元領主の福原越後の没後160年、語り継がれる悲運の最期【宇部】
激動の幕末に長州藩で活躍
今年は幕末の宇部の領主、福原越後が1864年12月10日(元治元年11月12日)に自刃してから没後160年の節目に当たる。長州藩による禁門の変の責任を負った悲運の最期は、今も地元宇部で語り継がれている。 長州藩主毛利家の分家である徳山藩毛利家の出身。58年に長州藩の家老を務める福原家の家督を継ぎ、激動の幕末維新期に家老として藩の運営の中核を担った。家臣らの学校である維新館を整備するなど、宇部の発展にも尽力した。 64年、尊王攘夷の方針などを巡って幕府や会津藩、薩摩藩と対立する長州藩では、万倉領主の国司信濃、須佐(現萩市)領主の益田右衛門介との三家老が藩命により兵を率いて上洛。京都で幕府側の軍と激突する禁門の変を起こし、多数の犠牲を出して敗北した。 越後は負傷したが無事に帰藩。しかし、幕府の征討軍が迫る中、長州藩は和平交渉の材料とするため、三家老が責任を取って切腹することを決定した。当初は徳山藩に預けられたが、実家であることから岩国に移され、その地で無念の最期を遂げた。 時代が変わっても、市民は悲劇の領主を折に触れてしのんでいる。旧家臣の家柄である実業家の渡邊祐策らが中心となり、1928年に神原公園に銅像を建立した。ただし、戦争の影響で44年に供出され、現存はしていない。 福原家の菩提(ぼだい)寺で、越後の墓がある小串の宗隣寺(山中原浩住職)は、その命日に近い11月の第2日曜に越後と福原一族の法要「福星(ふくしょう)忌」を営み、この日に限り市民の墓参りが許される。 越後を祭る神社として1866年に創建された維新山の宇部護国神社(野村好史宮司)は、春季と秋季の大祭で、越後の霊を慰めている。春季大祭に合わせ、越後を顕彰する「福原まつり」を開催していたが、コロナ禍で2020年から中止し、担い手不足などで再開できていない。 野村宮司は「越後公は無念だったろうが、その犠牲が最終的には明治維新にもつながった。越後公を主祭神とする神社なので、この場を守りながら、その功績と精神を次の世代に伝えていきたい」と語った。