もっと知りたい北方領土(4) 突然やってきたソ連兵に島は奪われた
集落3倍以上のソ連兵が侵攻 丸2年以上続いた島民との混住生活
「皆さんにとって終戦は8月15日かもしれませんが、われわれにはそうではない」。 色丹島斜古丹で暮らしていた当時国民学校5年、得能宏さん(82)=根室市光洋町、千島連盟援護問題等専門委員=もその日を忘れることはありません。 終戦から2週間ばかりが過ぎた9月1日朝。登校途中、600~700人を乗せたソ連軍の船が入ってくるのを見かけました。「大人たちは『米軍が来る』と言っていたのに、船の旗を見て、来たのはソ連だと、初めてわかった」。急いで学校へ走っていきましたが、間もなくそこにもライフル銃を持ち、完全武装したソ連兵が6、7人入ってきたといいます。 「殺されるのではないか」。 得能さんは、当時斜古丹に住んでいた住民60世帯200人ぐらいと記憶します。それに対し、3倍ぐらいのソ連兵が現れ、なすすべはありませんでした。シベリア収容所行きだとは、だれも知らないまま、島を守っていた旧日本軍は、武装解除し、間もなく船に乗せられて島を去ります。こうした中、色丹島でも多数の島民が船で逃げ出しました。しかし、10月には荒れ始める海に、遭難者が出て、だんだん自力脱出は難しくなったと記憶しています。 その後、島には、兵士の家族が入り、ほかの民間人も移り住み始め、学校もソ連の子供たちと一緒に使用するようになりました。「最初は子供なりに互いの対抗心で相容れないところがあったけど、大人と違って、だんだん言葉のやりとりがスムーズになっていったんだ」。こうした混住の状態が3年目に入った1947(昭和22)年の秋、突然、「日本に帰すから、ソ連の船に乗る準備をするように」という命令が出ました。時間の猶予も与えられず、身の回りのものを持って島を離れるしかありませんでした。