将棋界の恩人・菊池寛と1946年『将棋新聞』創刊号に掲載された「将棋随筆」
いま筆者の手元には『将棋新聞』という、古びた新聞がある。桐谷広人七段から譲り受けた膨大な資料の中から見つかったものだ。
「株主優待生活の桐谷さん」としてすっかり有名になった桐谷七段は、将棋文献の大コレクターでもある。
桐谷七段の部屋にはまだ、多くの資料が置かれている。テレビで映された際には、文化財級の貴重な文献が残されているかもしれないと思って見ていただきたい。
『将棋新聞』創刊号は国立国会図書館などにも所蔵されていない。おそらくは、この広い世界に、いくらも残されていないものだろう。
発行日付は1946年(昭和21年)11月15日。敗戦後、先人たちが将棋界再興のため、やっとの思いで刊行したものだ。後世に引き継ぐべき、歴史的遺産と言ってよい。
『将棋新聞』一面には、菊池寛(1888-1948)の「将棋随筆」が掲載されている。文豪にして文藝春秋社長でもあった菊池は、また大の将棋愛好家だった。
筆者が知る限り、この随筆が読み返される機会はほとんどなかったと思われる。当時の将棋界の模様を振り返りながら、ここでその一部をご紹介したい。(かっこ内は最終的な肩書と生没年)
大野源一八段(九段、1911-1979)は現在の東京都台東区出身。1923年の関東大震災のあと、大野の一家は滝野川(現在は北区)へと引っ越していた。そこも空襲に遭ったというわけだ。
大野は縁あって、大阪の木見金治郎(九段、1878-1951)の一番弟子となった。大野は戦後、振り飛車を公式戦で多く採用し、その名手として知られるようになった。弟弟子の升田幸三(実力制第四代名人、1918-1991)、大山康晴(15世名人、1923-1992)が振り飛車を指し始めたのは、大野の影響が大きい。
大山の回想録に出てくる菊池とのエピソードが面白い。1936年夏、奨励会2級だった大山少年は師匠の木見に命じられて、大阪を訪れていた菊池と指すことになった。駒を並べ終わったあと、菊池は左側の香を引いた。棋士の卵である大山を相手に、香落の上手で指そうというわけだ。菊池がいかに腕に自信を持っていたかがわかる。頭に来た大山少年は、容赦なく一方的に勝利を収めた。帰ってから、大山は木見に叱られることになった。
文中に出てきた棋士の名を列挙すると以下の通り。
萩原 淳八段(九段、1904-1987)
梶 一郎八段(九段、1912-1978)
金子金五郎八段(九段、1902-1990)
塚田 正夫八段(名誉十段、1914-1977)
土居市太郎八段(名誉名人、1887-1973)
松田 茂行六段(九段、1921-1988)
山川 次彦四段(八段、1920-1994)
菊池がいかに将棋を愛し、また棋士を愛していたかがわかる。棋士に指導を受け、稽古料を払うことももちろん、棋士への支援となる。
萩原と梶の師匠である土居は、菊池に深く感謝し、次のような一文をつづっている。
『将棋新聞』発行に際して原稿を寄せたのも、菊池の好意だろう。日本将棋連盟が創立百周年を迎えた今年、終戦の日を前に、改めて先人の遺徳を偲びたい。
菊池は将棋に関して多くの文章を残した。先日刊行されたアンソロジー『将棋と文学セレクション』(将棋と文学研究会監修、矢口貢大編、秀明大学出版会刊)には「将棋の師」という菊池作の小説も収められている。興味のある方は、ぜひご覧いただきたい。