原稿は「納期に来ない」かつ「機密書類」...「日本の一流翻訳家」がアメリカ側から受けた「酷過ぎる仕打ち」
紙原稿の本当のヤバさ
紙では、いちいち単語をキー入力しなければ辞書も引けません。知っている単語に思わぬ意味があったりするので、そういう確認を含め、辞書は1日に何百回も引きます。それを毎回キー入力するだけで1日に30分から1時間も余分に時間がかかってしまうのです。 また、あんな話、こんな話がどこかにあったよなと思っても、検索でみつけることができず、ページを繰って読み直す必要があります。電子データがなければ、所要時間が倍以上に延びかねません。 1セットのみというのも大問題です。私の手元には原稿が必要です。ぜんぶ訳し終えるまで、原稿ぜんぶが必要です。下巻を訳しているとき、上巻のあそこ、なんて書いてあったかなと確認するなど、上巻部分の原稿を参照することがよくあるからです。でも、上巻分の訳稿を早めに渡し、下巻を訳しているあいだに上巻の後処理をしてもらうなら、講談社さんの手元にも原稿がないと困ってしまいます。 それはまずい、なんとかしてくださいと強くお願いしました。当然ながら講談社さんも同じ意見で、米国側にぶつけてくれましたが、なにせ著者も著者についているエージェントも米国トップクラスの人ですし、今回は案件が案件で、すごく強気です。最悪を覚悟しておく必要がありますねという編集さんのコメントに心がずーんと沈みました。
原稿は遅れて分量は増える
結局、2週間遅れて7月1日の金曜日に原稿の半分ほどが届きました。3ヵ月半しかなかった翻訳期間が15%も縮んだわけです。不幸中の幸いは、ふつうに印刷された原稿だったこと。スキャン・OCR処理で電子ファイル化することができました。 さて、その原稿ですが、どうも、分量はかなり増えそうです。ぜんぶで15万ワードという話でしたが、届いた分だけで11.5万ワードもあるのです。この原稿の1ページが本でも1ページであり(本のデザイン次第で1ページの量は異なる)、総ページ数が米国アマゾンなどに発表されているとおりだとすると、全体で17万ワードくらいの計算になります。 でも、同封されていた目次によると章でちょうど半分までのはず。ということは、倍の23万ワードになる可能性のほうが高いでしょう。加えて、伝記の内容が現在に近くなればなるほど関係者が覚えていることが多くて取材もしやすく、ネタも増えるはずで、後半になるほど1章あたりの量が増えることも考えられます。最悪、25万ワードでしょうか。 これ、ほんとにクリスマス商戦にまにあわせられるのか? 書き上がれば出せる米国はいいとして、翻訳しなきゃいけない他国から無理だと悲鳴が上がるのでは? そう思ってしまう量です。 一番大変なのは私でしょう。英語→欧州言語に比べて英語→日本語は言語の違いが大きく、手間がかかるからです。英語を含む欧州言語は言語学的に「インド・ヨーロッパ語族」とまとめられたりするくらいでそれなりに似ています。対して日本語は系統からしてまるで違います。 そして翻訳というのは言語の壁を飛び越える営みです。似ている言語同士なら小ジャンプですむので、翻訳に要する時間もエネルギーも少なめです。対して、英語と日本語など違いが大きい言語だと大ジャンプが必要になり、翻訳に要する時間もエネルギーも増えてしまいます。 四の五の言ってもしかたありません。とにかく取りかかりました。 『訳出スピードは「三割遅れもザラ」...それでも筆者が『スティーブ・ジョブズ』の訳を通常の二倍速で成し遂げられた「舞台裏」』へ続く
井口 耕二(翻訳者)
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