<小野憲史のゲーム時評>「ゲーム批評」の思い出(最終回) ゲーム批評を後にして
超硬派のゲーム雑誌「ゲーム批評」の元編集長で、ゲーム開発・産業を支援するNPO法人「国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)」元代表の小野憲史さんが、ゲーム業界を語る「小野憲史のゲーム時評」。最終回となる今回は「ゲーム批評」を去ってからの日々を語ってもらいます。 【写真】天野喜孝ら大御所も! 歴代の「ゲーム批評」の表紙イラスト
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いろいろあって会社を退職し、それに伴い雑誌「ゲーム批評」の編集長も退任した。2000年8月のことだ。次号の企画をたて、台割りを切り、原稿を発注し、あとは表紙イラストを残すのみだった。退社の原因は編集方針と経営方針の衝突で、具体的には表紙イラストを発注するか、それともイラストを使わずに経費削減するか、という話だった。いくら社長判断とはいえ、表紙を地味にして部数が上がるとは思えなかった。あとは売り言葉に買い言葉で、そのまま退職となった。未練が無かったといえば嘘になるが、潮時だった。売り上げのために雑誌を作るのに飽き始めていたからだ。
会社を辞めて何をするか。時間だけはたっぷりあった。会社都合の退職だったため、失業手当もすぐに出た。郊外に引っ越して家賃を浮かし、図書館とレンタルビデオ屋とスーパーを巡回する日々が続いた。あてはなかったが、他社に転職できるとは思えなかったし、そのつもりもなかった。会社にいるよりも、取材をしたかったからだ。そのうち、ポツポツとライターの仕事が入ってきて、気がついたらフリーライターになっていた。年収は変わらなかったが、休みの量が増えた。当時は週休3日から4日の生活だったと思う。遅れてきた夏休みを謳歌する日々が続いた。
浮いた時間で進めたのがゲーム開発会社への半常駐取材だ。編集長時代から付き合いのあったダイス(当時)のサイトウ・アキヒロさんが誘ってくれて、取材名目で会社に入り浸る日々が続いた。ダイスでは「糸井重里のバス釣りNo.1」シリーズをはじめ、任天堂の仕事を受注した経緯があり、貴重な制作秘話を聞くことができた。時には自分から知人を紹介することもあり、新しい案件受注につながったりもした。なにより、ゲームが作られていく様を、現場で観察できたのは刺激的だった。取材は実を結ばずお蔵入りになったが、ゲーム開発会社でフィールドワークができたのは、後の仕事に大いに役だった。