時点での子どもの居場所と子どもの心的状態が、事前の調停と矛盾しないのかどうかは問題にされません。

**実際には海外でも子どもが親の間で過ごす期間が「半々」といったケースはまれで、たいていは拠点となる親元があります。それは当然で、子どもにとっては学校も友人関係もあるわけで、「半年はこちら、半年はこちら」といったスワップには無理があります。その意味では、監護が別居した親によって文字通り共同で実施されるといった実態はほぼないといえそうです。

こういった調整は非常に難しく、当事者に任せておいていいのかについては大いに議論の余地があります。それだけに、養育の分担体制を決める際の方針として、親の権利の分配より先に子どもの権利や生活の安心がある、という大前提を確認しておく必要があるわけです。この大前提は、子どもの生活の安心・安全を基準に親権者、養育費分担、交流のあり方を決めるという原則がある現状の(単独親権)制度と共通しており、ここに変更はありません。この原則をいかに実質化させるかという課題があることも、これまで通りです。ただ、調整(協議にしろ調停にしろ)の難易度が上がるわけです。

▼調停・協議の中身こそが論点、しかし困難な課題である

今回の改正案でも、当たり前ですが、DVや虐待等のケースなどで裁判所が共同親権が子どものためにならないと判断した場合には、(今でもそういったケースで交流が認められないのと同様に)共同親権が認められないことを明示してあります。

他方で、裁判所が介入するのはあくまで「協議が不調の場合」であるという方針になっています。これは離婚自体の判断と同じです。すぐにわかるように、ここに大きな問題が残されています。交渉・調整の難易度が上がるのに、基本的には当事者任せなのです。

欧米のキリスト教文化になじんだ人からすれば、日本における結婚と離婚の簡単さはおどろくほどです。そのせいもあり、日本では離婚の際の事前協議があまりなされません。ウェブ調査なので代表性は不明ですが(令和2年度法務省委託調査研究「協議離婚に関する実態調査結果の概要」)、協議離婚経験者のうち約半数が「離婚後の養育費」について「合意できなかった」あるいは「話し合っていない」と回答しています。子と別居親との面会については、6割以上が「非合意」「話し合っていない」という結果です。少し古いですが、厚労省「平成28年度全国ひとり親世帯等調査」だと、母子世帯の6割ほどが養育費の取り決めをしておらず、3/4ほどが面会交流の取り決めをしていませんでした。

日本において離婚の際に取り決めをあまりしない理由は、おそらく主に二つあります。ひとつは関係が壊れてしまった相手と没交渉になってしまうこと、あるいはそうしたいという思いです。「顔も見たくない」「一刻も早く関係を絶ちたい」「いっそのことなかったことにしたい」ということでしょう。先の調査では、別居相手と話し合いをしなかった理由で最も多かったのは「話をすることがいやだった」(37.9%)です。もうひとつの理由として考えられるDVや虐待のために話し合わなかったケースは、調査では4.1%と少数ですが、こちらも見逃せない状況です。

肝心なのは、交渉やその後の生活における安全と安心です。当事者の一部が交渉時に恐怖を感じてはならないし、かといって離婚後の生活のアレンジ(完全に関係を絶つ選択を含めて)は十分にしておくべきです。ここが難しいところです。脅威を感じる相手や、顔も見たくない相手と交渉しなくてはならないわけですから。

そこで、公的機関が「安全な交渉の場を設けて十分な調整をする、あるいはそれを支援する」という制度が拡充されれば、対応できるケースは多くなるはずです。「手続き中でも離婚後でも、安心・安全が脅かされないように配慮がある」ことを前提に、「面倒でも公的に手続きはしよう」というケースを増やすことです。

ここで注意すべきは、実質的な共同監護が広範に行われる場合、いくら公的機関が介入してもおそらく問題の根絶は不可能であること(諸外国でも現在進行形で問題の提起と対応が継続している)、さらに公的なアレンジメントは「一度やって終わり」にはならないということです。同居・監護の配分では、当初の取り決めに従って粛々と続けていくだけだと、かならずしも子どものためにならないというケースが海外で報告されています。養育・親権のアレンジメントについては、機に応じた対応が必要になります。

ともかく、共同親権の論点は「導入するかどうか」ではなく、離婚後の養育のアレンジメントをどう調整するのか、その仕組みをいかに構築するのか、にあることを確認しておきましょう。

▼議論のポイントは、これまでの課題の延長線上にある

離婚後の親子関係のアレンジメントという課題は、共同親権が導入されなくとも必要なものですし、課題山積ながらも、すでにある程度行われていることです。基本的には当事者間の協議で、協議が不調な場合には家庭裁判所が判断する、という手順です。共同親権の導入は、これらの調整にプラスの(しかも重大な)論点を付け加えるものだといえます。課題は「すでに必要とされている離婚後の親子関係の調整のさらなる実質化」にあるのであって、共同親権の導入はその課題を浮き彫りにしている、ということができるでしょう。

実際、民法766条などをもって、現行の民法でも共同親権的な運用(監護の分担)は可能である、という見方をする識者もいます*。実はこの論点は重要で、親権や監護といった概念の理解次第では、確かに「日本ではすでに共同監護が可能」という見方ができるのです(親権の分属、あるいは親権と監護権の分離)。たとえば同居ではないですが宿泊付きの面会交流は、現在でも非親権親とのあいだで行われることがあります。しかし子どもの進学、治療、転居といった決定にまで分担の内容を広げるとなると難しく、運用としてはこのような分割はほとんどみられません。なぜなら、実際に養育の諸要素を分離・分担することには困難があるからです。そしてこの困難は、共同親権の議論でも度々指摘されるものと同じです。

*この立場からすれば、「国連が共同親権導入を日本に要請した」のは、日本の実態についての誤解に基づくものだ、となります。

養育費分担も、従来の継続課題です。法制審議会の要綱案では、「養育費の請求権の実質的向上」も掲げられています。具体的には、養育費等の請求権に先取特権を付与するために民事執行法を改正するという案です。そしてこの課題は、共同親権の導入のいかんにかかわらず(現在でも)必要な措置です。さらに、附帯決議には次のように書かれています。

子の養育は、父母のみがその責務を負うものではなく、その子の養育をする父母及び子に対する社会的なサポートが必要かつ重要であり、また、ドメスティック・バイオレンス(DV)及び児童虐待を防ぎ、子の安全及び安心を確保するとともに、父母の別居や離婚に伴って子が不利益を受けることがないようにするためにも、法的支援を含め、行政や福祉等の各分野における各種支援についての充実した取組が行われる必要がある。
家族法制の見直しに関する要綱案に沿って民法等の改正がされた際は、家庭裁判所がこれまで以上に大きな役割を果たすことが見込まれるところであり、父母の別居や離婚に伴う子の養育をめぐる事件の審理に当たっては、改正後の民法等の規定の趣旨を踏まえた上で、子の利益を確保する観点から適切な審理が行われることが期待される。

これらの課題も、共同親権の導入がなくても必要なものですが、書かれているとおり、制度の改定にあたっては「家庭裁判所がこれまで以上に大きな役割を果たすことが見込まれる」わけです。

▼見切り発車での改正はよくない

すでに述べたように、日本で議論されている共同親権の導入は、「離婚後の親子関係(特に養育費や交流)を、子どもの権利や福祉の観点からいかに調整するか」というこれまでも存在していた課題に追加の検討要素を加えるものになります。

ただ、具体的に何が調整の要素として付け加えられるのかは、まだよくわかっていませんし、議論も全く尽くされていません。繰り返しますが、養育費や面会交流は、すでに調整のあり方が課題になっている問題です。これらは親権とは関係なく一定程度は行われています。

法的には、親権には身上監護権(世話をする権利あるいは義務、具体的には居住指定、職業許可、代理権)と財産管理権があります。別居親がこの権利を分有するということが一体どういう事態なのか、どういったアレンジメントが必要になるのかはまだちゃんと理解されていません。すでに述べたように海外のケースをみるとやはり同居・監護のアレンジ(例:普段は母親の元で過ごし、夏休みだけ父親のところで過ごす)が大きな課題になると思われます。養育関係は別居時においても継続しますが、日常生活の細かな養育方針まで別居相手と話し合う、といったことは非現実的です。ではどういった場合に別居親が親権を行使しうるのか、おそらく有識者でも明確なイメージが描き切れていないはずです。

さらに懸念されているのは、親権の分有が当事者間の安全を脅かすのではないか、ということです。これは当然の懸念で、公の場(ショッピングモールなど)での面会交流と違い、同居(宿泊)を伴う監護では当局の監視に限界があるし、また交流調整のための接触機会も増えるからです。

国会では、日常行為やDVからの避難のための単独親権行使の際のガイドライン明確化を求める付帯決議がされています。この明確化にはかなり時間がかかるはずで、見切り発車で改正の施行をすることは許されません。

▼最後に:当事者の身体的心理的安全が大前提だが…

すごくシンプルに言ってしまえば、出発点として子どもの権利・生活保障・心理的安定があり、加えて当事者(特にDAがある場合)の安全が確保されるべき、という条件があります。これらに資するのであれば、養育環境はどんなパターンになってもよいわけです。共同親権(同居・監護の分担)がこの目的に沿って運用されればそれに越したことはありません。法と制度の理念もそのように決められるはずです。

難しいのは、何が子どもの生活にとってよい状態なのかはたいていの場合曖昧で、当事者間で対立しやすいということです。同居期間が短い監護親は、他方の親に対して「子どもに悪口を吹き込んでいる」と感じることもあるでしょう。面会交流についての調査では、当然と言えば当然ですが、同居親はマイナスの影響を、非同居親はプラスの影響を報告しています(「親子の面会交流を実現するための制度等に関する調査研究報告書」の「当事者アンケート」)。当事者すべてが納得する解決は難しいですが、当事者の身体的・心理的安全は前提として、「上手く行っていないのならば養育体制を再調整する」という体制を作る必要があります。

そしてそのためには、家庭裁判所をはじめとするエージェントの大幅な機能強化が必要になります。司法は完全な法的機関なので無料ですが、人手不足です。実際の面会・監護の監視(立ち会い)は弁護士や面会交流を支援する非営利団体が行うことになりますが、かなりの金銭的負担になります。弁護士だと顧問料(10万円程度)のほかに面会の立ち会いが1回数万円です。非営利団体だと金銭負担は小さいですが、交流の場所が指摘されるなどの制約があります。別居親の養育費に頼らざるを得ないようなケースは、DA(domestic abuse)被害者側での申し立ての萎縮につながる可能性もあります。「子どもの利益」という名目で別居親の養育費があてにされてしまうことが問題含みであることに留意すべきです。

他方で、司法・行政が管理すれば相手方の親元に子どもが滞在中に殺害される(あるいは心中してしまう)といった悲劇的なケースがなくなる、とは限りません。当局の調整方針にバイアスがかかっていることもあるでしょうし(とにかく面会交流を促進する、といった方針で運営されることもあります)、なにしろ離婚しているわけですから当事者間には感情的なもつれがあります。離婚相手を傷つけるために子どもを利用することを防がなければなりません。完全な安全を実現することが前提なら、司法や警察力の家庭への強度介入(常時監視)を制度化するか、さもなければ同居・監護の分配はそもそも無理だ、となります。

ただ、離婚していない場合も、我々はある程度の家族からの脅威にさらされています。日本では、殺人の約半数は親族によるもの、とされています。配偶者間の感情のもつれのほか、孤立した介護問題が背景にあります。これらを完全になくそうと思えば、そもそも私たちは家族を作るべきではありません。

結局私たちの社会での問題は、さまざまなデータ、ケース分析、そして論点を並べた熟議を重ねた上で、妥結点を探るしかありません。共同親権もそのなかのひとつだといえるでしょう。

とはいえ少なくとも、当事者の協議のみで分担監護が決められてしまうような体制、その余地があるような法改定は、非常にリスクが高いことは間違いありません。全体的に家族に対する支援(司法でも行政でも金銭でも)が不足している現状で、離婚していなくとも問題含みの家庭が、自主的に交渉のための十分なエフォートをひねり出せるはずはありません。ほかのことでもそうですが、「子どもの安全と安心が第一」といった理念は立派にあってそれに対応した法制度があっても、支援が必要な人のところには支援が届かないのが現状です。

以上から、現在の国会で審議されている案には、私は慎重な立場です。

立命館大学産業社会学部教授

家族社会学、計量社会学、女性労働研究。1970年福岡県生まれ。一橋大学社会学部、同大学院社会学研究科、博士(社会学)。著書に『仕事と家族』(中公新書、2015年)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書、2016年)、『数字のセンスを磨く』(光文社新書、2023)など。共著・編著に『社会学入門』(前田泰樹と共著、有斐閣、2017年)、『社会学はどこから来てどこへいくのか』(岸政彦、北田暁大、稲葉振一郎と共著、有斐閣、2018年)、『Stataで計量経済学入門』(ミネルヴァ書房、2011年)など。

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