“漂流するアメリカ”を描き続ける米インディーズ映画界の至宝、ケリー・ライカートが見つめるもの
今年開催された第36回東京国際映画祭で審査員を務めたケリー・ライカート監督。米インディーズ映画界の重要作家として高い評価を受けながらも、これまで特集上映以外では彼女の監督作が日本公開されることはなかった。しかし現在初の日本全国公開作となる『ファースト・カウ』(20)と、特集上映「A24の知られざる映画たち presented by U-NEXT」にて最新作『ショーイング・アップ』(22)が上映中だ。1994年の監督デビュー以来、“漂流するアメリカ”を描き続けている彼女の作家性や映画作りの姿勢とは。過去に特集上映を主催し、ライカート作品を積極的に日本に紹介してきた自主上映団体グッチーズ・フリー・スクールの降矢聡氏に語ってもらった。 【写真を見る】『ショーイング・アップ』でミシェル・ウィリアムズと4度目のタッグを組んだケリー・ライカート ■今まで隠され、日の目を見なかったものを丁寧に掘り起こし、語り直すライカート映画 川をゆっくりとくだるタンカーが悠然と映し出される。その川の周りに広がる森のなかを犬と散歩している女性は、犬のあとを追って白骨を発見する。彼女がその白骨を丁寧に掘り起こすと、そこには寄り添うように眠る2人の白骨遺体があった。次の瞬間、1820年代へと舞台は移り、映画はある料理人の男について語り始める。 『ファースト・カウ』のこの静かで美しい冒頭のシークエンスは、ケリー・ライカート映画の特徴を見事に表しているようだ。つまり、今まで隠され、日の目を見なかったものを丁寧に掘り起こし、語り直すこと。しかもその語られてこなかったものは、いまの私たちに無関係ではない。それどころかそういった無数の語られなかったものたちは、現在の私たちと地続きにあり、私たちを支えているということなのだ。 映画はこれまで多くの物語や出来事を語ってきた。それが積み重なると、ジャンルというものが形成される。例えば西部劇やロードムービーと言われるような映画たちだ。だがいままで語られてこなかったものたちを語るケリー・ライカートの映画は、ロードムービーのようでありながら、そのようなものにはならない。彼女の長編デビュー作『リバー・オブ・グラス』(94)に関して、監督自身は「道のないロードムービー、愛のないラブストーリー、犯罪のない犯罪映画」と評している。どこまでも遠くへ行ける道が目の前に広がっている者がいる一方で、どんな道も閉ざされてしまっている者たちもいる。愛を介さない関係のカップルももちろんいるし、犯罪など起こりもしない、取るに足らない出来事の連続である日常が私たちの周りにはある。そういった人々、物事をライカートは撮り続けている。 『ファースト・カウ』は西部開拓時代の料理人と中国移民の2人が盗んだ牛の乳で作ったドーナツで一攫千金を狙う物語。同じくアメリカの西部が舞台となる『ミークス・カットオフ』(10)も、西部劇にもかかわらず、西部劇と言われてまず頭に浮かぶような、力強い騎馬での疾走や勇ましい銃撃戦はまったくといっていいほど描かれない。その代わりに描かれるのは洗濯をしたり、編み物をしたり、小鳥にえさをあげたりしながら、ひたすらに歩く女性たちの姿だ。もちろん、西部開拓時代が舞台の映画は、男たちの銃撃戦や騎馬での争いだけを描いてきたわけではない。 たとえば、ウィリアム・A・ウェルマン監督の『女群西部へ!』(52)。この映画は140人もの女たちがシカゴから西部へと旅する映画であり、同作で描かれる馬車の描写とそっくりな場面が『ミークス・カットオフ』にも登場する。または、モンテ・ヘルマン監督の『銃撃』(67)のような激しい荒々しさとは真逆の、非常にミニマルかつ静かで観念的な西部劇もある。だからなにも、ライカートは、いままでにまったくなかった新しい視点を持つ、孤高の映画作家であると言いたいわけではない(かくいう私も上記の2作品の存在など、ライカート映画を知ったあとに、ライカート映画について色々な人と話していくなかで、さかのぼるようにして知ったのだけれど)。 ライカートの映画は、多くの人が思い浮かべるであろう、従来のイメージと反するものを捉えていることは間違いない。メインストリームにはならなかった、途切れてしまった流れを引き継いでいくことが彼女の仕事である。まさにかつて存在した名もなきものたちの白骨遺体を掘り起こし、彼らの話を物語るように。それは、かつて小舟で一頭の牛を運んでいたが、今ではタンカーが悠然とくだっている、脈々と引き継がれる川の流れに改めて思いを馳せることでもある。 メインストリームで特権的な存在の影に隠されて、いままでなかったことにされてきたものたち。そんな実は存在していたものについて語ろうとするときのライカートの方法はどのようなものだろう。とても興味深いのは、ライカートは影に光を当てて語られざる存在を浮かび上がらせるというより、その影をじっと見つめて、小さな声を聞き取ろうとするところだ。 ■時代も主題も違う『ファースト・カウ』と『ショーイング・アップ』だが、どちらも友情と孤独についての映画 実際、ライカート映画の画面は尋常じゃなく暗い。どの作品でも夜はほとんど全くなにも見えないといってよいほどの暗さだ。もちろん、夜は暗いものだ。まして街灯などなく、ろうそくの火や焚き火しか明かりがなければ、それ相応の暗さになるのは当然である。だからライカート映画の夜は、本来の暗さをそのまま映し出すという、リアリティを追求したがゆえの暗さではあるだろう。しかしそのことに加えて、この暗さは政治的な選択でもある。周辺化されてきたものたちに光を当てて、メインストリームへと送り出すことは一見いいことに思えるが、その光を当てて目立たせるという方法はまた特権的なものを作り出し、ほかのものたちが周辺化されるだけだ。 だから、光を当てるより、影を見つめることをライカートは選択する。ライカートの暗さはリアリティや美点な観点から選択であると同時に政治的なものでもあるのだ。日本では『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』(13)というタイトルでリリースされたライカート監督長編5作目の原題は『Night Moves』。夜にうごめくものたち。光の当たる特権的なものたちに対して、ほとんどなにも見えない無数のものたちを注視するライカート映画の象徴するようなタイトルである。 ライカートの新作『ショーイング・アップ』は女性芸術家の映画だ。この映画のおもしろいポイントの1つは、芸術あるいは芸術家をまったく特権的なものとして描いていない点だろう。個展のために作品作りに苦悩する芸術家のお話なのに、まず描かれるのは、大家とのトラブル(お湯が出ない)だったり、鳩の世話だったりする。作品作りよりも鳩の鳴き声が気になってしょうがない映画なのだ。銃撃戦よりも小鳥の世話をしている『ミークス・カットオフ』が思い出される。 特権的なものではなく、周辺化されて、いままで描かれてこなかった無数のものたちを捉えるといっても、そんなものたち同士がわかりあい、特権的なものたちに対して連帯できるかというと、そう簡単にはいかない。ここにライカートの映画の厳しさがある。『リバー・オブ・グラス』のうだつの上がらない男女2人は、似たもの同士でありながら、いつまでもすれ違ったままだ。かつては親友だった中年の男2人が温泉に行き、戻ってくるだけの描いた恐るべきヒーリング映画『オールド・ジョイ』(06)は、本来手を組むはずの者同士が口論しあい、マウントの取り合いに陥ってしまう事態がさりげなく描かれる。『ミークス・カットオフ』の先住民と女たちの言葉の通じないコミュニケーションのあり方や、『ウェンディ&ルーシー』(08)のオレゴンの街の人々のよそよそしさもそこに加えてもいいだろう。 さらに『ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画』が主として描くのは、ダムの爆破ではなく、環境保護論者2人がダムを爆破したあと、仲間が自分のことを裏切るかもしれないという疑心暗鬼についてである。また、『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』(16)の相たいする人との気持ちを通わせることがついに叶わぬ孤独な女たちもいる。もちろん『ファースト・カウ』と『ショーイング・アップ』も描かれる時代も違えば、主題も違うが、どちらもやはり友情と孤独についての映画である。新作のこの2本は、厳しさというよりユーモラスな視線が強く出ているような気もするけれど。 今まで語られることがなかったものたち、正確には、どこかで誰かに語られていたはずが、いつしか影に隠れてしまったものたちを、丁寧に調査し、発掘し、その暗さと共に描き出す。そうして見えてくる無数の夜にうごめくものたちのコミュニケーションを厳しくもユーモラスに描かれる。それがケリー・ライカートの映画だ。 文/降矢聡