「川が干上がって火が消せない」【現地フォトレポート】能登大地震「極寒の被災地」の生々しい現実
「こんなに大きな火災になるなんて思ってもみなかった。地震で道が塞(ふさ)がっていて正規の消防車は入れず、入って来られたのは消防分団の車だけ。消火栓が壊れて水が出ないため、川も干上がって取水できなかった。延焼を防ごうとしても、どうしようもなかったんです」 【衝撃画像】正月の街を壊滅させた「能登大地震」 燃え広がる炎、倒れたビル…戦慄の現場写真 焼け野原となったかつての観光名所を前に、現地で洋装店を営む石畑雅英さん(63)はそう語った。地震発生から4日が経過した1月5日、FRIDAY記者は甚大な被害を受けた石川県輪島市の朝市通りを訪れた。現場には焦げ臭さが残り、かつては道だった場所も含め、一帯は瓦礫が積み上がっているばかりだった。地震後の生活について、石畑さんはこう続ける。 「私の家は運よく焼けず雨風は凌(しの)げるけど、焼けた人は家から取り出せるものすらない。先のことは考えられないし、考えても仕方ないですよ……」 1月1日に発生した「令和6年能登半島地震」は最大震度7、マグニチュード(M)7.6を観測した。10日時点で206人が死亡。52人が安否不明となっている。 FRIDAY記者は輪島市と同様に甚大な被害を受けた珠洲(すず)市も訪れた。道中、車道は土砂や巨大な岩石で塞がれ、長い渋滞が発生。通常、金沢から珠洲市までは2時間半ほどで到着するが、7時間を費やした。人口に占める高齢者の割合が50%を超える珠洲市には木造の家屋が多く、跡形もなく潰れた家も少なくない。この地域では昨年5月にも最大震度6強を観測する地震が発生したが、同市に住む90歳の女性は今回の地震について「比べ物にならないほど大きかった」と話す。 「90年間生きてきて、こんな地震は初めてです。前の地震より強い揺れが長く続き、立っていることもできませんでした。家は地震直後から電気と水が止まったままで。夜は冷えるから毛布にくるまって眠るしかない。本当に早くどうにかしてほしいです。復興のことなんて、今はとても考えられません」 ◆避難所生活の苦悩 地震による被害は、揺れによる一時的なものに留まらない。夜は氷点下にまで冷え込み、昼間は大雪が舞うなかで、被災者は避難所での生活を強いられている。1月7日、珠洲市の上戸小学校には201名が詰めかけていた。教室にいた60代の女性が避難所生活の苦労を明かす。 「ここでは食料や水は供給されているけど、着替えの下着が足りない。家に取りに帰ることもできないし。高齢者が多い分、持病の薬が切れてしまうのも怖いです。今は特例で、お薬手帳を持っていれば処方箋なしでも病院から薬が貰えるんですけどね。私もいつも服用している薬がなくなったので、供給されるまで2~3日は我慢しないと。昨日から自衛隊の入浴施設の提供が始まって、15分だけですけどお風呂に入れました。とてもサッパリして、気持ちよかった。ただ、この学校はいつか空けないといけないから、その時私たちはどこに行けばいいのかと、とても不安です。今の段階で、水道は復旧まで1ヵ月はかかると言われているし……」 小学校の別の教室に入ると、珠洲市の濱頭夋司夫(はまがしらとしお)さん(76)と妻のミネ子さん(76)が取材に応じてくれた。二人は津波を恐れて避難所にやってきたという。 「地震が起きた日、津波が怖くて避難しようと歩いていると、知らない男性に『俺の軽トラを貸すから、今日はここで夜を明かして! 後で必ず迎えに来るから!』と言われて、車中泊をしました。確か、介護の仕事をしている人だったと思います。次の日、彼は本当に迎えに来てくれて、おかげでこの避難所にたどり着きました。家は全壊して、住める状態ではありません。1年や2年では、とても復興なんてできないでしょうね……」 避難所に入る人がいる一方、水も電気もないまま自宅で過ごす人もいる。珠洲市に住む70代の女性はこう語った。 「避難所に行ったら、知らない人が周りにいるなかで眠らないといけないでしょう。それは嫌ですよ。感染症も流行っているっていう話もあるしね。避難所には、たまに水や食料を貰うために行くだけです。娘には『お願いだから避難所で過ごして』って言われているけど、私は自分の家にいるほうが落ち着くんです」 被災者を支援するスタッフによると、物資不足にくわえて、震災に乗じた空き巣や物資の盗難のリスクなど、心配事は絶えないという。地震発生からおよそ1週間が経過しても、被災者は今日明日を生きるのに精いっぱいなのだ。 ◆正月の街を壊滅させた、天災の爪痕 『FRIDAY』2024年1月26日号より
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